わたしのまちがいだった/わたしの/まちがいだった/草に座れば/それがわかる 「定本八木重吉詩集」より
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傲慢が人の体をとって暮らしているようなものである。我が物顔の善人になりたがる。神さまの鏡の前に来ると善人顔をした己の欺瞞が映し出されて小さくならざるをえない。彼はキリスト教の信仰に燃えている詩人である。詩人は野原に出て草の上に座った。青い草が匂った。見上げると春の空が広がっている。それですぐさま己の非を悟った。己のまちがいが分かると言うことは神の正しさ、神の清らかさ豊かさ、神の絶対性を信頼できたということでもある。
八木重吉はさぶろうの大好きな詩人である。高校生の頃に読み耽った。
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