さみしがり屋のくせに一人で居たがる。ヘン。さぶろうはヘンジン。さみしいなら、さみしくないようにすればいいのに。人の中にいたらいいのに。そうしない。そして、さみしいさみしいを言う。湿ったわくらばでいる。蚯蚓のように。
もしかして、さぶろうは寂しくしているのが好きなのかもしれない。人と離れたところにいる。そして、人を見ている。賑やかにしている人を見ている。遠くで人を見ているくらいで、潤うのかもしれない。それで十分なのかもしれない。
さみしがり屋のくせに一人で居たがる。ヘン。さぶろうはヘンジン。さみしいなら、さみしくないようにすればいいのに。人の中にいたらいいのに。そうしない。そして、さみしいさみしいを言う。湿ったわくらばでいる。蚯蚓のように。
もしかして、さぶろうは寂しくしているのが好きなのかもしれない。人と離れたところにいる。そして、人を見ている。賑やかにしている人を見ている。遠くで人を見ているくらいで、潤うのかもしれない。それで十分なのかもしれない。
ばかあ。眼鏡を掛けた上にまたもう一つを探して来て掛ける。カチャリの音でようやく気付く。何やってるやら。トンマ。こうやって老いの日々を生きている。それでも生きていることになる。もったいなや。
も少しましな生き方はないか。怒鳴られそう。弟は早くこの世をおさらばした。もっと生きたかったろうに。わたしは生きて、こうやってフシダラを生きている。すまない。
わたしは行動には移さない。想像のイミテーションで満たす。ヘンなニンゲン。これだと周りに迷惑が掛からない。つまり一人舞台の一人の劇場。これで自己満足を計る。小さい。おぼちょ。変質者かも知れない。
好きな人を遠くから見守る主義。同じ舞台には上げない。老いてもそれは変わらない。美しい人を美しく想像して終わる。
1000年追い求めていた女性に会った。その女性だと直感した。長い髪がくねっていた。途中にリボンが結んであった。美しい人を想像した。女性は二つ前の椅子に腰掛けて雑誌を読んでいた。声を掛けたいと思ったが、その勇気はとうとう起きなかった。さようならをした。次に会えるのは10000年先になるかも知れない。
わたしは宿の新聞を読んでいた。こちらを振り向いたときに、お顔をちらりと覗き見た。美しい人だった。
わたしは老爺。醜い老爺。それでも人に会いたがる。美しい人に会いたがる。
美しいあの人に会いたい。あの人は美しくしてある。幼い女の子が、お人形遊びをして着飾るように、わたしの想像の小箱の中に、あの人は美しくして眠っている。
その小箱を開いて、あの人に会う。現実のあの人に会うことはない。だから、イジケタ者のすること、勇気を持ち合わせない小心者のすること、これは。
想像の小箱があればいいのだ。醜くならない。年齢を重ねても醜くならない。そこがいいところだ。
現実ではないから、醜くならない。秋の夕日の中にその小箱を置くと、あの人が魔法を使って、扉を押し上げて現れる。そしていきなり美しく輝き出す。
ハーモニカを吹きたいのに、ハーモニカはない。リュックの中に、あるべきものがない。寂しいときなのに、それを紛らすことができない。仕方がない。ハミングをする。
♪♪♪♪ 秋の夕日に照る山紅葉🍁、濃いも薄いも数ある中に♪♪♪♪♪ ムムムムムムムムムムヌヌヌヌヌヌヌ
ハーモニカは上手? 上手じゃない。小学生のころに音楽の時間に教えてもらったけれど、ものにはならなかった。自転車に乗り習ったようにして自己流を通して、唇が耳にある音符を自然と吹くようになった。
音符🎵が書いてあっても読めない。耳に聞くと吹ける。でも、下手。己の寂しさを慰めるだけ。人には聞かせられない。歌う方がまだまし。
さてと。日を浴びに外に出るか。雨は止んで日が射している。爽やかな秋の日が。部屋の中にゴロンとなったままでいる。布団も敷いたままで。自堕落を決め込む。五階の部屋の窓からは雲仙岳の紅葉が遠く美しく見えている。
玉城康四郎著「無量寿経 永遠のいのち」を読んでいる。何度読んできたことだろう。愛読書だ。それでも読む度に新しい。新しい発見を恵まれる。そうだなあ、そうだなあと頷く。大学の仏教学者の玉城さんは九州の方。ひとり親愛の情を抱いて過ごした。会ったことはない。在家佛教誌上で講演録を随分読ませてもらった。もうこの世にはおられない。
「お注ぎしましょうか」と列に並んでいた一つ前の、年配のご婦人がコーヒーを注いでくださった。わたしはコーヒー椀を握っているだけですんだ。朝ご飯の時である。7時半、バイキング形式の会場は混雑していた。この2日間、誰とも会話せずに過ごしていたので、人様の親切があたたかく身に染みた。
会話なしという暮らし方はいいところとそうでないところとを併せ持つ。朝夕のご飯も一人、湯の中も一人、部屋に戻ってきても一人。一人だと会話が成立しない。
「お注ぎしましょうか」と列に並んでいた一つ前の、年配のご婦人がコーヒーを注いでくださった。わたしはコーヒー椀を握っているだけですんだ。朝ご飯の時である。7時半、バイキング形式の会場は混雑していた。この2日間、誰とも会話せずに過ごしていたので、人様の親切があたたかく身に染みた。
会話なしという暮らし方はいいところとそうでないところとを併せ持つ。朝夕のご飯も一人、湯の中も一人、部屋に戻ってきても一人。一人だと会話が成立しない。
温泉に入っていると、みなさんの健康体に目が行く。可なりの年配なのに、胸が出て尻が出て、みなさん筋肉量が凄まじい。筋骨隆々。鍛えてあるんだなあと思う。感心する。僕は見るからにその逆。貧乏な痩せオトコ。筋肉がない。倒れそうにしている。おまけに全身脱毛症。何処にも毛が生えていない。頭もつるんつるん。左脚は麻痺が残っていて、細い樫の木の棒で、膨らみがない。不健康体で醜い。男同士だけど、人目に晒すのは恥ずかしい。劣等感に苛まれる。
それでも温泉好き。体を隠して白濁の硫黄の湯に浸かる。