愛知県新城市。
「しんじょうし」
と、言われることがあります。
苗字で「しんじょう」という人も多いですし、ぱっと「新城」と見せられたら反射的にそう読んでしまう方が自然かも。
なぜ「しんしろ」と読むのか。
この地域には城が多く、新しい城ができて「しんじょう」と呼んでいたら、さらにその後新しい城ができてしまい区別するために「しんしろ」と呼び、それが定着したから、と、一般的に言われています。
では「しんじょう」とは何か、と、いいますと、今回ご紹介する「新城古城」です。
これは、田峯菅沼氏が新城市平井まで進出し大谷城を築きます。さらに天文元年(1532年)現在の石田字万福に城を築きます。この城を大谷の本城に対して新城(しんじょう)と呼んだとされています。
ちなみに「しんしろ」は、長篠合戦で篭城に成功した奥平信昌が現在の新城小学校の場所に築いた城です。
城が多い地域、ということがお解かりいただけるかと。
城ヲタが移住してくるのもお解かりいただけるかと。
さて、石田を歩こう会で石田城を見学したことは前回書きました。
その後、旧道を経て
※お好きな方にはたまらない、この曲がり具合!
石田陣屋跡へ向かいました。
※現在は普通の民地です。偲ぶよすががありません。
※覗き込んでいると怪しい人と思われそうなくらい普通の畑です。
ここは江戸時代の陣屋ですので戦国期の城とは役割が違います。役所と言った方が良いでしょう。
石田陣屋(1648年~1827年)は、菅沼定盈で有名な野田菅沼氏の後裔が治めていました。
野田菅沼氏は嗣子断絶になってしまし、取り潰しになるところを「あの菅沼定盈の家系だから」ということで、最後の当主の弟達に少ないながらも家を継ぐことを認めます。新城七千石と海老三千石です。
この人達、交代寄合衆です。大名は1万石以上を指しますので大名ではありませんが、参勤交代をする大名並の格式を認められた人達です。
海老(旧鳳来町海老)を治めた菅沼氏は石田の渡船場に陣屋を作り、年貢米などを運び出したりしていたそうです。
そのため、この辺りは物流の拠点として大変賑わいを見せたそうです。
※渡船場へ降りていく道。今は草が生い茂っています。
三千石でありながら体裁は大名並み、ということなので、金が要ったのか海老菅沼氏の統治は厳しかったと言われています。現地事務所の石田陣屋に対する不満が嘆願書として江戸へ出された記録が残っているそうです。
石田の十王堂と併せてみることで、当時の賑わいを偲んでみると良いかもしれません。
さて、いよいよ新城古城です。
私も訪ねようと思って行きましたが、人家の中に入っていく感じがして行けてなかった場所です。
※ほんと、入りにくい雰囲気なんです!
人の敷地を行くような感じの中、
※畑の道と言う感じです。
※人の庭へうっかり入り込んだような・・・。
しばらく行くと幽玄川にぶち当たります。
※ここらの川は崖に近い落ち込みをしますので天然の要害です。
東は幽玄川、南を豊川で防御し、東、北、西の三面に土塁を築き北面に門を構えたそうですが、大正2年に土塁を崩して堀を埋めてしまった為、今では東側の土塁が残るのみ、と、なってます。
※写真左手の高まりが土塁。
で、今回の歩こう会に併せて、土塁際の道を整備してくださったので、我々は歩くことができました。
石田合戦は、この辺りで行われたのだなぁ、と、想像しておりました。
城郭遺構的な楽しみはありませんが、市の名前の由来になった場所だけに、お時間があれば見てみるのも一興かと。
「しんじょうし」
と、言われることがあります。
苗字で「しんじょう」という人も多いですし、ぱっと「新城」と見せられたら反射的にそう読んでしまう方が自然かも。
なぜ「しんしろ」と読むのか。
この地域には城が多く、新しい城ができて「しんじょう」と呼んでいたら、さらにその後新しい城ができてしまい区別するために「しんしろ」と呼び、それが定着したから、と、一般的に言われています。
では「しんじょう」とは何か、と、いいますと、今回ご紹介する「新城古城」です。
これは、田峯菅沼氏が新城市平井まで進出し大谷城を築きます。さらに天文元年(1532年)現在の石田字万福に城を築きます。この城を大谷の本城に対して新城(しんじょう)と呼んだとされています。
ちなみに「しんしろ」は、長篠合戦で篭城に成功した奥平信昌が現在の新城小学校の場所に築いた城です。
城が多い地域、ということがお解かりいただけるかと。
城ヲタが移住してくるのもお解かりいただけるかと。
さて、石田を歩こう会で石田城を見学したことは前回書きました。
その後、旧道を経て
※お好きな方にはたまらない、この曲がり具合!
石田陣屋跡へ向かいました。
※現在は普通の民地です。偲ぶよすががありません。
※覗き込んでいると怪しい人と思われそうなくらい普通の畑です。
ここは江戸時代の陣屋ですので戦国期の城とは役割が違います。役所と言った方が良いでしょう。
石田陣屋(1648年~1827年)は、菅沼定盈で有名な野田菅沼氏の後裔が治めていました。
野田菅沼氏は嗣子断絶になってしまし、取り潰しになるところを「あの菅沼定盈の家系だから」ということで、最後の当主の弟達に少ないながらも家を継ぐことを認めます。新城七千石と海老三千石です。
この人達、交代寄合衆です。大名は1万石以上を指しますので大名ではありませんが、参勤交代をする大名並の格式を認められた人達です。
海老(旧鳳来町海老)を治めた菅沼氏は石田の渡船場に陣屋を作り、年貢米などを運び出したりしていたそうです。
そのため、この辺りは物流の拠点として大変賑わいを見せたそうです。
※渡船場へ降りていく道。今は草が生い茂っています。
三千石でありながら体裁は大名並み、ということなので、金が要ったのか海老菅沼氏の統治は厳しかったと言われています。現地事務所の石田陣屋に対する不満が嘆願書として江戸へ出された記録が残っているそうです。
石田の十王堂と併せてみることで、当時の賑わいを偲んでみると良いかもしれません。
さて、いよいよ新城古城です。
私も訪ねようと思って行きましたが、人家の中に入っていく感じがして行けてなかった場所です。
※ほんと、入りにくい雰囲気なんです!
人の敷地を行くような感じの中、
※畑の道と言う感じです。
※人の庭へうっかり入り込んだような・・・。
しばらく行くと幽玄川にぶち当たります。
※ここらの川は崖に近い落ち込みをしますので天然の要害です。
東は幽玄川、南を豊川で防御し、東、北、西の三面に土塁を築き北面に門を構えたそうですが、大正2年に土塁を崩して堀を埋めてしまった為、今では東側の土塁が残るのみ、と、なってます。
※写真左手の高まりが土塁。
で、今回の歩こう会に併せて、土塁際の道を整備してくださったので、我々は歩くことができました。
石田合戦は、この辺りで行われたのだなぁ、と、想像しておりました。
城郭遺構的な楽しみはありませんが、市の名前の由来になった場所だけに、お時間があれば見てみるのも一興かと。