四国の弾丸旅もいよいよ終わりをつげ、四国を離れて本州へ上陸する。
名残惜しい。
しかし、明日からのご飯を食べることを考えると帰らないわけにはいかない。
このまま帰ることも考えたのですが、やはり運転は2時間おきに休憩を挟むのが良い。
なにより、お尻に良い。
そこで目をつけたのが子午線の町にある明石城。
どうせなら百名城を潰しておくか、と、常ならばマニアックな縄張を持つ山城専門の私ですが、今回は折角の遠方。メジャーどころをまず抑えておきたい。
特に予備知識も無く、休憩ポイントとして訪れた城ですし、街中にあるので旅情ないと思いながら見に行きましたが、なかなかよかったです。
まず、ナビの案内に沿って図書館側から侵入したのですが、一旦淵のようなもので遮られるんですね。
※現地案内看板
そのあたりに虎口的な防備を発見して興奮。
※やっぱり土の城に興奮してしまう性質のようです。
しかも、その先には石積みがある。これで、自然地形ではなく人工造形物として虎口化されていたであろうことは十分に想像できる。この石積みがまた搦め手にあるせいか、若干の適当感があって微笑ましい。
こんな街中、城の周りは図書館だの野球場だの完全に近代的な公園施設に囲まれているにも関らず、こんな荒々しい土の造形が残っているのに驚くとともに感動。俄然やる気が出てくる。
元々この城、元和四年に二代将軍徳川秀忠の命により西国諸藩の備えとして藩主小笠原忠真に命じて作らせたものだとか。四国からの帰り道に寄れる場所にあるように、交通の要衝にあることから睨みを利かす必要でつくらせたのでしょう。城造りにあたって、小笠原は義父で姫路城主の本多忠政の指導をうけるように命じられたとか。この本多は、あのウンコを踏んでしまった本多忠勝の長男です。
さて、この城、どうやら天守のある本丸、二の丸、東の丸は連郭式的なつくりで丘の頂上を利用したような造りのようです。で、この東の丸への入口がまた複雑怪奇で、迷路状になっています。要は複数の道が最終的にここに収斂される造りになっているようで、どこがどう繋がっているのかわかりにくい。
※どこがどこへいくのだ。ワシは本丸へ行きたいのだ。
しかも、こんな立派な道があれば歩きたくなってしまう。
※そして遠回りすることになるが、それも致し方ない。城好きの悲しい性(さが)。
どう攻めていいのかよくわからんな、と、思いながら多分本丸だろう、と、思われる方向へ進む。
この城、曲輪の中では比較的低い垂直に切立った石垣で構成されています。
※似たような写真だらけになってしまい、どこがどこやら解りにくくて整理に困る。
とにかく散歩している人が多い。それに、新入生の来る時期。どこかの学生さん達がオリエンテーリング的なことをやってて、男女が取り混ざってなにやら先輩的な指導者の指示のもと、仲良くお遊戯的なことをして遊びに興じていました。ああ、ワシにはこんな明るい学生時代は無かったな、せいぜい、部屋に引きこもってスーファミをひたすらやってる、今なら非常に危険視される存在だったなぁ、と、感慨にふける。たまに学校に出てくれば学部の学問とは全く関係ないサークルの考古学研究会で古墳とか掘ってたし、周りからすればとんでもない人間だったな、と、懐かしく思う。今時の学生さん達が群れて楽しんでいる様を見て、ああ、リア充って彼らのこと言うのだろうか、と、思いながらも、よくよく集団を観察していると、その中でもモテのヒエラルキー的なものが少しずつ構成されつつあるような様が見受けられ、うむ、もっと観察していたい、と、思いながらも、そんなことしてると明日からの仕事に差し支えるので城を見学するという本来趣旨に立ち戻ることとする。
そんなどうでも良い事を考えながら本丸前の土橋に到着する。
石垣で作られた立派な土橋です。そして、門は既に無くなっていますが、櫓から狙われれているのはよくわかる。
さてこの櫓、こんな感じ。
ザ・櫓っていう感じがします。中が無料開放されていまして入ればこう。
障子があったりする点が珍しい。
この巽櫓は明石城築城前の小笠原の居城船上城の資材を利用したとか。
対するヒツジサル櫓はなんと伏見城などの資材を幕府から貰い受けたとか。
2番目の瓦が唐破風の上に千鳥破風、というなんともよくわからない破風破風づくしなのが珍しい。ちょっと変わっています。やっぱり伏見城の資材を使ったといわれるだけあり、優美な感じがします。
そして、この二つの櫓から見渡す明石市街はこう。
※殿様気分です。
さて、その後天守台へ移動。
結果的に天守は作られなかったそうです。
※遠くに見える集団が、例のヒエラルキーが形成されつつある集団。
縄張の妙を楽しみたい人間としては、モテラルキーの形成にも興味があるものの天守台から見える虎口の形状に興奮。
※捻じ曲げてくれています。
本丸からの虎口はこう。
下から見上げるとこんな高石垣が。ただ、丸亀城とか見てきた後だけに、若干荒さが見受けられる。やはり指導される必要がある技術力だったのか?たまにこんな石垣の下にもう一段あったりするのを見ると、今治城、丸亀城のように一気に高く積み上げる技術が無かったのか?と、思ったりする。ひょっとすると何か意味のあるスペースかもしれませんが、狭いし何に使うのか不明。やはり土留めとしての段構えではないかと。
しかし、縄張は見ごたえがあります。下の曲輪から本丸へ登ろうとすると高低差もさることながら複雑に屈曲した通路を通らねばならない。しかも櫓から丸見えの。
※攻撃されまくり。
このあたりの造形は見事です。
からの
そして、土の造形を見つけてやはり興奮。
虎口ですねぇ。やっぱり土の造形を読み解くことに喜びを感じてしまいます。
※ちなみにこの先は池。
大手門からでるとこんなに大きな堀が。
明石焼の店を探そうとしましたが、なかなかみつからず時間オーバーで断念したことだけは悔やまれます。
その後、250kmを運転して無事に帰宅。
四国弾丸旅行もこれにて終了。
弾丸一人旅が案外自分のペースで好きに回れて面白かった!
嵌ってしまいそうです。
名残惜しい。
しかし、明日からのご飯を食べることを考えると帰らないわけにはいかない。
このまま帰ることも考えたのですが、やはり運転は2時間おきに休憩を挟むのが良い。
なにより、お尻に良い。
そこで目をつけたのが子午線の町にある明石城。
どうせなら百名城を潰しておくか、と、常ならばマニアックな縄張を持つ山城専門の私ですが、今回は折角の遠方。メジャーどころをまず抑えておきたい。
特に予備知識も無く、休憩ポイントとして訪れた城ですし、街中にあるので旅情ないと思いながら見に行きましたが、なかなかよかったです。
まず、ナビの案内に沿って図書館側から侵入したのですが、一旦淵のようなもので遮られるんですね。
※現地案内看板
そのあたりに虎口的な防備を発見して興奮。
※やっぱり土の城に興奮してしまう性質のようです。
しかも、その先には石積みがある。これで、自然地形ではなく人工造形物として虎口化されていたであろうことは十分に想像できる。この石積みがまた搦め手にあるせいか、若干の適当感があって微笑ましい。
こんな街中、城の周りは図書館だの野球場だの完全に近代的な公園施設に囲まれているにも関らず、こんな荒々しい土の造形が残っているのに驚くとともに感動。俄然やる気が出てくる。
元々この城、元和四年に二代将軍徳川秀忠の命により西国諸藩の備えとして藩主小笠原忠真に命じて作らせたものだとか。四国からの帰り道に寄れる場所にあるように、交通の要衝にあることから睨みを利かす必要でつくらせたのでしょう。城造りにあたって、小笠原は義父で姫路城主の本多忠政の指導をうけるように命じられたとか。この本多は、あのウンコを踏んでしまった本多忠勝の長男です。
さて、この城、どうやら天守のある本丸、二の丸、東の丸は連郭式的なつくりで丘の頂上を利用したような造りのようです。で、この東の丸への入口がまた複雑怪奇で、迷路状になっています。要は複数の道が最終的にここに収斂される造りになっているようで、どこがどう繋がっているのかわかりにくい。
※どこがどこへいくのだ。ワシは本丸へ行きたいのだ。
しかも、こんな立派な道があれば歩きたくなってしまう。
※そして遠回りすることになるが、それも致し方ない。城好きの悲しい性(さが)。
どう攻めていいのかよくわからんな、と、思いながら多分本丸だろう、と、思われる方向へ進む。
この城、曲輪の中では比較的低い垂直に切立った石垣で構成されています。
※似たような写真だらけになってしまい、どこがどこやら解りにくくて整理に困る。
とにかく散歩している人が多い。それに、新入生の来る時期。どこかの学生さん達がオリエンテーリング的なことをやってて、男女が取り混ざってなにやら先輩的な指導者の指示のもと、仲良くお遊戯的なことをして遊びに興じていました。ああ、ワシにはこんな明るい学生時代は無かったな、せいぜい、部屋に引きこもってスーファミをひたすらやってる、今なら非常に危険視される存在だったなぁ、と、感慨にふける。たまに学校に出てくれば学部の学問とは全く関係ないサークルの考古学研究会で古墳とか掘ってたし、周りからすればとんでもない人間だったな、と、懐かしく思う。今時の学生さん達が群れて楽しんでいる様を見て、ああ、リア充って彼らのこと言うのだろうか、と、思いながらも、よくよく集団を観察していると、その中でもモテのヒエラルキー的なものが少しずつ構成されつつあるような様が見受けられ、うむ、もっと観察していたい、と、思いながらも、そんなことしてると明日からの仕事に差し支えるので城を見学するという本来趣旨に立ち戻ることとする。
そんなどうでも良い事を考えながら本丸前の土橋に到着する。
石垣で作られた立派な土橋です。そして、門は既に無くなっていますが、櫓から狙われれているのはよくわかる。
さてこの櫓、こんな感じ。
ザ・櫓っていう感じがします。中が無料開放されていまして入ればこう。
障子があったりする点が珍しい。
この巽櫓は明石城築城前の小笠原の居城船上城の資材を利用したとか。
対するヒツジサル櫓はなんと伏見城などの資材を幕府から貰い受けたとか。
2番目の瓦が唐破風の上に千鳥破風、というなんともよくわからない破風破風づくしなのが珍しい。ちょっと変わっています。やっぱり伏見城の資材を使ったといわれるだけあり、優美な感じがします。
そして、この二つの櫓から見渡す明石市街はこう。
※殿様気分です。
さて、その後天守台へ移動。
結果的に天守は作られなかったそうです。
※遠くに見える集団が、例のヒエラルキーが形成されつつある集団。
縄張の妙を楽しみたい人間としては、モテラルキーの形成にも興味があるものの天守台から見える虎口の形状に興奮。
※捻じ曲げてくれています。
本丸からの虎口はこう。
下から見上げるとこんな高石垣が。ただ、丸亀城とか見てきた後だけに、若干荒さが見受けられる。やはり指導される必要がある技術力だったのか?たまにこんな石垣の下にもう一段あったりするのを見ると、今治城、丸亀城のように一気に高く積み上げる技術が無かったのか?と、思ったりする。ひょっとすると何か意味のあるスペースかもしれませんが、狭いし何に使うのか不明。やはり土留めとしての段構えではないかと。
しかし、縄張は見ごたえがあります。下の曲輪から本丸へ登ろうとすると高低差もさることながら複雑に屈曲した通路を通らねばならない。しかも櫓から丸見えの。
※攻撃されまくり。
このあたりの造形は見事です。
からの
そして、土の造形を見つけてやはり興奮。
虎口ですねぇ。やっぱり土の造形を読み解くことに喜びを感じてしまいます。
※ちなみにこの先は池。
大手門からでるとこんなに大きな堀が。
明石焼の店を探そうとしましたが、なかなかみつからず時間オーバーで断念したことだけは悔やまれます。
その後、250kmを運転して無事に帰宅。
四国弾丸旅行もこれにて終了。
弾丸一人旅が案外自分のペースで好きに回れて面白かった!
嵌ってしまいそうです。