子ども創作能のご報告の途中ですが…
8月末日の夏休みが終わる時に、とかずっといろいろと言われてきました石巻市の避難所の閉鎖。ついにその日を迎えました。市ではこの日を以てすべての避難所を閉鎖しました。
ぬえが何度もお邪魔した湊小学校に駐在するボランティア団体は近所に別の拠点を構えて活動を継続。つい先日 能楽ワークショップを行った門脇中学校からは、ぬえらが東京に帰った直後に住人さんのリーダー格の方からのお知らせで、その会場となった体育館は学校に返上し、残った少数の住人さんは1階に移動、それも10日までに公民館に移って、完全に学校から退去するとのことでした(リーダーさんご自身も仮設住宅に入られた由)。最初は冗談で言っていたのに、ぬえらの「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」の活動は、はからずも本当に最初で最後の避難所での能楽の上演となったようです。

(写真は明友館サイトより拝借)
一時は200カ所以上、5万人の命のよすがとなった石巻市の避難所。もとより一時的なシェルターであり、そのご仮設住宅の建設や住宅の補修によって生活の場を再建し、やがて生活そのものを自立させるための一時的な施設であったのは事実なのですが、ぬえが6月から見てきた実態は、そのスケジュールの実現への期待とはかけ離れたものでした。
ぬえがお世話になった湊小学校では、震災時 数百人の避難者を収容し、その1週間後に予定されていた卒業式は延期を余儀なくされ、3月末にようやく図工室で行われた卒業式では自衛隊が見つけだした金庫に納められていた泥だらけの卒業証書が、この災害を記憶にとどめるために、あえてそのまま子どもたちに手渡されたそうです。その後も学校の再開は成らず、子どもたちは毎朝校庭に集まっては、バスで市内の住吉中学校の中に同居する形となった臨時の湊小学校に通うことになりました。
ひとつの校舎に小中ふたつの学校。どうしても無理はあり、中学校の行事の都合によっては小学校の体育の授業が公園で行われたりもした、と、同校でずっと撮影を続けるカメラマンの加藤さんから伺いました。ぬえが先日住吉中学校に伺った際も、湊小の子どもたちは明日から1泊の修学旅行だというのに、その前日に運動会の予行演習をしていました。

こうして学校の機能が失われ、震災の影響でスケジュールも崩れて、子どもたちも大変に窮屈な思いをしているわけですが、一方避難所となった湊小学校では…。ぬえが初めて訪れた6月には150名ほどの住人さんがおられました。その後の8月にも100名強、そして9月末には70名ほどの住人さんが残っておられ。着実に住人さんは定住の地を見つけて避難所を去られていました…が。ぬえがお会いした、避難所に残された住人さんは圧倒的に高齢者が多かったです。中には階段を上ってご自身の居室に向かわれるのも大儀そうな方も。仮設住宅に入って、生活を自力で再建する、という計画は、果たして誰にもあてはまるものなのか…
そうして仮設住宅はプライバシーは守れても、反対に「孤独」と向き合わざるを得ない二律背反な命題を抱えることにもなります。現実に、6月に避難所の掃除をしていた ぬえの耳に、さきほど笑顔で「ありがとね」と声を掛けてくださった おばあちゃんが、あちらで住人さんと話す声が聞こえてきました。「…私、いまは気が張っているけれど、ここを出たらどうなっちゃうかわからない…」……
食料の問題も深刻です。避難所では配食があるのですが、ぬえが最初に見た6月では自衛隊の炊き出しがあり、その時の食事はコンビニ弁当程度のものは用意されていました。意外に食事には問題がないようだ、とその時は感じたのですが、その後自衛隊が去った後の8月と9月の訪問では、どちらもパンか おにぎりにパック飲料、そうして果物がひとつ付くかどうか、という ひどい有様でした。炊き出しというのは本当に大変な作業で、工場で作ったパンなどを配るのが現実的なのでしょう。9月の訪問では、ぬえらの能楽の上演のほかのイベントといったら、ピザの炊き出し、うどんの炊き出し…炊き出しがすでに「イベント」と化していました。

(湊小学校体育館…配食準備を終えたボランティアさん)
この粗末で不健康な食事…しかし、9月当時で市内には1万人の食事の配給を必要としている人がいました。こうした食事のレベルで1日ひとりあたり千円の予算なのだそうで、ところがこの大量の被災者にすべて配食すると、1日に掛かる費用は1,000万円…ひと月で3億円の資金が必要という計算…。やはり各自が生活を再建するよりほかに手だてはないのか…? しかし雇用は民間の問題であり、そうして沿岸部の企業は壊滅に近い状態。そのうえ深刻な地盤沈下で旧北上川流域の河口部では数10cmも増水したらたちまち重大な水害になることは容易に想像できる有様。そうでなくても下水道の被害による日常的な冠水…生活を再建しようにもどこを見ても矛盾と、山積した問題ばかりなのだ、ということがわかります。



避難所が解消され、仮設住宅には行政による食料支援は行われないとも聞きます。しかし現実には仮設住宅への移動が生活の再建の1歩になっているとはとても言えない現状も数多くあるわけで、これからは ますます民間のボランティア団体の活動が重要になってくるでしょう。その援助は食料にとどまらず、「孤独」の問題に対処するために戸別の訪問をして安否を確認するなど、これまでよりも困難で精緻な作業が重くのしかかてくるものと思われます。
6月に初めて石巻の被災者支援団体「明友館」に伺ったとき、リーダーの千葉恵弘さんから「被災者への支援は数年間は続けなければならないでしょう」とお話を伺いましたが、それは仮設住宅へと住人さんが移ったことで、避難所とは比べものにならないほど難しい作業になる事をも同時に意味していたのでした。
いま、我々に何ができるか…? やはり原発ばかりでなく、広く被災の実態を忘れず、その現状を把握して、支援を…できれば赤十字などの大口の団体ばかりではなく、こうした草の根の活動をしている民間ボランティア団体に直接支援を行うことだろうと ぬえは確信します。そのために、こうした団体も国民に広く活動を認知できるような、そんな、ひと目でわかりやすい支援のシステムができればな、と ぬえは思います。今回の訪問でも何人かのボランティアさんとはそういう話をしたのですが、果たしてこれから、避難所を離れて活動する民間支援団体が連携できることを期待しています。
ぬえら「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」も、活動の場は以前とはずっと違ったところになるでしょう。でも、少なくとも学校がその本来の機能を取り戻し、子どもたちの笑顔がそこに戻ることは、やはり大きな1歩と考えなければ。ぬえたちも、以前のように学校の中で子どもたちに能楽を見せてあげたいと思っています。
最後に、今回は湊小学校とその周囲を見て頂こうと思います。
石巻市立湊小学校は市街中心部からほど近いとはいえ、旧北上川を隔てた対岸に位置しています。以前にも市街地から離れた地区は瓦礫の撤去や建物の取り壊しなどの作業が遅れている、ということはご報告したと思います。被害が甚大だった門脇地区では道路にアスファルト舗装がされるほど復旧作業が進んでいたのに驚きましたが、川ひとつを間においた湊地区では震災から7ヶ月を経た現在でも、漁船が陸に乗り上げ、破壊された建物がそのまま残されています。湊小学校に通う子どもたちは、今でもこの景色を見ながら通学している…
石巻・湊地区(9月29日)
それでも ぬえに大きな衝撃を与え、経験を積ませて頂いた湊小学校。ここで出会ったボランティアさんや住人さんからは人間の偉大さ、崇高な心を まざまざと感じました。

湊小学校、ありがとう! いつかまた訪れることができますように。
8月末日の夏休みが終わる時に、とかずっといろいろと言われてきました石巻市の避難所の閉鎖。ついにその日を迎えました。市ではこの日を以てすべての避難所を閉鎖しました。
ぬえが何度もお邪魔した湊小学校に駐在するボランティア団体は近所に別の拠点を構えて活動を継続。つい先日 能楽ワークショップを行った門脇中学校からは、ぬえらが東京に帰った直後に住人さんのリーダー格の方からのお知らせで、その会場となった体育館は学校に返上し、残った少数の住人さんは1階に移動、それも10日までに公民館に移って、完全に学校から退去するとのことでした(リーダーさんご自身も仮設住宅に入られた由)。最初は冗談で言っていたのに、ぬえらの「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」の活動は、はからずも本当に最初で最後の避難所での能楽の上演となったようです。

(写真は明友館サイトより拝借)
一時は200カ所以上、5万人の命のよすがとなった石巻市の避難所。もとより一時的なシェルターであり、そのご仮設住宅の建設や住宅の補修によって生活の場を再建し、やがて生活そのものを自立させるための一時的な施設であったのは事実なのですが、ぬえが6月から見てきた実態は、そのスケジュールの実現への期待とはかけ離れたものでした。
ぬえがお世話になった湊小学校では、震災時 数百人の避難者を収容し、その1週間後に予定されていた卒業式は延期を余儀なくされ、3月末にようやく図工室で行われた卒業式では自衛隊が見つけだした金庫に納められていた泥だらけの卒業証書が、この災害を記憶にとどめるために、あえてそのまま子どもたちに手渡されたそうです。その後も学校の再開は成らず、子どもたちは毎朝校庭に集まっては、バスで市内の住吉中学校の中に同居する形となった臨時の湊小学校に通うことになりました。
ひとつの校舎に小中ふたつの学校。どうしても無理はあり、中学校の行事の都合によっては小学校の体育の授業が公園で行われたりもした、と、同校でずっと撮影を続けるカメラマンの加藤さんから伺いました。ぬえが先日住吉中学校に伺った際も、湊小の子どもたちは明日から1泊の修学旅行だというのに、その前日に運動会の予行演習をしていました。

こうして学校の機能が失われ、震災の影響でスケジュールも崩れて、子どもたちも大変に窮屈な思いをしているわけですが、一方避難所となった湊小学校では…。ぬえが初めて訪れた6月には150名ほどの住人さんがおられました。その後の8月にも100名強、そして9月末には70名ほどの住人さんが残っておられ。着実に住人さんは定住の地を見つけて避難所を去られていました…が。ぬえがお会いした、避難所に残された住人さんは圧倒的に高齢者が多かったです。中には階段を上ってご自身の居室に向かわれるのも大儀そうな方も。仮設住宅に入って、生活を自力で再建する、という計画は、果たして誰にもあてはまるものなのか…
そうして仮設住宅はプライバシーは守れても、反対に「孤独」と向き合わざるを得ない二律背反な命題を抱えることにもなります。現実に、6月に避難所の掃除をしていた ぬえの耳に、さきほど笑顔で「ありがとね」と声を掛けてくださった おばあちゃんが、あちらで住人さんと話す声が聞こえてきました。「…私、いまは気が張っているけれど、ここを出たらどうなっちゃうかわからない…」……
食料の問題も深刻です。避難所では配食があるのですが、ぬえが最初に見た6月では自衛隊の炊き出しがあり、その時の食事はコンビニ弁当程度のものは用意されていました。意外に食事には問題がないようだ、とその時は感じたのですが、その後自衛隊が去った後の8月と9月の訪問では、どちらもパンか おにぎりにパック飲料、そうして果物がひとつ付くかどうか、という ひどい有様でした。炊き出しというのは本当に大変な作業で、工場で作ったパンなどを配るのが現実的なのでしょう。9月の訪問では、ぬえらの能楽の上演のほかのイベントといったら、ピザの炊き出し、うどんの炊き出し…炊き出しがすでに「イベント」と化していました。

(湊小学校体育館…配食準備を終えたボランティアさん)
この粗末で不健康な食事…しかし、9月当時で市内には1万人の食事の配給を必要としている人がいました。こうした食事のレベルで1日ひとりあたり千円の予算なのだそうで、ところがこの大量の被災者にすべて配食すると、1日に掛かる費用は1,000万円…ひと月で3億円の資金が必要という計算…。やはり各自が生活を再建するよりほかに手だてはないのか…? しかし雇用は民間の問題であり、そうして沿岸部の企業は壊滅に近い状態。そのうえ深刻な地盤沈下で旧北上川流域の河口部では数10cmも増水したらたちまち重大な水害になることは容易に想像できる有様。そうでなくても下水道の被害による日常的な冠水…生活を再建しようにもどこを見ても矛盾と、山積した問題ばかりなのだ、ということがわかります。



避難所が解消され、仮設住宅には行政による食料支援は行われないとも聞きます。しかし現実には仮設住宅への移動が生活の再建の1歩になっているとはとても言えない現状も数多くあるわけで、これからは ますます民間のボランティア団体の活動が重要になってくるでしょう。その援助は食料にとどまらず、「孤独」の問題に対処するために戸別の訪問をして安否を確認するなど、これまでよりも困難で精緻な作業が重くのしかかてくるものと思われます。
6月に初めて石巻の被災者支援団体「明友館」に伺ったとき、リーダーの千葉恵弘さんから「被災者への支援は数年間は続けなければならないでしょう」とお話を伺いましたが、それは仮設住宅へと住人さんが移ったことで、避難所とは比べものにならないほど難しい作業になる事をも同時に意味していたのでした。
いま、我々に何ができるか…? やはり原発ばかりでなく、広く被災の実態を忘れず、その現状を把握して、支援を…できれば赤十字などの大口の団体ばかりではなく、こうした草の根の活動をしている民間ボランティア団体に直接支援を行うことだろうと ぬえは確信します。そのために、こうした団体も国民に広く活動を認知できるような、そんな、ひと目でわかりやすい支援のシステムができればな、と ぬえは思います。今回の訪問でも何人かのボランティアさんとはそういう話をしたのですが、果たしてこれから、避難所を離れて活動する民間支援団体が連携できることを期待しています。
ぬえら「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」も、活動の場は以前とはずっと違ったところになるでしょう。でも、少なくとも学校がその本来の機能を取り戻し、子どもたちの笑顔がそこに戻ることは、やはり大きな1歩と考えなければ。ぬえたちも、以前のように学校の中で子どもたちに能楽を見せてあげたいと思っています。
最後に、今回は湊小学校とその周囲を見て頂こうと思います。
石巻市立湊小学校は市街中心部からほど近いとはいえ、旧北上川を隔てた対岸に位置しています。以前にも市街地から離れた地区は瓦礫の撤去や建物の取り壊しなどの作業が遅れている、ということはご報告したと思います。被害が甚大だった門脇地区では道路にアスファルト舗装がされるほど復旧作業が進んでいたのに驚きましたが、川ひとつを間においた湊地区では震災から7ヶ月を経た現在でも、漁船が陸に乗り上げ、破壊された建物がそのまま残されています。湊小学校に通う子どもたちは、今でもこの景色を見ながら通学している…
石巻・湊地区(9月29日)
それでも ぬえに大きな衝撃を与え、経験を積ませて頂いた湊小学校。ここで出会ったボランティアさんや住人さんからは人間の偉大さ、崇高な心を まざまざと感じました。

湊小学校、ありがとう! いつかまた訪れることができますように。