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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

活動報告書(2014.03.10~11)

2014-05-07 08:42:34 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト
第20次被災地支援活動
(2014年03月10日~11日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」では、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに19度に渡り岩手県釜石市、陸前高田市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難していた旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびプロジェクトメンバーのうち能楽チームの八田、寺井は、去る03月10日~11日の2日間に渡り宮城県・気仙沼市にて短歌の朗読会への参加、ボランティアのパーティへの出演、および災害ラジオへの出演を行いました(※注2)。

今回の活動で特筆すべきは、もちろん3回目となる震災の日に活動を行ったことです。これまでプロジェクトでは震災の日には石巻市で活動をして参りましたが、今回ははじめて気仙沼市で震災の日を迎えることとなりました。また石巻での震災の日はほとんど一日中上演会場にとどまっていましたが、今回ははじめて市内の様子を見ることができ、また市が主催する追悼会にも参列することができました。改めて震災を悼む日を被災地で過ごすことが出来、有意義な活動であったと思います。

反面、震災の日の前後にはおよそ能楽の上演ができる雰囲気ではなく、実際の活動には受け入れ先が見つかるか心配ではありました。が、気仙沼市民であり、プロジェクトの活動の良き理解者・協力者である村上緑さんの活躍によって、震災の日に気仙沼市では高名な「煙雲館」にて短歌の朗読会が開かれることがわかり、そこに出演させて頂くことができました。当日は韓国の歌人・李承信さんの朗読会も大変心動かされ、また終了後の懇親会も興味深いものであったのですが、煙雲館のご当主である鮎貝文子さまには大変親切にして頂き、この5月には能楽ワークショップを開催させて頂くお話しにまで発展することができました。

そのほか1年前の活動時からすれ違いが続いていた住民ボランティアの伊藤雄一郎さんが主催する音楽ボランティアさんたちのパーティにて上演させて頂いたことは、催しそれ自体はとても心温まるものであった反面、会場となった伊藤さん経営のワインバーが被災建物を改造したもので、いまだに震災のすさまじい状況を鮮明に伝えていることに衝撃を受けました。こちらでは伊藤さんの協力スタッフさんから、いま気仙沼で大変問題となっている防潮堤をめぐって、いろいろな暗部の話を伺ったことも心に残ります。また「けせんぬま災害FM」に出演させて頂いたことも特筆すべきで、これは石巻で2年前に出演させ頂いて以来のことでした。

3.11の震災の日には気仙沼市でも様々なイベントが行われていました。大規模なものとしては光の柱を空に向けて立ち上げる「3月11日からのヒカリ」プロジェクトが、これは震災の1年後から毎年行われているものです。これを見ることは念願でありましたが、このたびようやく実現することができました。またやはり住民ボランティアの杉浦恵一さんの「ともしびプロジェクト」が気仙沼女子高で行ったイベントを見たり、さらに震災の日に合わせて放送された震災時の再現テレビドラマを当事者の方の家で一緒に見たり。。自分たちの能の上演以外の面で、かつてないほど多くのイベントや行事に参加することになったのも印象深いことでありました。

なお、長らくプロジェクトでお預かりしていました義捐金を、今回ようやく気仙沼市のNPO団体「ネットワークオレンジ」さんに寄付することができました事も併せてご報告させて頂きます。

【出演者】
八田達弥、寺井宏明(能楽の心と癒やしプロジェクト)
【協力者】(敬称略)
 村上緑/伊藤雄一郎/鮎貝文子/けせんぬま災害FM
【主催】
 能楽の心と癒やしプロジェクト

【活動記録】(敬称略)
 3月10日(月)
八田・寺井早朝東京出発、午前中に気仙沼に到着し、村上緑さんをピックアップして、次回の活動の会場と決まった北野神社を下見。突然の訪問ながら宮司さまも在宅しておられ、打合せも済ますことができた。

その後松岩の「けせんぬま災害FM」スタジオへ移動

◎けせんぬま災害FM「にじなま」出演
14:00 ~ 謡と笛の実演「松風」 出演(八田・寺井)トークには村上緑さんも出演
スタジオは防音設備もない個人のお宅の一室ながら、プロジェクトの活動の宣伝もして頂き、大変ありがたい活動となりました。

その後煙雲館に移動、翌日の朗読会の打合せ。夕方より伊藤雄一郎さん主催のライブに出演

◎ボランティア グループのパーティへの出演
18:00 ~ 能「羽衣」 出演(八田・寺井)
会場「WINE BAR風の広場」は被災建物の2階の一部を改装したもの。外観も震災当時のままで、電気も一部しか通じていない状態で、真っ暗な控室が楽屋となりました。参加者は若者の音楽ボランティアさんのグループで、大船渡などで活動を行い、この日が打ち上げパーティーを兼ねたライブ。プロジェクトとしては被災者ではなくボランティアさんたちを対象としたねぎらいの意味での上演でありました。参加者は若者ばかり10数名ながら熱心に能を見てくださいました。その後スタッフさんから防潮堤の問題やそれにまつわる暗部の話を聞き、複雑な思いでした。

 3月11日(火)

◎李承信さん短歌朗読会への参加 13:00
能「羽衣」 出演(八田・寺井)
李承信さんは韓国で唯一の歌人で、同じく歌人だった母の影響による親日家。震災を受けて日本を悼む歌を出版し、気仙沼市内でこれまで朗読会を開き、この日は落合直文の生家で、庭園が気仙沼市の文化財指定を受けている煙雲館にて朗読会を開かれるとのことで、村上緑さんの交渉によりこのたびプロジェクトとしても朗読会に華を添えることができました。参加者50名ほど。

終了後、ちょうど震災の時間2:46となり、参加者全員にて黙祷を捧げました。その後懇親会となり、列席しておられた気仙沼のユニセフ団体の先代の会長さんの老婦人がかつて謡の稽古をしておられたとのことで、一緒に「羽衣」「猩々」の謡を同吟するなど、思いがけない出会いもありました。

その後リアス・アーク美術館で今後の活動についての相談をし、美術館の隣の総合体育館・ケー・ウェーブにて気仙沼市が主催する「東日本大震災追悼式」に参列。式典は2:46に合わせて開かれていたので、このときはすでに終わっていたものの、献花だけは夕刻まで可能とのことで、そこにのみ参列しました。さらに杉浦恵一さんの「ともしびプロジェクト」が廃校が決まった気仙沼女子高で開いた、生徒が校舎に感謝を捧げるイベントにも参加。
そのイベントが行われた気仙沼女子高の3階教室から「3月11日からのヒカリ」の投射を見、それから以前にもお世話になった市民の協力者の方のご自宅にてNHKによる震災の再現ドラマを鑑賞。この協力者の方は、ドラマの原拠となった事件の直接の当事者で、当時の状況をこと細かに教えて頂きました。

3月12日(水)

笛のTさんは東京の舞台出演の都合により早朝に気仙沼を出発、午前中、気仙沼のNPO団体「ネットワークオレンジ」事務所を訪問し、募金としてお預かりしていた義捐金を寄付しました。午後、気仙沼のシンボルのような存在の安波山に車で上り活動を終了、深夜に東京に帰着しました。


【収入・支出】

プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われております。震災から3年が経ち、現在ではほとんど新規の募金が集まらなくなり、活動資金は大変厳しい状況にあります。

募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂くこととしてお預かりさせて頂いておりました。このたびギエの残金32,500円は気仙沼市で活動するNPO団体「ネットワークオレンジ」さんへ寄付させて頂き、これを以てすべての義捐金の配布が終了しました。

プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として 138,998円(内訳:ギエ106,498円ギエ32,500円)があり、また銀行の利息として13円の収入がありました。これによって今回の活動資金の総額は139,011円となります。

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りで、今回の活動終了時の残額は 55,601円(ボラのみ)となりました。大変心細い金額で、年末年始の19次活動の際に期待していた企業さまからの補助金が受けられなかったため、資金の予定が大幅に狂った事は否めません。しかしながらこれらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。また多方面からの助言もあり、今後は被災地での活動もイベント系の催しに関しては少額の入場料を頂いたり、募金箱を設置するなどの方法も視野に入れて検討しております。

仮設住宅における活動については今後も入場無料を堅持する方針ですが、かつて活動資金の枯渇のために撤退したボランティア団体は数多くあり、活動資金の調達は息の長い運営のための大きな課題のひとつだと思います。

プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。宿泊につきましては、従来は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊ができましたが、街が落ち着きを取り戻しつつある昨今では旅館などに宿泊する機会も増えてきました。この場合にも宿泊費はおおよそ5,000円まで、素泊まりを旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

【成果と感想・今後の展望】
今回は3年目を迎えた震災の日を、今年も被災地で迎えられたことをまずは喜びたいと思います。被災地を巡る状況は刻一刻と変化を続けており、昨年まで震災の日に活動を行ってきた石巻の湊小学校は新年度からの再開に向けて工事が行われていたため使用不可となり、一時プロジェクトは活動の場を失ってしまいました。そこを気仙沼の各方面にお話しを繋いでくださったのが市民の村上緑さんで、お礼の申しようもありません。村上さんはその後も事実上プロジェクトの気仙沼現地事務所のような立場で活躍してくださり、プロジェクトの活動の場を開拓してくださっております。

このように市民との連携で活動を行えるようになったのはプロジェクトの活動のひとつの成果と言えるでしょう。石巻にも同じようにプロジェクトのために奔走してくださる方があり、また活動にお邪魔するたびに募金をくださる方もおられます。しかしながらプロジェクトの活動は2~3ヶ月に1度というペースで、なかなかいつも活動を心待ちにしてくださる方がおられる街でコンスタントに活動をすることが出来ず、不義理を続けている状況もあります。

一方、震災3年目を迎えてプロジェクトへの募金はほとんどなくなり、またこれまで我々プロジェクトの資金面の支援をしてくださったボランティア団体からの支援も途絶えてしまった厳しい現状もあります。今後は東京で支援頂ける企業などを探す一方、被災地でもイベントとしての催しは入場料制にするなど、運営の方法を模索して行かねばならないと痛感しております。

しかしながら、今回の活動では市指定文化財の庭園を持ち、伊達藩の家老職だった名門・鮎貝家の居宅であり、また歌人の落合直文の生家でもある「煙運館」で活動することができ、現ご当主の鮎貝文子さまには大変厚遇を頂きました。文子さまからはその後もご協力を頂き、この5月には煙雲館にて有料の能楽公演とワークショップを開かせて頂く予定になっております。

また石巻ではついに機会がなかった公式の追悼会に出席させて頂き、さらに3.11の日に催された他団体の催し。。伊藤雄一郎さん主催のボランティアさんのパーティーや「ともしびプロジェクト」の気仙沼女子高でのイベント、そして「3月11日からのヒカリ」に、それぞれ参加させて頂いたり拝見させて頂くことができたことも、被災地に寄り添う意味ではじめての生きた経験だったと思います。伊藤さんのスタッフさんや鹿折マルシェ、鮎貝さんなど、市民や関係者の方々から震災当時のことや気仙沼の現状について様々なお話しを伺うこともでき、これも印象深く、意義深い経験であったと思います。

震災3年目を迎え、仮設住宅や仮設商店街もいずれは解消されて、いずれは次の段階へと進んでいくことになりますが、我々の活動もその時々の状況に応じて形を変えていく事になります。息長い支援のために皆さまの変わらぬご支援をお願い申し上げる次第です。


平成26年5月7日







                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
                              E-mail: QYJ13065@nifty.com

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その13)~ネットワークオレンジへ寄付。。と安波山

2014-05-02 01:08:14 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【3月12日(水)】

今回の活動は前日までにすべて終了、この日は東京に帰るだけです。笛のTさんは次の目的地に向けて早朝に宿を出て駅に向かい、この日は ぬえは一人で帰ることになります。

とくに急ぐ予定もなかったため、午前中はのんびりと気仙沼で過ごすことにしましたが、まずは忘れてはならない、義捐金を届けるために「ネットワークオレンジ」さんの事務所に向かいました。

ぬえたちプロジェクトは震災後の活動開始時点より募金を頂いて活動資金とさせて頂いておりますが、震災の年には ぬえたちプロジェクトの活動資金のほかに被災地の人々のために役立ててほしい、という趣旨の義捐金をお預かりしていました。この義捐金は現地に根を下ろして支援活動を続ける信頼の置けるボランティア団体に寄付させて頂くこととし、過去には石巻で活動する「明友館」「チーム神戸」の2団体に数度に渡り寄付させて頂きました。

その後 ぬえたちプロジェクトの活動の場も気仙沼や登米市などに広がって行き、また被災地の状況も変わって来ました。義捐金が ぬえたちプロジェクトに託されることもなくなり、そうして少額の義捐金は銀行口座に残ったままになっていました。それを寄付するべき団体の模索は続けておりましたが、気仙沼で出会った障害児童支援団体の「ネットワークオレンジ」が ふさわしかろう、ということになり、この日お届けさせて頂いたのでした。

「ネットワークオレンジ」さんは震災前から活動を続ける団体で、障害児童の支援にとどまらず、気仙沼の経済活動を活性化させるための事業。。起業家支援などを大規模に展開しておられ、震災を受けて復興のためにさらにスピードを上げて活動しておられます。ぬえとのお付き合いももう2年に及ぶと思いますが、なんと言っても今回の寄付の決め手は、この5月に東新城地区に新拠点を開所された際に ぬえもお邪魔させてお祝いさせて頂き、このとき代表の小野寺美厚さんから「次に震災が起こった時には私たちがここを拠点に立ち上がって支援活動を行います」というお言葉を聞いたことに尽きるでしょう。今回の寄付の金額は3万円強ではありましたが、これも募金された方の熱い想いが込められた大切なお金です。すべての義捐金を寄付するのに時間はずいぶん掛かってしまいましたが、復興はこれから益々難しい段階にさしかかります。有益に使って頂く団体に寄付できたと自信を持ってご報告できると思います。

東新城を出て、昼食は鹿折マルシェの団平さんにて! 共徳丸が撤去され、かさ上げ工事のために仮設の道路が出来たりで鹿折もだいぶ様相が変わりました。団平さんによれば共徳丸がなくなってからお客さんは以前の1/20にまで減ったそうですが。。この日は団平さんは定休日だったのですが、ぬえと同じように気仙沼で活動する人が集まるということでお店を開けて頂き、だいぶ賑わっていました!

最後に安波山(あんばさん)に上ってみることにしました。安波山は気仙沼のシンボル的な存在の山です。標高はそれほど高くないし、単独峰のように目立つ山でもないのですが、ちょうど内湾を見下ろす位置にあって、気仙沼の街を抱く格好になるのですね。鹿折地区からはさらに偉容が望めます。

じつはこの安波山、頂付近まで立派な舗装路が通じていて、車で上がることができるのです。それで緑さんと一緒に山頂を目指したのですが、いや。。その「立派な舗装路」にたどり着くまでの道が複雑で、かなり奥まで入り込んでから道を間違ったことに気づいて延々とバックで戻ったり。。住民さんに道を聞いたり、かなり難渋しながら、ようやく道を見つけて山頂近くの駐車場までたどり着きました。

うん、たしかに絶景ですね! 気仙沼の写真というと時々見かける俯瞰図はここから撮影したものだったのか。ビデオ撮ったけど写真撮り忘れた!

。。が、次第に天候が崩れてきて、小雨。。いや小雪も降ってきました。だんだんと視界も利かなくなってきたので山を下りました。

一路 一関から東京に向けて帰還! これにて今回もミッション・コンプリートです!
3.11という日に気仙沼にいられた幸せをかみしめて、まずは今回のご報告もこれにて一旦終了とさせて頂きます~

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その12)~「3月11日からのヒカリ」

2014-05-01 19:53:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
先週、第21次の活動を終えて帰ってきたばかりですが。。すみません、まだ3月の活動のご報告の続きです。

3月11日の夜、気仙沼では3本の光の柱が立ち上がります。「3月11日からのヒカリ」というこのプロジェクトは震災の1年後のその日から行われていて、今年で3回目になるのだそうですが、3.11にはいつも石巻にいた ぬえはこの日初めてそれを見ることができました。

夕方18:30、防災無線から「見上げてごらん夜の星を」が流れると、引き続いて内湾地区を取り囲むように3カ所から一斉に「鎮魂・希望・感謝」を表す光の柱が立ち上がりました。ん~、ちょっとコンパクト・デジカメでは厳しいですか。淡い青い柱が、これはプラザホテルの周辺から立ち上がっているところ。



しかし、実際には肉眼では はっきり映って見えていました。この日は「ともしびプロジェクト」さんの企画で気仙沼女子高の構内に入ることができましたから、思わずもとても良い条件で見ることができました。雲ひとつなく、そうして空には明るい月が出ていました。まるで満月かと思いましたが、あとで月齢を調べてみると、半月を少し過ぎた程度であったようです。ここ、気仙沼女子高の3階のベランダからは、3本の光の柱がその月に向かって伸びているように見えました。

やがて気仙沼女子高を出て駐車場に戻り、笛のTさんを宿に届けると、緑さんと再び内湾地区に行ってみました。光の柱が立ち上る、その現場をちょっと見てみようかと。。



先ほど見たプラザホテルのそばが一番近いようだったので早速そこへ。そこは小山の頂上に建つホテルに上がるための道路の中腹にある駐車場でした。巨大な投光器2基と、さらに巨大で騒音をあげている発電機。やっぱり ここまで大掛かりな計画となると大変な規模で行われるんだな、と実感。



その後 緑さんをお友達の小山さんのお宅まで送って、ぬえは一時宿に帰り休息しました。が、この日はまだこれで終わりじゃないのです。

この夜、NHKでは震災に関連するドラマ「生きたい たすけたい」を放映する予定になっていました。覚えておられるかなあ、震災の夜、公民館に避難した母親が迫る津波と火災に死を覚悟して送ったメールが、これを受け取ったイギリスに住む息子さんの手を経てツイッターで次々と拡散し、ついに当時 東京都副知事だった猪瀬氏の知るところとなって、翌朝救援ヘリが到着した、というお話し。これは気仙沼の中央公民館で起こった実話です。

ところが緑さんのお友達の小山さんは、なんとその中央公民館の中に事務局がある福祉団体の職員さんで、まさにこの時 公民館に取り残されて救援された人々の中におられました。そこで、この日は緑さんは小山さんのお宅でこのドラマを一緒に見よう、という話になっていて、ぬえもお邪魔させて頂くことになっていたのでした。

宿からは徒歩で行ける距離の小山家でドラマを見ましたが、「セットにしてはよく公民館の内部が再現できている」「私たち被災者は、だって! この頃はまだ被災者なんて言葉は使ってなかったよね~」とかまあ、盛り上がりながらドラマを見たのでした。屋上の2つの建物に別れての避難の様子とか(近所から避難してきた保育園児を励ましながらの一夜、という様子は小山さんは別の建物にいて見ていないそう。でも煙がひどくてあちらの建物は大変だったろう、とのこと)、避難してきた中に水産工場で働く外国人もいて、国民性の違いを感じた話など、興味深いお話しを伺いました。それにしてもヘリでは一度に少人数しか運べず、400名を超える避難者の救出には何日も掛かったのだそうで、やはり大変な体験だったのでした。

やがて深夜に ぬえは宿に帰りました。この日は朝から煙雲館での催し、震災の時間。。2:46の黙祷、ケーウェーブでの公式追悼会への参列、ともしびプロジェクトの気仙沼女子高でのイベント、「3月11日からのヒカリ」、そうして小山さんのお宅で体験談を伺うなど、めまぐるしかったけれども3.11らしい濃い体験をすることになりました。

「3月11日からのヒカリ」の投光時間は深夜0時まで。小山さんのお宅を辞した頃にはもう光の柱は消えていました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その11)~「ともしびプロジェクトin気仙沼女子高」

2014-04-24 01:36:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼女子高は港に面した高台の上にカマボコ型の体育館が見える、いわばひとつの気仙沼のシンボル的な建物で、内湾地区からはよく目立って見えます。ああ、山が迫っていて敷地が狭いから校舎の上に体育館を建てたのね。。とは思うけれど、まさか中に入ってみる機会が訪れるとは思いませんでした。

じつはこの気仙沼女子高、この春に統合されて廃校になるのだそうです。それで友人の杉浦恵一さんが主宰する「ともしびプロジェクト」という、震災の月命日の毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動を全国展開しているボラ団体が、3.11の夜に教室でキャンドルを灯すイベントをすることになりました。なんでも在学生と一緒に手作りキャンドルを作って、震災の犠牲者への追悼の意味もあり、また校舎への感謝も表すための催しだそうで、この夕べは区域は限定されてはいましたが、一般の人も学内に入ってこの催しに参加することができたのでした。

元のエースポートのあたり。。いまは大島へのフェリー乗り場がポツンとあるだけの空き地になってしまった場所に車を停めて女子高に向かいました。ああ、やはり女子高は見上げるほどの高層建築です。まず入口まで階段を上り、さらに坂道を上って昇降口に入り、そこから2階、3階、4階まで教室は積み重なって。。そのうえ体育館はさらにそれより上階。。これは生徒さんも大変だ。



さて今回の会場となった4階に上がってみると、もう廊下からキャンドルが並べられていて、すでにロマンチックな雰囲気になっていました。



そうして教室は、キャンドルを並べて「ありがとう」の文字が浮かび上がり、並べられたままの机の上にもキャンドルが。人はごった返していたし報道の方もありましたが、歩き回るのが困難、という程の混雑でもなく、ぬえは時々 授業中と同じ様子に並べられたままの机から椅子を引き出して、それに座って休息しながらキャンドルを眺めることもできました。





こちら、緑さんに ぬえからポーズ注文して撮った写真~



杉浦さんの「ともしびプロジェクト」とは去年の夏、地福寺でのお盆の送り火の催しで『羽衣』を舞ったとき、たくさんのキャンドルを灯してくれて、大変ロマンチックな催しになりました。それからのお付き合いですが、昨年秋の ぬえの師家の学校公演で鹿折を訪れたときにもお目に掛かったし、なんだか もともとの性分なのかすぐに誰とでも仲良くなってしまう性格の方ですね~。この日は奥様と去年生まれたばかりのご長男にも会うことができました~

さてこうしているうちに夜も暮れてゆきました。
窓から見下ろすと、内湾全体が一望に。やっぱり海がある街は良いなあ。



この日は上演こそ煙雲館のみでしたが、朝の楽屋入りからずっと移動が続いていて、笛のTさんはちょいとお疲れ気味。でもこれからまたもう一つイベントを見る予定でした。

それが「3.11からのヒカリ」。その開始時刻ももうすぐです。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その10)~追悼式典に参列

2014-04-21 08:36:57 | 能楽の心と癒しプロジェクト
煙雲館を辞して、まずは以前に催しをさせて頂いたリアス・アーク美術館にお伺いして打合せ。その後、3.11のこの日、3年目にして念願の公式な追悼式典に参列することができました。

気仙沼市の「東日本大震災追悼式」は、山の中腹にある「総合体育館」で、「ケー・ウェーブ」という愛称がつけられています。大勢の人が集う集会を行うのには気仙沼市内では最も適した建物で、ここは震災時には避難所にもなり、現在でも敷地内に仮設住宅が建てられていました。

はじめて訪れた追悼式。この日は一般車の乗り入れは禁止され、市内各地から送迎バスが運行されていました。が、ぬえたちが打合せをしたリアス・アーク美術館からはほど近く、2つの建物を結ぶ遊歩道がありましたので、ぬえたちは美術館に車を停めたままで徒歩で体育館に向かいました。

ケー・ウェーブは、何度かその前を車で通りかかったことはありますが、はじめて近くで見ると、近代的で立派な建物でした。震災の時間。。2:46に合わせて気仙沼市による追悼式典が行われたのですが、その時間は煙雲館で上演中だった ぬえたちはそこには参列できず。しかしながら献花は夜までできるという事で、そちらだけ参列させて頂きました。





夕方に伺った体育館は閑散としていましたが、市によって献花のための花は用意されていまして、アリーナに設けられた祭壇に献花させて頂きました。

市による追悼式の様子はYoutube で紹介されていますね。

あ! 献歌をしているのは、去年の秋に学校公演でお邪魔した鹿折小の子どもたちじゃないか!

この日、同じ時間に東京の国立劇場では国による追悼式典が行われていて、「黙祷・内閣総理大臣の式辞・天皇陛下のおことば」が気仙沼の式典会場に生放送されたそうです。

国式典での天皇陛下のおことば
市式典での菅原市長さんの式辞

これまでの2回の3.11は石巻にいましたが、ほとんど湊小学校の楽屋。。体育館のステージの上にいて、あまり市内を見回ることができませんでした。この日は震災から3年を経て、はじめて気仙沼で、震災のその日に向き合う街の姿を間近に見たような気がします。

普通の、いつも通りの街並み、人や車の流れでありながら、やはり みんなが3.11を意識しながら。。街中では笑顔も多く見ましたが、式典会場は重い空気。。やはり恐ろしい災禍がこの街で起こったことは忘れてはならないです。

ケー・ウェーブに到着した頃に傾き初めていた陽も、ぬえが会場から出てきたときにはすでに没しかけていました。こうして次の目的地、「ともしびプロジェクト」の活動の様子を見に、気仙沼女子高に向かいました。




第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その9)~黙祷。。と煙雲館での楽しいお茶会

2014-04-20 04:05:29 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11(さん、てん、いちいち)が震災の日であるように、2:46(に、てん、よんろく)という言葉があります。あの大地震が起こった時間です。この日、この時間、被災地ではあの日と同じように防災サイレンが鳴らされ、それを合図に1分間の黙祷が犠牲者に捧げられます。

毎年3.11には被災地にいるようにしている ぬえですが、これまでの2回の震災の日には石巻の湊小学校におりました。どちらも上演の合間に、校庭でサイレンの音を聞きながらビデオにその瞬間の時間を収めています。そうしてそのどちらの日も一日中上演のために湊小学校に詰めていたので、市内のほかの場所の様子を見ることはありませんでした。当時湊小学校はすでに避難所としての役目を終えて、しかしながら津波の被害を受けていたために学校の再開の目途はまだついておらず無人の状態でしたが、震災の日だけは追悼集会が開かれて避難所当時の住民さんたちの再開の場となっていました。

その後湊小学校は今年4月に再開されることになり、工事のため3.11に集会を開くことは不可能の状態になったのですが、そんなこともあって ぬえは今年の震災の日は気仙沼におりました。そうして2:46のそのとき、ぬえは煙雲館にいたのです。

李承信さんの朗読会もこの時間に重ならないように終わりとなり、2:46には会場のお座敷でみなさんで黙祷する呼びかけがなされましたが。。 ぬえは独自に2回、震災の年を過ごしてきましたので、この日も申し訳ありませんが個人的な思いでその時間を迎えさせて頂くことにしました。

煙雲館の玄関を出ると、ちょうど正面、すこし離れたところに海が広がっています。ここ、片浜からは大海原が広がっている、という感じよりは、左側には大島が遠景に見え、正面から右側には地福寺がある波路上地区が見えます。眼下にはほとんど更地となったけれど、元は住宅が密集していたという片浜地区。

毎年のように海に向けてビデオカメラをセットして、2:46の直前に録画スイッチを押して、ぬえ自身は両手を合わせて黙祷します。このとき。。



同じように玄関から外に出ていた若いご家族がありました。やがてサイレンが鳴り響き。。もう上空には報道のヘリコプターの騒音はなく、静かに手を合わせるつもりでいたのですが、このご家族の幼い2人の子どもたちはこの日の意味をよくわからず、はしゃぎ廻っています。

最初は(ビデオを回しているのに)サイレンの音のほかに子どもの歓声がまじることに困惑した ぬえ。子どものママさん。。たぶん煙雲館の当主・鮎貝さんのご家族かも。。も黙祷する時間にはしゃぎ廻る子どもたちをたしなめていましたが、黙祷の時間に大声で叱るわけにもいかず、子どもたちは相変わらず歓声をあげています。

ふと。。 ぬえは、自分でも意外でしたが、これって。。良いな。。と考えました。

もとより2:46は死者を悼むための時間ではありますが、そこに交じる、まさに生の象徴たる子どもたちの声。それは生を謳歌する喜びの音であって、それは被災地の再生を約束する希望の響きに ぬえには聞こえたのです。震災から3年。この時期になって ぬえもようやくそう考えられるようになったのかもしれません。そういえばこの新年。はじめて心から「あけましておめでとうございます」って気仙沼で言えたような気がする。震災の年の暮れにも石巻で年越しをしましたが、そのとき除夜の鐘を撞きながら同じ言葉をつい気軽に口にして「そうじゃないでしょう。。この土地の人々はみんな喪中なんですよ。。」と たしなめられて恥じ入った ぬえ。あれから2年経って、ようやく同じ言葉を心から言えるようになりました。あの時点から生き残った みんなは進んで行かなければならない。この時はしゃいでいた子どもたちは、それを ぬえより先に率先して実行していたように思います。

黙祷が終わり、ママさんは ぬえに子どもたちの騒ぎを詫びましたが、ぬえはお礼を返しました。。

こうして印象的な煙雲館での催しが終わりました。振り返って母屋を見ると、ガラス戸を開け放って朗読会の参加者の方々もみなさん顔をそろえていらっしゃいます。ああ、みなさん海に向かって黙祷されていたのですね。。

さて2:46が過ぎると、煙雲館のお座敷では李承信さんを囲んで懇親会が開かれました。黙祷からうって変わって楽しい催し。これも震災から3年を経て ようやくここまで来たか、という感じですね。

ここでもまた面白い事がありました。

李さんとも親しくお話しさせて頂き、鮎貝さんらによって振る舞われたおいしいお食事やお茶も頂戴したのですが、おこがましくも特等席を用意して頂き、お隣には どういう関係でしょう、おばあちゃんがお二人。最初はあまり会話の糸口もなかったのですが、おばあちゃんのお一人が「謡はいいねえ」と ぬえに話してくださいまして、するともう一人のおばあちゃんも「この方はずいぶん謡やお仕舞もお稽古されたんですよ」と ぬえに教えてくださいました。

そのうちお稽古の当時を思い出されたのか、さきほど上演した『羽衣』のキリを口ずさみ始められたので、ぬえも すかさず助吟。。おばあちゃんが 少々つっかえながら謡っているのは、よく聞けば宝生流の謡のようでしたが、おぼろけながら ぬえも宝生流の節まわしが多少耳に入っていましたので、観世流なんだか宝生流なんだかわからない情けない助吟を勤めました。。が、「もう一人のおばあちゃん」も「この人がこんなに謡っているところなんて、もう何十年も見ていないのに。。」と喜んで頂くことができました。

あとで伺えば、宝生流のお稽古をしておられた おばあちゃんは気仙沼で福祉活動を続ける団体の元・会長さんとのこと。片浜地区にお住まいのため、煙雲館についても「ここは昔の殿様の御殿で、我々のような一般の者は入ることもできなかったんだよ」と教えてくださいました。

おいしいお茶もご馳走になって、楽しい会合も続いていましたが、ぬえたちは次の予定のため煙雲館を辞しました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その8)~李承信(イ・スンシン)さんの朗読会

2014-04-19 02:07:38 | 能楽の心と癒しプロジェクト
着替えが終わって ちょっとひと休み。さてお座敷の方を見てみるとビデオの上映が行われていました。

それはこの日短歌を朗読される韓国歌人の李承信さんとの活動を紹介したドキュメンタリーでした。同じく歌人であった母君への思いを強く持っておられることから母が思いを寄せた日本や短歌に彼女も惹かれていったこと、その日本で起こった未曾有の災害。。東日本大震災を受けて、被災者に寄り添うつもりで短歌を詠まれたこと、実際に被災地を訪れた様子、そして気仙沼の南町の「カドッコ」。。ここは ぬえたちも何度か上演を行った児童のためのフリースペースですが、ここで行われた短歌の朗読会の場面。。いま日本と韓国はいろいろな摩擦の面ばかりが取り上げられていますが、やはり個人としてここまで日本に思いを持ってくださる方もあるのです。ちょっと涙なくしては見られない映像でした(現に見所のあちこちから涙をぬぐう気配が伝わってきました)。



そのあとに実際に李さんによる短歌の朗読が行われました。

胸深き哀悼に膝を折りし夜 神様どうか神様どうか

花だけの春などあろうはずもなし 春の来たらぬ冬もまたなし

前者は ぬえが心動かされた歌。
後者は緑さんが良い、と言っていた歌。しかもこの歌は李さんもお気に入りのようで、彼女の名刺にこの歌が印刷されていました。





災害や絶望。。この震災で味わった苦難に寄り添いたいと思う ぬえと、過去を乗り越えて未来に希望を見いだそうとする緑さんや李さん。ちょっと思いの違いが垣間見えて面白かったです。あるいは性差の問題か? または ぬえが震災のショックからただ立ち直れていないだけか。。?

李さんは日本語はあまり得手ではないようで、上記短歌も韓国語で書かれたものを邦訳したものだそうです(ここまで読んで疑問に思われた方もあるかもしれませんが、この短歌とは日本固有の詩である和歌のことで、李さん<とその母君も>は韓国人でありながら日本の短歌を詠む歌人なのです)。母への思いが言葉のあちこちに見出される。。その母君・孫戸妍(ソン・ホヨン)さんについてのお話しは追い追いにわかってきましたが、これがまたすごいものでした。

孫さんは1923年東京生まれで、生後まもなくソウルに帰りましたが東京帝国女子専門学校に留学し、そこで短歌と出会いました。帰国後も短歌を詠み続けて6冊の歌集を出版し、韓国のこと、韓国人のこと、日韓のこと、最愛の夫への愛を終生2000首の歌に綴りました。特筆すべきは孫さんは一貫して日本語で短歌を詠み続けたことで、終戦後、韓国内で日本文化に対して批判や嫌悪が巻き起こってもその姿勢は変わることがありませんでした。そのことは日本国内で共感を呼び、青森県六ヶ所村に歌碑が建立されたほか、1998年正月には「宮内庁歌会始」に韓国人として初めて招待され、日韓文化交流に寄与した功績が認められて2000年には韓国の金大中大統領から花冠文化勲章が授与され、2002年には日本の外務大臣からも表彰されました。

李さんは母への憧憬から短歌を詠まれたのだと思いますが、また現在彼女は日本語でなく韓国語で短歌を詠んでいるのではありますが、実質を考えれば韓国で唯一の歌人なのです。そうして母が亡き今、母が思いを寄せた日本に起こった大震災に心を痛め、隣国の友人として心をこめた歌を詠み、来日してその歌を披露した。。その美しい心に ぬえは心打たれます。こういう出会い。。震災後の東北でいくつ遭遇しただろう。ぬえは幸せだと思いますね。

朗読会が終わる頃。。3年前の震災の、その時間がやって来ました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その7)~煙雲館にて能『羽衣』を上演

2014-04-11 19:25:28 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【3月11日(火)】

震災から3年目のその日、朝食はそれぞれでした。この常宿はコンビニにも喫茶店にも近いので便利です。ぬえは例によって宿の向かいにある格安の弁当屋さんで弁当を買い込んで部屋で朝食。睡眠障害の ぬえもこのところ早朝に起きだして一人で視察に廻ることが少なくなったな。やっぱり疲れがたまっているのか。。?

午前10時に宿を出て緑さんをお迎えに行き、昨日ご挨拶に伺った煙雲館に楽屋入りをしました。前日とはうってかわって暖かい日で、海も輝いて見えました。

この日の催しは短歌の朗読会で、その中にプロジェクトも出演させて頂くことになっていました。早めに到着して準備を進めていると、島田呉服店の芦立厚子さんがやって来ました。芦立さんのお父さまは宝生流の謡の稽古をしておられる方で、ぬえたちプロジェクトの活動にもとても協力頂いております。かつて呉服店の売り場に泊めて頂いて活動したことも。伺えば芦立さんは以前こちら。。煙雲館のおとなりにお住まいだったそうです(!)。 しかし片浜と呼ばれるこの地域は、今はちょっと高台にある煙雲館こそ地震にも津波の被害からもかろうじて無事でしたが、ここを境に低い土地はすべて流されてしまいました。もとは海が見えないほど家が建ち並んでいた地区だったそうですが。。だから芦立さんの以前のお住まいももう土台しか残されていませんでした。。

やがてお客さまも続々とお集まりになり。。総勢で50名ほどはおられたのではなかろうかと思います。ちょっと道中のトラブルで遅くなりましたが、今回の朗読の方。。韓国の歌人・李承信(イ・スンシン)さんもお見えになりました。

少々押し気味のスタートでしたが午後1時頃に開演。最初に鮎貝家ご当主の文子さんからのご挨拶があり、緑さんが能楽解説をして(ををっ、そこまで育ってくれたか!)、まずは能『羽衣』の上演から始まりました。







本当は ぬえ、美しい庭園で舞いたかったけれど、前日には雪もちらついていたこの寒さではお客さまも大変なので、お座敷で舞わせて頂きました。庭園を背景に舞うと、正面の座敷に大勢のお客さまがいらっしゃいましたが、ぬえから見て左側。。地謡座の方向に「貴賓席」があって、李承信さんや来賓の方々が座っておられましたので、少々型を変えて時々地謡座の方向を正面に取ったりしながら舞わせて頂きました。昨夜のライブの時もそうでしたが、こちらも短歌の朗読会にお集まりになる方々だけあって、熱心にご覧になっておられるのは ぬえからも良くわかりました。今回は能の上演時間を30分と長く取って頂いたそうでしたので、サシも謡い、破之舞もある本格バージョン。トメは謡の中で廊下を歩んで消え去る小書の型に致しましたが、もとより地謡はおりませんので、すべて ぬえが自分で謡いながら舞うのです。これだけの分量だとちょっと大変でしたが無事上演は果たすことができました。







控室に戻って装束を片づけて。。

その間に朗読会の準備も着々と進んでいるようでした。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その6)~「風の広場」ライブに出演

2014-04-09 01:14:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうして1時間ばかり休憩を取って宿を出発、「風の広場」に向かいました。

昼間見てもすごい状態の被災建物ですが、夜見るとまた迫力が。。(^_^; でも「風の広場」の内部は(照明が限られていることもあって)なかなかの雰囲気でした。

ライブはすでに始まっていましたが、ほかの出演者とお話ししたり、歌い手さんのMCを聞いてみると、どうも出演しているのは歌を届ける活動を仮設で行ってきたボランティアさんのようですね。事前にあまり情報がなかったのですが、活動を終えたボランティアさんの打ち上げというか、記念パーティーみたいなもののようです。





ま、こういう事もありますし、それで良いと ぬえは思っています。以前にもボランティアさんのねぎらいのような上演は何度か経験していますし、喜んで頂けるのは被災地域の方ばかりに限る必要もないわけで。

こうして上演準備に取りかかりました。伊藤雄一郎さんからは我々だけの個室の控室をご用意頂いていましたが。。んー、昼間見たときは良いかなーと思ったのですが、なんせ電気が一部しか通っていないとのことで。。案の定控室に明かりは一切ありませんでした。でした。です。

トップ画像がそれですが、壁のLEDライトは こんな事もあろうかと ぬえが車に積んでいたもの(100均で買いました~)。ぬえの車…レイちゃん3号は東北での活動を始めてから、それまでの乗用車じゃ荷物や物資が積み込めないので買いなおした車で、最近こそ寝袋なんかは使わなくなったけれども、そういったボラ基本装備はひと通り積んであります。LEDライトは小型も含めて3つ積んでありましたが、まさかこんな形で活躍することになるとは(笑)

まあ、これまでいろんな場所で上演してきましたが、真っ暗な控室はこれが初めて。かなり手探り状態で着付けを始めましたが、2階のトイレの前のスペースだけは煌々と電気が点いているのを発見して、装束の着付けはそこで行うことにしました。着付けの途中でトイレに用足しに来た人たちはびっくり(笑)

音楽ボランティアさんの演奏を聞きながら、大体知らされていた出演時刻が迫ってきたので面を掛けて出番の準備。控室は「風の広場」の外にあったので、登場はお店の正面入口からになります。津波の被害は2階にも及んでいたので、ほとんどコンクリートむき出しの床に立って登場のタイミングを待っていましたが。。それから10分ほども待ったでしょうか。その間に足先からしんしんと冷えてきました。


これ、わかるかしら。立っている床は波打ってひび割れているのです。。

この日は震災から3年目を迎えるその前日。震災の日もこの日の昼のように雪が降っていました。この記事を書いているのが4月上旬。。東京では考えられないことですが、東北では4月になっても小雪が舞うことがあるのだそうです。この夜は装束を着ているから身体にはそれほど感じませんでしたが、コンクリートの床に触れる足袋はだしの足は だんだんと感覚が鈍くなってくるほど。。震災のとき、津波に流されながらかろうじて陸に上がれた人も多かったそうですが、服が濡れたまま山で一夜を過ごした方もあったそうで、この寒さから推測すると、それはかなり厳しい状況だったでしょう。。実際、低体温症で亡くなった方も多かったように聞いていますし。。

やがて笛のTさんの解説に続いて能『羽衣』の上演を致しました。プロジェクターでスライドを背後の壁に流しながら、その前での上演でしたので、プロジェクターの光が真っ直ぐに眼に入ってきて、こちらも少々舞うのは大変だったのですが。。時折見える見所の様子を見てみると。。

前の方で一日のイベントでお疲れの伊藤さんはちょっと眠たそうでしたが (^_^; 後ろの方の席でご覧になっている若い女の子のグループ(多分、音楽ボランティアさん)が真剣に見てくださっているのが良く伝わってきました。こういうのって良いですね。仮設住宅などで上演するのとはまた違った喜びがあります。

終演は、謡いながら登場してきた入口に消え去るつもりで歩み出したのですが、開け放していたはずの扉をどなたかが閉めてくださったようで、そこを入口だと思いこんだ ぬえはそのまま、扉の隣りのガラスに激突して終わりました (^◇^;)。 急いで面をはずして、挨拶はしないつもりだったのですが、真剣に見てくださった彼女たちに敬意を表して「みなさんは同じボランティア仲間ですね? これからも一緒にがんばりましょう!」と叫んで、拍手のうちに終演。いや、良い催しだったと思います。


上演画像は菅原圭子さんのfacebook投稿から拝借しましたm(__)m

ボランティアさんや伊藤さんはPA機器の片づけも手伝ってくれましたが、やがて予約してある打ち上げのお店にお出かけになり、ぬえたちは着替えと装束の後片づけに時間がかかるのでそれには合流しませんでした。どうせカギも掛からないお店ですし、片づけをようやく終えて退出しようとしましたが。。ぬえたちに気を遣ってスタッフさんが居残ってくださっていました。

お店の窓から暗くなった。。けれどプラザホテルなどの灯りに照らされて美しく見える港を見下ろしながら、気仙沼の復興や未来について、いろんな話を。。3~40分はしていたのではないかなあ。市民だからこそ見えるビジョンや明るい夢や希望。。それに反して山積する現実に立ちはだかる課題。。中には、ちょっとここでは書けないような政治的な黒いうわさ話まで。。やっぱり ぬえのような、たまにしか当地にやって来ない人間には どうする事も出来ない問題もたくさんあります。無力さを感じて暗い気持ちになる一方、ぬえのようなよそ者に、こうして心を開いてくれる人が多いのが気仙沼の特長。。魅力なのかな、なんて、なんだか無頓着なことも考えていた ぬえでした。

結局晩ご飯を食べ損ねた。そんなこともあろうかと、楽屋入りの前にコンビニ弁当。。いや、それは無理だろう、サンドイッチなど少しは持ち込んでいたのですが、ほとんど食べる時間もありませんでした。もう10時をまわったこの時間に開いているレストラン。。は、手近なところでは やっぱり宿のそばの気仙沼ホルモンのお店しかありませんな♪ ああ、幸せ。

こうして活動初日は怒濤のように過ぎました。緑さんをご自宅まで送って、深夜にようやく就寝。

明日は震災3年目の、その日。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その5)~煙雲館へご挨拶に

2014-04-07 15:30:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「風の広場」にPA機器を降ろし、さきほど出演したばかりの松岩に戻り、翌日の公演のために煙雲館にご挨拶に伺いました。

途中で緑さんと岬状に海に突き出た被災地区の先端まで行ってみました。そこにはカモメ。。ではなく、これはウミネコなんですって。脚が黄色いのと尾羽が黒いのがウミネコなんだそうで。水産工場なども少しずつ建てられてきたようですが、まだ広大な空き地ですね。



松岩。。先日地図を見ていて考えたのですが、JR気仙沼線の駅としては「松岩」という名称ですけれども、そして近くには松岩小学校も、松岩保育所も、気仙沼警察署松岩駐在所も、あまつさえ松岩寺まであるんだけれども、この辺りの地名は「松崎」のようですね。古くは本吉郡松崎村という名だったそうです。また気仙沼にはこれとは別に近くに「赤岩」という広大な地域があるので、松崎と赤岩を一緒にして「松岩」なのかなあ。

それはそうとこの松岩周辺もかなり被害があった地域です。気仙沼市街から東浜街道を南下してくると、最初に大きく開けた地域が見えてきます。その向こうには海。ここが松岩で、津波によってすっかり姿を消してしまった集落の跡なのです。これは震災3ヶ月後からずうっとそうでしたね。東浜街道から続く国道45号線はこれより南。。南三陸町の方面に向けて走ると山間を通ったりまた海の近くに下りたりを繰り返すのですが、海岸近くに下りてくると そこは おしなべてだだっ広い荒野。。所々に破壊されたままの家が残る集落の跡地でした。

東浜街道を松岩に下ってきて、さて煙雲館の方角。。海のある方へ曲がろうとしたとき、緑さんが言いました。。「ここに信金があって。。震災直後に4000万円が盗まれたんです」。。あの事件か! 震災直後に気仙沼で被災した銀行から多額の現金が盗難に遭ったという話は覚えていますが、それがここ、気仙沼信用金庫の松岩支店での出来事だったのでした。今となってはその場所さえ定かにはわからないほど、ただの荒れ地になってしまっていて、わずかに仮設商店街の「まついわココサカエル商店街」がある程度。。この仮設商店街での活動もずっと考えてはいたのですが、上演するスペースがなくて、実現には至っていません。。

さて海の方へ曲がってみると、もう辺りには何もありません。すでにレールも取り払われたJR気仙沼線の踏切の跡が痛々しいですが、これもすでに ぬえたちには見慣れた光景。。(・_・、)



さてこの日打合せにお邪魔させて頂いた「煙雲館」というのは伊達家の家老職の家柄だった鮎貝家の居館で、幕末から明治にかけて活躍した歌人で、門人から与謝野鉄幹を輩出した落合直文の生家として知られています。「砂の上にわが恋人の名をかけば 波のよせきてかげもとどめず」の短歌は近代文学として初めて「恋人」という言葉を使ったとして、被災した南気仙沼駅前に石碑が建てられていました。南気仙沼駅は、それはそれは ひどい被害を受けていて、瓦礫が片づけられて駅前ロータリーが姿を現したのは震災から2年ほど経った頃ではなかったかしら。その時 ぬえも初めてこの歌碑を見ました。

到着してみると、先ほどから降る雪化粧で、これまた見事な庭園。。庭園は気仙沼市の文化財として登録されている、とは聞いていましたが、荒れ野から少し上がった程度の場所で、これほどのものとは思いませんでした。



緑さんの案内で現当主の鮎貝文子さんとご挨拶させて頂きましたが、お屋敷の中には古文書が額に飾られてあったり、部屋から見渡すと、これまた庭園が見事です。ちょっとした高台にあるお屋敷からは海の向こうに大島も借景のよう。









お菓子を振る舞われた文子さんは上品な方で、ああ、それに対してコーヒーを所望し、お菓子は「どうぞ」と言われる前に手をつける野人・ぬえ。ま、いつもの事ですが。遠慮、という言葉が ぬえの辞書にはないからなあ。

しかし。。文子さんから伺ったお話は大変なものでした。。

震災のとき文子さんは近所の公民館? におられたそうですが、地震のあとすぐに帰宅。お屋敷は被害がなかったので安心したのですが、その後津波が襲来して、文子さんは裏山に逃げたのだそうです。津波は煙雲館の駐車場まで押し寄せ、それでもそこで止まりました。しかし周囲では津波により大きな被害が出て。。考えてみればここは松岩でも「片浜」と呼ばれる地域ですね。ずいぶん被害が大きかった所のはずだけど、ちょっとした地形の高低で生死を分けた場所のひとつです。

その後もまた、去年からは気仙沼市の瓦礫の処分のために焼却場が、こちらやお隣の波路上地区で作られて、昼夜を問わず作業が行われたのだそうです。騒音も相当にあったようですが、今年に入って焼却作業が終了すると、なんと現状復帰のために焼却場の撤去は土台のコンクリートをはがすまで徹底的に行われ、照明は電線の撤去まで行われたのだそう。処理中は深夜でも煌々とライトを点けて騒音を立てながら作業していたのに、処理が完了するとまた元の周囲に人家がなくなった真っ暗闇の状態になってしまったそうです。

さて打合せも順調に進みました。翌日は韓国人の歌人・李承信さんの朗読会で、そこに急遽出演させて頂く事になりましたので、出番としては前座ですが、上演時間とか注意点など文子さんは てきぱきとアイデアや指示を与えてくださいました。

これで翌日は安心、ということで またまた市内に戻り、再び「風の広場」へ。ここでやっと伊藤雄一郎さんと顔を合わすことができました。伊藤さんも「やっと会えましたね~」と ぬえたちをねぎらって下さって。

ライブはまだリハーサルの段階だったのでPA機器のセッティングを終えて、ちょうど風邪が流行っていた頃で出演者は少なくなったとのことでしたが、ぬえたちの出番はトリとのことでしたので、ようやく宿にチェックインしてしばし休憩。そういえば昨晩3時に東京を出発してから、はじめての休憩でした。

とは言っても、どうも楽屋の状態もあまり良くない様子だったので、ぬえは部屋で装束の支度を進めておくことにしました。1時間半ばかり休んでようやく出演に向けて出発~

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その4)~「WINE BAR 風の広場」

2014-04-06 20:51:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼災害FMへの出演が終わった頃、年輩の男性の方がスタジオの窓をノックされました。放送中だったらどうするんだろう。(^_^;) ちょうどこの時は音楽を掛けている最中だったので、その気遣いはなかったのですが、災害FMのスタッフさんも窓を開けてこの男性と親しく話をしておられます。うまく音楽の最中にスタジオを出ないと、というわけで、このタイミングで我々もスタジオを辞しました。

外に出てみるとこの男性がちょうど ぬえの車の前に立っておられたので、何気なく話しかけてみました。「どこから来たの?」「東京です」と、平凡なやりとりに終始するかと思いきや。なんとこの方、「目黒のさんま祭り」の気仙沼実行委員会の松井会長さんでした(!) 落語の「目黒の秋刀魚」にあやかって震災前から東京の目黒で気仙沼の旬のサンマを振る舞うイベントが行われていて、東京ではかなり有名だと思いますが、松井会長さんはまさにそのアイデアを出した発起人なのだそうです(なお、知らなかったのですが、「目黒のさんま祭り」には2つのイベントがあって、ひとつは気仙沼産のさんま、もう一方では宮古のさんまを使っているのだそうです)。

さて松岩を離れて市内に戻りましたが、この日の夕方から、住民ボランティアの伊藤雄一郎さんの「WINE BAR 風の広場」で行われるというライブに出演させて頂くことになっていました。伊藤さんは内湾地区にあったご自宅を流されて失いましたが、その土地を「グラウンドゼロ」と名付けて、散乱していたガラスの浮き玉を飾ったり、同じく拾い集めた大量の大漁旗を 解体か保存かで揺れていた被災漁船「第十八共徳丸」に掲げたり、光害から気仙沼の星空を守ろう、という運動を起こしたり、とにかくユニークな活動を続けておられる方です。


↑グラウンドゼロの様子

ぬえたちも去年の2月に伊藤さんのイベントと同時期に近い場所で行う予定があって、何度か伊藤さんとは連絡を取り合っていましたが、結局 同時に開催できるイベントには実を結ばず、こちらのイベントが終わってから伊藤さんの会場にも行ってみましたが、いつものように奔走中の伊藤さんとは会えずじまい。この日はそれから1年ぶりに初めて顔を合わせる機会となるはずです。

ところがこの日、さだまさしのコンサートが市民会館で予定されていた関係から、気仙沼市内の音響機器はコンサートに動員されてしまったとかで(これは災害FMさんでも聞いた話です)、伊藤さんもライブの音響機器の確保に困っておられ、結局 笛のTさん所蔵の簡易PAを提供することになっていました。こうして、ライブは夜なのだけれども、この日はさらにもう1件打合せの予定が入っていたので、まずは機器を会場に届けてしまうことにしました。

会場の「WINE BAR 風の広場」は「グラウンドゼロ」のすぐ向かいにある被災建物でした。。緑さんのお話しではここは「主婦の店」として市民におなじみだった、管野商店さんというスーパーマーケットだったようです。それにしても被害状況はものすごいもので、ここに伊藤さんがワイン・バーを開いているとは にわかに信じがたいほど。。





伊藤さんは別のイベントに奔走中でお留守(またか)でしたが、壊れたドアから中に入り、大漁旗が掲げられた階段を2階にあがってみると、ををっ、これはまた なかなかどうして、綺麗なスペースが広がっていました。カギもかからない、電気も一部しか通っていない、という状態でしたが、PA機器を運び込んで、さすがに装束を置いておくわけにはいかず。。あれ? 寒いと思ったら雪が降ってきましたよ。。?



こうして次の打合せの会場、煙雲館に向けて走り出しました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その3)~気仙沼災害FMに出演

2014-04-06 02:44:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
昼食を摂ってから緑さんがショップを開いている洋服店で紋付に着替え、この日生放送の番組に出演させて頂くことになっていた臨時災害放送局の「気仙沼災害FM」に向かいましたが、そのスタジオは、普通の民家でした。(^_^;)





プロジェクトの活動では以前にも石巻の「ラジオ石巻」に出演させて頂いたことがありましたが、そちらは既存のコミュニティFM局が震災を受けて臨時災害放送局としての認定を受けたもので、きちんとしたスタジオも備えられていました(もっともコミュニティFM局のスタジオは津波の被害を受けて使用不能となり、ぬえたちが出演させて頂いたスタジオは駅前の一等地とはいえ仮住まいのようでしたが。。)。

気仙沼災害FM(サイトを見ると正しくは「けせんぬまさいがいエフエム」と ひらがな表記のようですが)はそれとは違い、震災の直後に情報伝達のために新たに開設された放送局とのことです。そんなわけだからでしょう、スタジオも民家の一室を改装しただけのもので、防音設備もなし。外からドア1枚を開ければそこがスタジオで、同じ空間がそのまま控室もキッチンも兼ねています。そのうえ窓の外にはすぐ目の前に松岩小学校があって、伺ったお話では下校時など、やっぱり子どもたちの歓声などが放送に紛れ込まないか心配になることもあるそうです。(もっとも放送される番組は必ずしも生放送ではないそう)。

今回出演させて頂く番組は月曜から金曜までの毎日、午後2時から3時にかけて放送される「にじなま」という生放送の番組で、ぬえたちの出番はそのうちの15分間ということでした。打合せをするにも控室がそのままスタジオなので、スタジオ入りとして指定された時間は13:45~13:50の間、と なんとたった5分間。ピンポイントでドアを開けなければなりません。(^_^;)

こうしてお邪魔させて頂いたスタジオで、初めてお会いしたパーソナリティの佐藤梨華さんと藤村陽子さんとも すぐに打ち解け、出演の段取りの説明を受けました。質問頂く内容や、こちらもせっかくの機会なので謡と笛の実演をすることにしていまして、そのタイミングなどを細かく打ち合わせて、さて放送が始まると、自分たちの出番まで 物音を立てないように気を遣いながら待ちます。

ぬえたちのお相手をしてくださったのは佐藤梨華さんですが、お若いのに的確な質問で、これまでの活動の経緯や内容、今回の気仙沼訪問のスケジュール、今後の市内での活動など、余すところなくお話しできたと思います。災害FMへの出演のコーディネートは やはり緑さんにやって頂いたので、この日は緑さんにも出演願いましたが、4月下旬の桜の頃に予定している北野神社での奉納能の宣伝もしっかり話してくださいました。



放送の中で ぬえたちが実演したのは能『松風』の一節。。ほんの数分にまとめたのですが、この曲はラジオ石巻に出演したときも上演しました。愛する人を千年間も待ち続けている哀しいお話しで、被災地にとっては内容が微妙と感じられるかも知れないのですが、ぬえはこの曲に愛を貫く思いの美しさを感じていて、機会を見つけては上演している曲です。

もうお決まりとなった気仙沼へのエールを3人で叫ばせて頂き、ぬえたちの15分間の出番は終わりました。音楽を掛けている間にスタッフさんたちと記念撮影をしたりしましたが、出演ゲストには放送の中で流れるジングルを収録することになっている、とのことで、そちらにも3人でそれぞれ出演。

はいわかりました、と 言われた通りに「頑張って! 気仙沼」と ぬえも叫んだのですが、すぐにダメ出しが入りました。

あのー。。「頑張って」じゃなくて「頑張っぺ」なんです。。

あ。。ああ、そうですか。。

というわけで ぬえのみ再収録になりました。頑張っぺ? 気仙沼。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その2)~気仙沼・北野神社

2014-04-01 09:41:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
北野神社は天神社で、気仙沼駅からもほど近く、JR大船渡線のすぐ北側にせまった山の頂に鎮座しています。面白いのは気仙沼駅前からのびる道路から参道に入ると小さな鉄橋があって、参詣者はこれによって大船渡線の線路をまたいでから、はじめて山上へ続く石段に取りかかることになります。社務所に掲げられていた明治時代の気仙沼市内の絵図を見ると、山の下の道路と市街は昔からあったものです。そこに明治期に鉄道がひかれたため、線路は道路と山との間に敷くしか方法がなく、この線路が参道を分断してしまったために参詣者用の鉄橋が架けられたものでしょう。山頂に鎮座する神社に参詣するには、かつては鉄橋を渡ってから急な石段を上るしか方法がなかったようですが、今は山をぐるっと迂回して住宅街の中を通る車道がありました。





境内に入ると、まず目に入ってくるのは真新しい神楽殿。昨年新築されたばかりだそうです。





そしてその奥にある拝殿と本殿。こちらはぐっと時代がある建物で、趣もありますが、直線的で偉容というのがふさわしいです。丹塗りの彩色もよく残っていて、そうして正面の縋破風の下から飛び出すかのような阿吽の龍にも彩色が少し残っていました(あとで伺ったのですが、石段にある狛犬の阿吽と方向が一致していないそうで、研究者の説によれば、社殿はこの神を信仰した鮎貝氏によって向かいの山から移築されたのではないか、とのことでした)。





この北野神社は桜の名所として有名だそうで、この4月には桜の下で能を奉納することになっております。この日はご挨拶と下見を兼ねて参上することにしていました。宮司さんのご都合で打合せは今回の活動が終了した最終日に ぬえが参上することになっていたのですが、この日はまず みんなで下見のつもりで参上しました。。が、偶々 宮司さんもご在宅で、社務所にて親しくお話しさせて頂くことができました。

新しい神楽殿は、震災前から建てる計画があったのですが、震災によって中断になってしまっていたそうです。その後はこちらの神社もボランティアを受け入れて、その活動の拠点のひとつになったり、復興のために尽力しておられたそう。その折々に、土台だけ作って放置してある神楽殿を見た人々から「これは何ですか?」と質問を受けた宮司さん。。面白い方で、津波で流されたんです、なんて冗談も言っておられたそうですが、やがてそれらの人々の中から ぜひ神楽殿を完成させよう、という機運が巻き起こって、全国から寄付も集められたのだそうです。

宮司さんとしては震災の被害があった気仙沼の氏子さんたちから建築の寄付を募るわけにもいかずに中断していたのでしたが、全国から寄付が集まり始めると、氏子さんの方からも率先して寄付が集まるようになり。。こうして昨年、立派な神楽殿が完成したのでした。

この真新しい神楽殿で、しかも桜の季節に奉納させて頂けるのはプロジェクトとしても望外の幸です。伺えばこちらにも独特な法印神楽が伝承されているようで、それも拝見したいと思ったのですが、こちらの神楽は市内のいくつかの神社の宮司さんも携わる大規模なもので、なかなか上演の機会はないのだそうです。いつか能と競演させて頂きたいな~。

こうして思わず4月の奉納の打合せを済ませることができまして、市内に戻り、復幸小町仮設商店街にあるおなじみのカフェ「エスポアール」で昼食を頂いて(をっ、コンビニ弁当じゃない食事だ!)、それから「気仙沼災害FM」の生放送に出演するために松岩地区に向かいました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その1)~気仙沼へ

2014-03-27 02:55:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
やっと活動と同じ月にブログ記事をスタートできます~~

去る3月10日と11日の2日間にかけて、気仙沼市で「能楽の心と癒やしプロジェクト」の活動を行って参りました。

なんと言っても震災から3度目の3.11を現地で迎えられることが出来てよかったです。毎年3.11は石巻で過ごしていたのですが、我々を取り巻く事情もだんだんと変わって行き、複雑な人間関係もあって、今年は気仙沼でこの日を迎えることになりました。

しかし、気仙沼での3.11は目が覚めるような体験でした。この日に気仙沼にいて、本当によかったと感じています。石巻での3.11は1日がかりの追悼行事に参加していたので、市内で他にどのような行事が行われているのかまったく判らなかったのですが、気仙沼では活動も行ったけれど、そのあと市の主催になる追悼式に献花しに行くこともできたし、今年で廃校となる女子高でのキャンドルナイトに参加したり、それから気仙沼では有名な3.11に3本の光の柱を立てる追悼の催しを眺めることもできました。

さらには活動それ自体もとっても印象的な催しとなりました。被災建物での住民ボランティアさん主催ライブと、幕藩時代からの旧家での朗読会への出演。。電気も通じていない破壊された建物で寒気と戦いながらの上演と、韓国の歌人の震災を追悼する朗読会への参加と黙祷の時間。さらには災害FMへの出演。これは石巻でのそれから1年ぶりのラジオ出演になりました。追悼と復興と。まったく違うようでいながら、混ざり合ってこの地で融合していくはずのふたつの気持ちはブレることなく指向のままに突き進んでいき、それを ぬえのような部外者にまで包み隠さず巻き込んで、まさにこの街が進んでいくところに立ち会ったかのような滞在でした。気仙沼って、こういう街だと思います。

【3月10日(月)】
未明に笛のTさんをお迎えに行き、荷物を積み込んで出発。やっぱり運転手が2人いるとラクです。栃木から福島に入るあたりで運転を交代してもらったけれど、ちょっと眠って、気がついたらもう一ノ関に着くところでした。

気仙沼市内に入ったのは昼の少し前あたりでしょうか。まずは現地コーディネーターの村上緑さんをピックアップしに。緑さんは大晦日の活動でも八面六臂の活躍を見せましたが、今回はすべての活動の提案からプランニング、交渉まで一手に引き受けてくださいました。もうプロジェクトの「気仙沼支部長」「支店長」「営業所長」とまで呼ばれています。やはり「こうしたい」「これをやってみたい」という希望がある場合、現地で顔の広い方、フットワークの軽い方があると、一気に実現しますね。ありがたや。。

そうして、この日の最初の活動は「けせんぬま さいがいエフエム」さんへの出演だったのですが、まだ時間もあるので、まずは今回の活動とは別に4月に予定している活動のために、会場である北野神社に下見に伺うことにしました。

決算報告書(12/30~1/1)

2014-03-24 18:28:56 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
第19次被災地支援活動(2013年12月30日~2014年1月1日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 204,867円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     銀行口座募金1件(ボラ扱い)    5,000円
     直接頂戴した募金1件(ボラ扱い) 10,000円
     炊き出し残金             380円        収入計  252,747円
                           内訳:ボラ 220,247円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉 111,799円
    ◎交通費        74,124円
     八田達弥分     
     (高速道路通行料         15,450円)
     (ガソリン代            8,389円)
     (ガソリン代            8,740円)
     (ガソリン代            7,652円)
     大川典良分
     (ガソリン代            6,781円)
     内野浩乃分
     (新幹線             11,440円)
     (同差額              520円)
     高橋日出子分
     (ガソリン代            6,600円)
     (ガソリン代            4,552円)
     大島フェリー代
     (フェリー代 4名往復       4,000円)
    ◎宿泊費    18,900円
     (2人×1泊、4人×1泊     18,900円)
    ◎炊き出し食材・容器類 18,775円
     (食器類              2,415円)
     (食器類              3,210円)
     (食器類              3,150円)
     (食材費への補助として      10,000円)
  〈雑 費〉         1,950円
     (ビデオテープ代          1,950円)       支出計  113,749円

 【収支差引残額】                         残額    138,998円
                          内訳:ボラ 106,498円 ギエ 32,500円

※注※
・今回活動前後に「ヤマザキ」さまより件、活動中に「津島」さまより1件計15,000円の募金を頂いた。プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。プロジェクトの活動にご理解を頂き、ご支援を頂いた諸兄には、改めて深謝申し上げます。
・「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・今回はプロジェクト単独の活動である。よって支援企業さまよりの助成金の提供はなかった。
・また今回特筆すべきはプロジェクトとして初の試みである仮設住宅での炊き出し支援である。食器類については事前に買い込む必要があったためプロジェクト活動費から支出したが、現地で調達した食材、調味料、炊事道具類にかかる出費については、プロジェクトの活動資金からは10,000円を支出したほかは、大部分は今回の活動に参加したメンバーに負担をお願いした。これら収支の明細については下記に掲出する。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・近来銀行口座へ継続的に活動資金を募金してくださる方も複数あり、またボランティア団体JIN'S PROJECTさまのご厚意により、活動によっては同団体との共催の形を取ることによって支援企業さまからの補助金を頂ける機会も増えてきた。しかしながら今後も息長い支援活動を続けてゆくために、今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。


 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上

  平成26年1月24日



                           「能楽の心と癒やしプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com


〔炊き出し収支内訳〕

【収入の部】
   活動参加者より寄付(6人×3,000円) 18,000円
   プロジェクトより支出         10,000円        収入計  28,000円

【支出の部】
   食材・つまみ類            2,337円
   ビール・飲み物            4,180円
   食材                 1,050円
   食材・飲み物             6,130円
   食材                 7,875円
   ビール・飲み物            5,250円        支出計  26,822円
【収支差引残額】                          残額    1,178円

※残額は活動参加者に等分に返金。(1名あたり大凡200円)
※ところが後日、食材を提供いただいた会社より割り引きして頂き、380円が払い戻された。この払戻金は
 炊き出し残金としてプロジェクト活動資金に繰り入れた(上記プロジェクト決算報告書参照)



↓領収証は次頁以下に添付