先週、第21次の活動を終えて帰ってきたばかりですが。。すみません、まだ3月の活動のご報告の続きです。
3月11日の夜、気仙沼では3本の光の柱が立ち上がります。「3月11日からのヒカリ」というこのプロジェクトは震災の1年後のその日から行われていて、今年で3回目になるのだそうですが、3.11にはいつも石巻にいた ぬえはこの日初めてそれを見ることができました。
夕方18:30、防災無線から「見上げてごらん夜の星を」が流れると、引き続いて内湾地区を取り囲むように3カ所から一斉に「鎮魂・希望・感謝」を表す光の柱が立ち上がりました。ん~、ちょっとコンパクト・デジカメでは厳しいですか。淡い青い柱が、これはプラザホテルの周辺から立ち上がっているところ。
しかし、実際には肉眼では はっきり映って見えていました。この日は「ともしびプロジェクト」さんの企画で気仙沼女子高の構内に入ることができましたから、思わずもとても良い条件で見ることができました。雲ひとつなく、そうして空には明るい月が出ていました。まるで満月かと思いましたが、あとで月齢を調べてみると、半月を少し過ぎた程度であったようです。ここ、気仙沼女子高の3階のベランダからは、3本の光の柱がその月に向かって伸びているように見えました。
やがて気仙沼女子高を出て駐車場に戻り、笛のTさんを宿に届けると、緑さんと再び内湾地区に行ってみました。光の柱が立ち上る、その現場をちょっと見てみようかと。。
先ほど見たプラザホテルのそばが一番近いようだったので早速そこへ。そこは小山の頂上に建つホテルに上がるための道路の中腹にある駐車場でした。巨大な投光器2基と、さらに巨大で騒音をあげている発電機。やっぱり ここまで大掛かりな計画となると大変な規模で行われるんだな、と実感。
その後 緑さんをお友達の小山さんのお宅まで送って、ぬえは一時宿に帰り休息しました。が、この日はまだこれで終わりじゃないのです。
この夜、NHKでは震災に関連するドラマ「生きたい たすけたい」を放映する予定になっていました。覚えておられるかなあ、震災の夜、公民館に避難した母親が迫る津波と火災に死を覚悟して送ったメールが、これを受け取ったイギリスに住む息子さんの手を経てツイッターで次々と拡散し、ついに当時 東京都副知事だった猪瀬氏の知るところとなって、翌朝救援ヘリが到着した、というお話し。これは気仙沼の中央公民館で起こった実話です。
ところが緑さんのお友達の小山さんは、なんとその中央公民館の中に事務局がある福祉団体の職員さんで、まさにこの時 公民館に取り残されて救援された人々の中におられました。そこで、この日は緑さんは小山さんのお宅でこのドラマを一緒に見よう、という話になっていて、ぬえもお邪魔させて頂くことになっていたのでした。
宿からは徒歩で行ける距離の小山家でドラマを見ましたが、「セットにしてはよく公民館の内部が再現できている」「私たち被災者は、だって! この頃はまだ被災者なんて言葉は使ってなかったよね~」とかまあ、盛り上がりながらドラマを見たのでした。屋上の2つの建物に別れての避難の様子とか(近所から避難してきた保育園児を励ましながらの一夜、という様子は小山さんは別の建物にいて見ていないそう。でも煙がひどくてあちらの建物は大変だったろう、とのこと)、避難してきた中に水産工場で働く外国人もいて、国民性の違いを感じた話など、興味深いお話しを伺いました。それにしてもヘリでは一度に少人数しか運べず、400名を超える避難者の救出には何日も掛かったのだそうで、やはり大変な体験だったのでした。
やがて深夜に ぬえは宿に帰りました。この日は朝から煙雲館での催し、震災の時間。。2:46の黙祷、ケーウェーブでの公式追悼会への参列、ともしびプロジェクトの気仙沼女子高でのイベント、「3月11日からのヒカリ」、そうして小山さんのお宅で体験談を伺うなど、めまぐるしかったけれども3.11らしい濃い体験をすることになりました。
「3月11日からのヒカリ」の投光時間は深夜0時まで。小山さんのお宅を辞した頃にはもう光の柱は消えていました。
3月11日の夜、気仙沼では3本の光の柱が立ち上がります。「3月11日からのヒカリ」というこのプロジェクトは震災の1年後のその日から行われていて、今年で3回目になるのだそうですが、3.11にはいつも石巻にいた ぬえはこの日初めてそれを見ることができました。
夕方18:30、防災無線から「見上げてごらん夜の星を」が流れると、引き続いて内湾地区を取り囲むように3カ所から一斉に「鎮魂・希望・感謝」を表す光の柱が立ち上がりました。ん~、ちょっとコンパクト・デジカメでは厳しいですか。淡い青い柱が、これはプラザホテルの周辺から立ち上がっているところ。
しかし、実際には肉眼では はっきり映って見えていました。この日は「ともしびプロジェクト」さんの企画で気仙沼女子高の構内に入ることができましたから、思わずもとても良い条件で見ることができました。雲ひとつなく、そうして空には明るい月が出ていました。まるで満月かと思いましたが、あとで月齢を調べてみると、半月を少し過ぎた程度であったようです。ここ、気仙沼女子高の3階のベランダからは、3本の光の柱がその月に向かって伸びているように見えました。
やがて気仙沼女子高を出て駐車場に戻り、笛のTさんを宿に届けると、緑さんと再び内湾地区に行ってみました。光の柱が立ち上る、その現場をちょっと見てみようかと。。
先ほど見たプラザホテルのそばが一番近いようだったので早速そこへ。そこは小山の頂上に建つホテルに上がるための道路の中腹にある駐車場でした。巨大な投光器2基と、さらに巨大で騒音をあげている発電機。やっぱり ここまで大掛かりな計画となると大変な規模で行われるんだな、と実感。
その後 緑さんをお友達の小山さんのお宅まで送って、ぬえは一時宿に帰り休息しました。が、この日はまだこれで終わりじゃないのです。
この夜、NHKでは震災に関連するドラマ「生きたい たすけたい」を放映する予定になっていました。覚えておられるかなあ、震災の夜、公民館に避難した母親が迫る津波と火災に死を覚悟して送ったメールが、これを受け取ったイギリスに住む息子さんの手を経てツイッターで次々と拡散し、ついに当時 東京都副知事だった猪瀬氏の知るところとなって、翌朝救援ヘリが到着した、というお話し。これは気仙沼の中央公民館で起こった実話です。
ところが緑さんのお友達の小山さんは、なんとその中央公民館の中に事務局がある福祉団体の職員さんで、まさにこの時 公民館に取り残されて救援された人々の中におられました。そこで、この日は緑さんは小山さんのお宅でこのドラマを一緒に見よう、という話になっていて、ぬえもお邪魔させて頂くことになっていたのでした。
宿からは徒歩で行ける距離の小山家でドラマを見ましたが、「セットにしてはよく公民館の内部が再現できている」「私たち被災者は、だって! この頃はまだ被災者なんて言葉は使ってなかったよね~」とかまあ、盛り上がりながらドラマを見たのでした。屋上の2つの建物に別れての避難の様子とか(近所から避難してきた保育園児を励ましながらの一夜、という様子は小山さんは別の建物にいて見ていないそう。でも煙がひどくてあちらの建物は大変だったろう、とのこと)、避難してきた中に水産工場で働く外国人もいて、国民性の違いを感じた話など、興味深いお話しを伺いました。それにしてもヘリでは一度に少人数しか運べず、400名を超える避難者の救出には何日も掛かったのだそうで、やはり大変な体験だったのでした。
やがて深夜に ぬえは宿に帰りました。この日は朝から煙雲館での催し、震災の時間。。2:46の黙祷、ケーウェーブでの公式追悼会への参列、ともしびプロジェクトの気仙沼女子高でのイベント、「3月11日からのヒカリ」、そうして小山さんのお宅で体験談を伺うなど、めまぐるしかったけれども3.11らしい濃い体験をすることになりました。
「3月11日からのヒカリ」の投光時間は深夜0時まで。小山さんのお宅を辞した頃にはもう光の柱は消えていました。