のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

寒さ

2011年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム

 毎年のことですが、きびしい寒波と雪が降るのが1月中ごろです。3日ほど前の早朝6時ごろ、家の玄関前の寒暖計はマイナス10℃を示していました。
 ストーブをつめて寝ていましたが、寒さで目がさめたような朝でした。
窓ガラスにはきれいな氷の模様が生まれていました。
 今日、ウラジオストクに電話をすると「今日は温かいですよ。マイナス10℃くらいかな。」
 やはり、この民族は感覚がずれていると再認識しました。
 
 ノボシビルスクのアレクサンドル氏から自動車の中古部品で探して欲しいものがあるとメールが来て、探していましたが、優秀な日本の自動車でもメーカーや年式や機種によって弱点があるそうで、極限のようなロシアの寒さの中でエンジンがかからなくなるトラブルが多い車種があります。2-3点部品を容量の大きなものに交換すれば事足りるようですが、些細な部品の経費節減が文字通り命取りになるのが極限の世界です。

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こんな話はいかが?

2011年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 旧成人式の日です。草食系が問題視される現代日本の若者ですが、間抜けでも良いまともに育って欲しい!

 笑い話のような中国のラブストーリーを紹介します。

 中国人の名前の中には男なのか女なのか判断しにくい名前があります。趙文蓮という名も「」という文字から、女性かな?と想像してしまいますが、30代の男性の名前です。

 ある日趙文蓮さんがバスに乗り、車内で切符を買おうと車掌さんを見ると、とても美しい車掌さんで胸がときめきました。細い眉、こぼれるような大きな目、可愛い二つの笑くぼ。

 「車掌さん、キップをください」と言うと、車掌はニッコリ笑い、丁寧な態度でキップを売ってくれました。これは車掌の当たり前の仕事ですが、趙文蓮さんにしてみるとこの車掌の“微笑み”にビビビっときてしまったわけです。

 「もしかすると彼女は自分に気があるのではないか?」思い込むのは勝手ですが、このチャンスを逃してなるものか!と無謀な行動に出ます。彼は急いでメモをとりだすとくねくねと走り書きで二行書き、丸めて手の中に握り、バスが停まり車掌がドア-を開け、乗り降りのお客に声をかけているすきに、素早くキップ売りの台において、恋々とした気持ちで車掌に熱烈な笑みを見せながらバスを降りました。

 車掌がこのメモに気づき「何かしら?」と広げて見ると“わたしは趙文蓮と申します、梧桐街柳葉巷22号に住んでいます、お暇があったら遊びに来て下さい”とかかれています。「なにこれ?超ダッサーい!ってカンジ?」と、クシャクシャ丸めてバスの外に放り投げました。

 投げたメモ用紙はたまたま自転車で通りかかった男の顔に当たりました。男はすぐ頭を上げて見ると、バスに乗っている綺麗な若い娘が自分に向かって投げたのだとわかり、急いで自転車を止め投げられたメモを拾って読みますと、天にも昇るような幸せのメッセージがかかれているではありませんか。

 趙文蓮と同様、彼もまた30過ぎて恋人に恵まれず悩んでいた男性でした。勘違いに気がついていないので、ようやくめぐって来た春に幸せいっぱいです。家に帰ると彼は朝昼晩食前食後にこのメモを取り出してはうっとりしていました。

 今すぐにでも趙文蓮という娘を訪ねたい。でもちょっと待てよ!そこはわきまえのある30代の男性、礼を欠くわけにはいきません。「娘にその気持ちがあっても、娘の両親にその気があるかどうかわからない。やり方が悪ければこの素晴らしいチャンスがだめになる。ここは一つ、先に手紙をだしてだんだんに愛を高めよう」と思いつき、メモに書かれた名前と住所へ手紙をだしました。勿論あのバスの車掌の所には届くはずはなく、趙文蓮の所に手紙は行くわけです。

 「わたしは秋風路流水巷44号に住んでいます、お出で下されば歓迎します。李新珠」と書かれた手紙を受け取った趙文蓮もまた大喜びです。もちろん彼が想像しているあの車掌さんからの手紙ではありません。李新珠は自転車の30代男性の名前です。

 趙文蓮もわきまえのある男性ですから礼を欠くことはできません。一目ぼれした車掌の家を訪ねたかったが、彼女の家にも体面がありますから、いきなり見ず知らずの男が訪ねていっては彼女の両親に失礼です。ここは一つ手紙でお互いの愛を育もうと、情熱ほとばしる返事を書きます。

 こうして、お互い相手があの美人車掌だと思い込んだまま続いた手紙のやり取りも15通になりますと、当初は”あなた”と代名詞で呼びあっていたものが”趙””李”と姓で呼び合うようになり、“敬愛の人”“親愛の人”と出世魚のように進化していきます。

 趙文蓮は金ぴかの腕時計を買って李新珠にプレゼントしました。「これを受け取ってくれれば結婚の半分は成功したようなものだから会いに行こう!」と決心しました。

 一報、腕時計を受け取った李新珠も「なんてことだ!男の俺が先に女からプレゼントされるなんて!」と、急いで母親が残してくれた金の指輪を郵便局から送りました。

 双方で相手のプレゼントを受け取れば、二人は正式に会うチャンスはできたと思い、日曜日の午前9時に新公園“春意亭”で会う約束をしました。

 さて、日曜がやってきました。二人とも頭をポマードでテカテカにして、相手への贈り物を持って、待ち合わせの時間より一時間も早く現場に到着し、来るはずのないあのバスの美女を待ちました。

 約束時間の10分前になるともう落ち着いてはいられずソワソワとあたりを見渡し、約束の9時になり、やがて9時半になり、10時になりました。

 いいかげん待ち疲れて頃になってお互いの存在に気がつきました。

 趙文蓮はとても遠慮深く「あの、あなたはどなたか待っているのですか」と尋ねると、李新珠も礼儀正しく「ええ、本当を言うと、恋人を待っているのですが、あなたは」と答えた、趙文蓮も「ええ、実はわたしも恋人を待っているのです」 「それはいいですね、御成功を祈りますよ」 「どうもどうもそちらの御成功も祈りますよ」と互いに言い合い励ましあいました。

 李新珠はひかえめながら趙文蓮に「あなた、恋愛はまず我慢しなければ、彼女の心はしっかりとらえられません、時には彼女は故意にあなたの真心があるかないかを試すのです。わたしも恋人と9時に会う約束をしているのですが、もう10時になるのに……」と言いながら、手をのばして腕時計を見ました。

 この光景を見て趙文蓮はドキッとしました。“エッ、この時計は俺が買ったのじゃないか???”でもそこはわきまえのある30代男性、いきなり不躾な質問もできないので、「あなた、その金バンドの腕時計は買ったのですかそれとも借りたのですか?」と質問しました。

 李新珠は得意そうに「いいえ、実を言うとこの時計は恋人がプレゼントしてくれたのです。アレ??あなたのその指輪は……」と趙文蓮の指輪を指して言うと、趙文蓮も意気揚々と「僕も恋人からプレゼントされたのです」と言うではありませんか。

 お互い、「そんなバカな話があるものか!」と思い、李新珠が「違う、その指輪は僕が恋人に贈った物だ、どうして君がそれを嵌めてるのだ」と言えば、「でたらめ言うな」と趙文蓮は怒って「お前のしている腕時計だって俺が恋人に上げたものだ、それをどうしてお前がしているのだ」と言いあいになります。

 二人はああ言えばこう言うで喧嘩になり、それぞれ相手の書いた手紙を証拠に見せました。

 二人ともそれを見て「アッ!」と叫ばずにはいられません。そしてがっかりして椅子に座りこみ、目をパチパさせて長い間何も言えなかった。

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お茶でも飲みながら

2011年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 お茶が中国から日本に伝来したのは奈良時代のこと。今でいう国費留学生の遣唐使たちが唐の都から「薬品」として持ち帰りました。お茶の中に含まれるカフェインが大脳を刺激して眠気を払ったり、疲労感を吹き飛ばすなどの効果があるために修行僧の目覚ましとして使われたようです。

 この時代に日本に入ってきたお茶は「団茶」といって、乾燥させたお茶をすりつぶし粉にして練り固めた団子状のお茶です。団茶は今の中国の南西部の山岳地帯で作られているお茶でして、私達が日常使っている江南種(揚子江の南)のお茶とは風味なども違います。この団茶は今ではほとんど見かけることがありませんが、モンゴルの遊牧民達の間では愛用されています。

 数年前、モンゴル国(中国で言う外蒙古)を訪問した際、団茶で仕立てたお茶をご馳走になりました。モンゴルでは文字通り団子状になった黒い塊をナイフで削って、牛乳(馬乳や羊乳の場合もある)で煮立てて、これに塩(岩塩)を入れて飲むのですが、遊牧民達にとっては貴重な塩分補給のお茶でもあります。その昔はグラムあたり金と同等の取引価格だったこともある貴重なミネラル元です。

 日本に入り込んだお茶は薬品としての価値が大きかったので、桓武天皇(かんむてんのう、京都に平安京を作って遷都した天皇)は、お茶を典薬寮(今でいうなら厚生労働省)という薬品担当の役所に管理させていたほどです。

 時は移ろい鎌倉時代となって、中国も(960~1279年)の時代となります。宋に禅の研究に行っていた栄西上人(臨済宗の開祖)が抹茶を持ってきます。このときに栄西上人は江南種のお茶の種も日本に持ち込み、これが元になって各地にお茶が植えられるようになります。

 栄西上人はお茶について「喫茶養生記」という本まで上梓して、お茶が脚気・腎臓病・食欲不振・中風などのさまざまな病気に効能があることを紹介します。

 戦国の世になって利休という茶人が登場します。今や欧米諸国でもTea ceremonyと呼ばれる茶道なる分野を開拓し、お茶に哲学を吹き込んだ方ですが、この利休がお茶の場として使っていたのが京都の竜安寺で、ここは臨済宗のお寺です。余談ですが、利休登場以前の室町時代にはこのお寺に一休というトンチ話で有名な和尚様がいました。

 さて、時代が江戸時代になりますと、「お茶壷道中」なるものが登場します。江戸時代というと参勤交代の大名行列が有名ですが、地方の諸侯が江戸勤務の人事異動のための大名行列よりも、将軍家直轄のお茶壷道中の方がはるかに厳格で厳しいものでした。

 何のことはない、東京から京都の宇治にお茶を受け取りに往来するだけのことですが、そこはそれ、恐れ多くも将軍様の献上品です。お茶壷道中の通る街道や宿場は厳戒態勢で、掃除、衛生を徹底させられました。まさに庶民にとっては疫病神の来襲ですが、何よりも虎の衣を借るお茶壷奉行の横暴たるや目にあまるものがあったそうで、♪ずいずいずっころばしごまみそずい 茶壷に追われてトッピンシャン♪このわらべ歌はお茶壷道中とお茶壷役人を揶揄した歌だそうで、今で言うならプロテストソングです。

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越せない大井川」 徳川幕府は江戸防衛のために街道筋の大きな川には橋をかけませんでした。同様のことを考えた男が後の中国に出てきます。毛沢東は道路や鉄道網は敵が攻め込んでくる時に敵に利用されるからと、幹線道路を極力作ろうとしませんでしたし、鉄道もレールの幅を独自の規格に変えてしまいました。この交通インフラの立ち遅れが今日、地方発展の大きな障害にもなっています。

 毛沢東がやらかしたとなるとバカなことを考えたものだと思いがちですが、ギリシアの賢人プラトンは「味方にとって使いやすい平坦な道を作れば、同様に、敵が攻めやすい道を作ることになる」と言っています。プラトンが言うと「なるほどなぁ」と思ってしまうのですが、交通インフラに対する時代が違いすぎます。

 閑話休題。当時大井川の川幅は1400mから1500mあったといわれています。越すに越せない大井川を越えるためには川越人足という人々の手を借りなければなりませんでした。大井川横断においては船を使うことも認められなかったので、川越人足に担いで渡ってもらわなければなりませんでした。水かさによって料金も違いましたし、水深が深くなると「川止め」となり、川の水位が下がるまで両岸の宿場で水が引けるのを待たねばなりませんでした。

 時代は大政奉還明治の新時代となりますと、大井川の川越制度も前近代性の遺物と見なされるようになり、明治4年には川越制度が廃止されて、渡し舟が使われるようになります。今で言うところの構造改革がなされたわけですが、渡し舟の認可により失業する川越人足は800人ほどいたといわれています。

 転職を余儀なくされた川越人足が次々とお茶の栽培に転業していき、静岡県のお茶産業の基盤が出来上がったといわれています。

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時代が良かった?

2011年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日発見した連合赤軍の内ゲバの遺物について知人達と話題になりました。殺された女性達と同年代の男性が、「この時代、大学にいけるなんて1割程度しかいなかったんだから、働くしか道がなかった俺達から見ると、恵まれたうらやましい環境の人たちだったと思うよ。正直なところ、ふざけるな!なにが不満なんだ!って思いでこの事件を見ていたな。」と語っていました。

 この事件で騒がれていた時代は道路工事の土木作業員で、選択肢がない自分と違って、これからどんな仕事にでもつくことができる大学生が、何でこんなばかげたことをしているのか?こんな場角者ために少ない給料から税金取られて、国から大学につぎ込まれているのか?と考えると、「なんて無責任な連中なんだ」と腹が立ってならなかったそうです。

 

 それにしても、時代が恵まれていたというのか、学生運動などに熱中していた者たちが卒業しても就職があったのがこの時代。田舎に帰って役場や教員などになった運動家も少なからずいます。

 私達の時代になると、こんなことをやっていてはどこも採用してくれない時代になっていましたが、上り坂の時代は良いもので、こんなばかげたことをやっていても就職があり、そこそこの中年になって「俺も昔は活動家で」と得意そうに話すやからを見てきました。昔ではなく、今活動家になって暴れろ!国会に行って自爆テロして来い!責任を持って全うしろ!と、けしかけてやることにしています。

 

 世代的に日本の学生運動やデモはお目にかかっていませんが、80年代末、韓国のデモ隊と警察の衝突はソウルにいったときに遭遇したことがあります。日本同様催涙弾と放水が国家側の武器でしたが、これだけ韓国がなしだということです。後に中国で起きた天安門事件では民主化運動をする若者を戦車で踏み潰しています。さすがのソビエトでさえ、崩壊間近の騒動のときに戦車の前に立ちはだかる市民に戦車を止めたのに、こういうときに飛び切り思い切りが良い中国です。

 ゆえに、中国人の民主化発言や行動がノーベル平和賞の対象になるわけで、反体制でも身の危険がない日本では発言に重みがないのかもしれません。

 ところで、民主党はいまだに党の綱領がない政治政党ですが、歴史的に党の綱領を持たないで政権与党となった政党がもう一つあります。ドイツのナチスです。

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月下氷人

2011年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 「月下氷人」仲人を意味する言葉です。

 月が出ていたり星空ならば、放射冷却で猛烈な寒さになるこの季節、およそ仲人とは別物の寒さの神様のような言葉に思えてしまいます。

 ちなみになぜ月下氷人が仲人を意味するのか?月下氷人の由来は月下老氷上人という二つの縁結びの物語が一つになってできた言葉だそうです。その由来となった二つの物語を紹介します。

月下老

 唐の時代に韋個という青年がいました。一人身の気軽さもあって方々を旅して宋城という街に来た時のことです。もう夜も更けて通りには人影もなく、青い月の光が待ちに立ち並ぶ家の屋根を照らしていました。

 ある街角で韋個は不思議な老人を見かけて立ち止まりました。老人は地べたに座って、月の明かりでなにやら書物をひもといて調べものをしています。

 「こんな夜更けに、何をしておられるのですか?」韋個は老人に尋ねました。「わしのことかな?わしは結婚について調べているんだよ。」

 韋個は老人の傍らに置かれた袋が気になりました。「その袋の中は何が入っているのですか?」 老人は「これかね?ほら、赤い縄が詰まっているんだよ。この赤い縄が夫婦をつなぐ縄じゃ。ひとたびこの縄でつながれれば、二人がどんなに遠く離れようとも、たとえ仇同士の仲であろうとも必ず結ばれるんじゃよ。」

 「私はまだ一人身です。私の妻となる女性は今どこにいるのでしょうか?教えていただけないでしょうか?」韋個は老人に頼みました。

 「おまえさんの妻になる女性なら、この宋城におるぞ。ほら、ここを北に行った通りで野菜を売っている陳というばあさんがおるだろう、そのばあさんが抱いている赤ん坊だよ。」

 老人に言われたものの韋個には納得できる話ではありません。赤ん坊が未来の妻だなんて馬鹿にされたような気分になり、信じることもなくその場を立ち去ってしまいました。

 14年の歳月が流れました。韋個は相州という土地で官史になっていました。やがて、韋個にも縁談が持ち上がり、都の太守の娘と結婚することになりました。歳は16-7の美しい娘でした。

 幸せな結婚生活が続き、やはり、あの老人の予言は嘘だったんだなと韋個は思っていました。ある夜、韋個は妻に生い立ちを尋ねてみました。

 「実は、私は太守の養女なんです。実の父親は私がまだ赤ん坊の頃、宋城という町で役人をしているときに亡くなりました。でも、優しい乳母がおりまして、青物を売りながら私を育ててくれました。陳ばあさんという乳母です。あの青もの売りのお店を今でも思い出します ・・・・・・ あなた、宋城をご存知なのですか!あの町の北のほうに陳ばあさんの店があったんですよ…」

氷上人

 晋の時代に索耽という占い師がいました。あるとき、令孤策という男が夢占いを頼みに来ました。

 「夢の中で私は氷の上にたっておりました。氷の下には誰かがいて、私はその人と話をしました。」

 索耽は「氷の上は陽、氷の下は陰を意味します。陽と陰が語り合うということは、あなたが結婚の仲立ちをしてうまく行くことの前兆だな。氷のとける頃にその話はまとまるよ。」と予言しました。

 その言葉の通り、しばらくすると令孤策のところに太守からたのみがきました。太守の息子と、張家の娘を結婚させたいがその仲人になってくれないか。

 令孤策が両家の間をとりまとめ、そのカップルはめでたく結婚するはこびとなりました。式を挙げたのは春も半ば、氷が音を立てて河を流れていく頃でした。

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連合赤軍

2011年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

 旧白沢村の山中で興味深い杭を発見しました。手入れに行った杉林の中に「群馬 赤軍 No6」と書かれた杭があり、もしかして連合赤軍のリンチ殺人で死体を生めた場所ではなかろうか?と気がつきました。

110111  1971年から1972年2月半ば頃にかけて連合赤軍の山岳ベース事件というのがあり、榛名山中で8名、沼田市の迦葉山で3名、妙義山で1名、連合赤軍の内部抗争のリンチで殺されました。

 白沢村山中の2箇所で発見された3名は、1972年の1月30日と2月4日に迦葉山で殺された人たちで、1月30日に山本順一、大槻節子、2月4日に金子みちよが殺されています。

 私は当時小学生でしたが、この事件のことは学校でも話題になりました。人も近寄らない山奥の杉林の中に埋められてたと聞いていますが、今はその近くに望郷ラインと呼ばれる観光道路が走り、山の上のゴルフ場に向かう道路が交差する場所に、植林して20年程度の杉林があり、その林の隅に杭を発見しました。たぶん事件後に林の伐採があったのでしょうが、事件の時にはすでにあったと思われる、4-50年物のカラマツの林が杉林を分断しており、新しく開いた道路に挟まれていることもあって、青の事件があったときのような鬱蒼とした暗い林とはイメージが多少異なります。

 一連のリンチ殺人事件は永田洋子、森恒夫の二人が中心になっておきた事件ですが、森恒夫は獄中自殺。永田洋子は死刑判決を受けながらも東京拘置所でまだ生きているはずです。権力を持つべき資質のない人間に権力を持たせると起きる事件の典型のようなもので、この山に埋められた2名の女性など永田洋子の嫉妬で殺されたといっても過言ではないでしょう。

 とは言え、被害者のように語られがちですが、はたしてこの山に埋められた連中が生きていたら?ろくな者になっていないでしょうね。

 連合赤軍ほどラジカルではないものの、似たような流れを汲む人たちが政権の中心に居座っているですから、時代が変わったというのか、あきれるというのか。外的と戦う度胸はないくせに仲間内で権力闘争していることに変わりはありません。

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2011年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 1月8日の朝、近所に住む従姉妹の息子(23歳)が交通事故にあいました。この息子は実家を離れ菓子職人をしています。アパートから5分の職場にバイクで向かっている途中、自動車に激突しました。

 私のところにその情報が入ったのが昨日の午後で、「死んだ」と言う知らせでした。あまりの突然だったので、すぐには信じられず、親戚に電話をして「どうなったの?」と聞くと、内臓が破裂して脳が半分だめになっているので、長くは持たないだろう。とまだ死んだという状態ではなさそうでした。情報が錯綜するので、従姉妹の家に足を運びました。家には叔母夫婦が残っていましたが、「死にそうなんだよ。もうだめかもしれない。」

 どちらにしても病院に足を運んだほうが良いと、今日、前橋の日赤病院に行ってきました。

 集中治療室の家族待合室でいとこ夫婦に会い、事態の説明を受けました。事故直後は自分の名前をいえたり、痛がっていたのでたいした事なさそうに見えたものの救急搬送された病院で状況の危ないことがわかり、救急ヘリで日赤病院に運ばれたそうです。日赤病院で腹部や脳の手術を受け、2度ほど危篤状態になったものの、今は自発呼吸して安定した状態でいるそうです。

 折れた骨がすい臓に突き刺さり、肺が片方つぶれ、脳の右半分が真っ黒になっているそうで、脳が完全にだめになっても人工心臓で生かすことができるがどうするか?と聞かれ、その時は「死」を受け入れますと答えたそうです。非常な決断だと思いますが、英断だと思いました。

 親族なので、集中治療室に入ることができました。この息子の恋人がつききりで看病していました。患者は体温を35.8度に設定されてパイプだらけでベッドに横たわっていました。昨日は血圧が下がって危ない状態だったようですが、今日は血圧も正常で、呼吸も安定しているようです。脳の腫れが左側にも来ているので、これが気がかりです。

 見舞いに行ったものの集中治療室の患者を見るのは忍びなかったのですが、この先起きることへの腹が固まった思いもしました。

 正月に彼が帰省してきたとき、「今年は厄年じゃないか?ドンド焼きにはミカン持って顔出せ。」などと話をしましたが、厄年でいやなことを思い出しました。彼が生まれる以前のことですが、彼の家の隣に東京でカメラマンをしていた青年がおり、オートバイで転倒してなくなりました。翌年は私の幼馴染の青年が自動車で石垣に激突して亡くなりました。4-5年、数え25歳の厄年で事故で亡くなる事件が続き、私達の年代になったとき「誰が死ぬのか?」と密かに話題になりましたが、当時ヒマラヤ目指して山登りに夢中になっていた私など最有力候補だったようです。それでも、誰も死なずにすんだばかりか、いまだに一人の欠員もなく、その後の厄年も無難に切り抜け、同級生一同元気に恵まれています。

 たぶん、体質などが変わることで「厄年」があるのでしょうが、従姉妹の子供も「厄年」だったんだなと考えてしまいました。4-5日待てば厄落としのどんど焼きだったのに。

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スラング

2011年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 どこの国にも隠語・スラング・流行語はありますがこうした言葉を使うときは、その国の文化に親しんでいると見られる場合と、反面、汚い言葉を使って程度が悪いと思われる場合があります。君子あやう気に近寄らずですから、注意しましょう。

 外国人にいきなり「ってゆっか~」「チョ~○○ってカンジ~」などと渋谷界隈で耳にしそうな言葉を使われたら、日本の醜い部分を見せ付けられたようでゲロゲロってカンジ~になってしまうでしょう。

 日本人からすれば親しみの意味合いを込めて使ったスラングが相手の気持ちを損ねることはよくあることで、特に日本女性は無神経にそれをやらかすようです。USAなどでも少し生活になれてきた留学生などが向こうのスラム街などの人々が使う言葉を得意そうにしゃべって陰で馬鹿にされているなどということはよく聞く話です。

 知的で洒落たスラングならそれはそれでよい印象を与えるのですが、悪意に満ちたものや政治的な意味合いが含まれるものは要注意です。

 流行語などの中には日常にスラングや浸透した言葉もあるので、一概にスラングが悪いとは言えないのですが。

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七草クッパ

2011年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、スーパーで七草粥のパック惣菜を売っていたので、これにラー油とニンニクやニラや唐辛子を入れて七草クッパを作って食べました。風邪気味だったので、餃子でも食べようかと思っていたのですが、七草粥にしようか、ニンニクたっぷりが良いのか?と考えた結果、七草の野菜を使ったクッパになりました。
 
 一夜明け、胃の塩梅がよくありません。間違いなく昨日の唐辛子の後遺症だと思います。
 夜寝ていて胃が痛くなり、汗が止まらず、シャツを2回ほど着替えました。
 胃の調子がよくない以外は風邪の症状もうせて目的は達成しましたが、別の体調不良が出てしまいました。

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クリスマス

2011年01月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 1月7日がロシアのクリスマス。ウラジオストクの友人の携帯電話に電話したら、現在モスクワにいることがわかりました。

 モスクワの親戚宅に泊まってモスクワ見物をしているようですが、こちらのニュースでも報道されたモスクワの大停電の余波をもろに受け、この親戚宅にアパートは電気は止まる暖房はきかないお湯は出ない、凄惨な状況になっていたようで、「本来なら毛布をかぶって寝て過ごすところですが、「せっかくのモスクワですから思い切り見物を楽しんできました。停電?ウラジオストクなら毎度のことですよ。」と、停電など気にしているようでもありません。

 「Золото?е кольцо? (ザラトーイ カリツォー)」黄金の輪と呼ばれるモスクワ郊外の東北の街に有名な教会があります。クリスマスともなればこの教会のミサにたくさんの人々が集まるはずですが、おのぼりさんはそんなことをぜんぜん気にせず「マクドナルドでハンバーガーを食べてきました。」と自慢していました。

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シベリアの理髪師

2011年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 帝政ロシア末期を舞台にした「シベリアの理髪師」と言う映画があります。巨匠、ニキータ・ミハルコフ監督の映画ですが、まだ見たことがありません。ロッシーニのオペラ「セビリアの理髪師」をもじったものでしょう。ウラジオストクは「沿海州」シベリアの東端ですが、彼らは自分たちが住む地域をシベリアとは思っていません。

 10年前にウラジオストクに行った時に市内の床屋さんに行き、髪をカットしました。このときの値段は日本円に換算すると4-500円でした。髭剃りはありませんでしたが、散発後にシャンプーをしてくれました。

 その頃は髪の毛を長くしていましたが、男性の長髪はロシアでは評判が良くなかったので、短く爽やかにしたほうがよさそうだと、通りがかって目に付いた床屋さんに駆け込みました。

 床屋さんは20代後半の女性と40代の女性で、私の髪の毛をカットしてくれたのは年配のほうでしたが、始終同僚と喋り続けていて、ブラインドタッチで私の髪をカットしているように見えました。外国人を無視しようとしているがごとくにさえ思えました。

 聞かれても答えようがありませんでしたが、髪型をどうするなんてことは全然聞かれませんでした。その頃ウラジオストクの男性の間ではK-1ファイターのように頭の横を短くして、頭頂部だけショートヘアーで残すモヒカン風カットが流行っていましたが、”これだけはご勘弁願いたい”と思っていました。何とかなるだろうと思ってはいましたが、何とかなるものです。

 宇宙飛行士の向井千秋さんの夫、もしくは、ダースベイダーもしくはドイツ軍のヘルメットのように前髪をそろえたオカッパ頭にされてしまい、半ば放心状態で床屋さんから出てきました。

 多民族国家ロシアですからウラジオストクにもモンゴル系や朝鮮系のアジア系の人たちがたくさん住んでいます。

 不思議なことにアジア系の人たちの髪型は眉毛の上で一直線にそろえる髪形が多く見受けられました。

 コーカソイドの人たちとは頭の形状が違ったり、髪の毛も柔らかい直毛が多いことから、当然似合う髪形が違うのでしょうが、私の場合「似合っている」とは思えませんでした。

 向こうの友人達も「髪の毛をカットしてきましたね」と後ろを向いて笑っていましたから、絶対似合っていなかった。

 「何も指示しなければ彼女らのやりやすい髪形にされるのは当然」と言われましたが、まったくその通りでした。主張は大切です!

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五色令人目盲

2011年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 誰しも栄えるために努力しているもので、それなくして世の中も良くならないことだと思います、しかし、繁栄の最中にいると物事を正しく見る目を失って、愚かな行為に走ってしまうものです。

 富んで豊かになる事は悪いことではありませんし、貧しいよりは良いに決まっています。人生は楽しいに越した事はありません。楽しみは自らの心が作り出すもので、この軸が狂ってしまうと愚かな享楽を楽しみと勘違いするようになるようです。何も禁欲的に生きる必要などないでしょうが、足元はしっかり踏まえていたいものです。

 老子の第十二章にこんな言葉があります。「五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁田獵,令人心發狂。難得之貨,令人行妨。是以聖人為腹不為目,故去彼取此。

 「五色は、人の目をして盲ならしむ。五音は、人の耳をして聾ならしむ。五味は、人の口をして爽ならしむ。
馳騁田獵(ちていでんりょう)、人の心をして發狂せしむ。得難きの貨は、人の行いをして妨げしむ。是を以って聖人は、腹を為して目を為さず。故に彼れを去てて此を取る。」

 「美しい(派手な)色彩は人の目をくらませ、ものを正しく見る目を失う。美しい(派手な)音楽は人の耳をふさぎ、正しい音を聞く力を失わせる。おいしい味わい(美食)は人の味覚をおかしくして、正しい味わい方を失わせる。馬を走らせて勇壮な狩をする事は、人々を熱狂させ正常な判断を失わせてしまう。手に入れがたい財宝(金銀財宝)は人の行動を束縛し、正しい行いを妨げてしまう。だから聖人は腹を満たすために採る事はしても、自分の享楽のために採る事はしない。」

 繁栄を謳歌することと本当に豊かである事は別物だと言う教えだと解釈しています。格言は相反する状況がなければ生まれてこないので、老子の時代にもバブルの日本のような時代があったのでしょう。

 バブル経済の頃の日本の狂乱も愚かしいものでしたが、貧富格差の少ない日本ですから現在の中国よりはおとなしいものだったのかもしれません。

 最近の中国は一握りの富豪が大多数の貧民の上に成り立っているような社会構造ですが、今がよければの刹那主義が強い人々なので、先々のことや他人のことなど考えもせず贅沢三昧に突き進む人々も増えているようです。

 人件費が上がりそうになれば解雇して、地方農村から安い労働力を連れて来て、また人件費が上がりそうになったら解雇して・・・。農村と言う国内の植民地を利用することによって、一部の人たちの繁栄が成り立っているような様相があります。はたしていつまでこのような構造が成り立つのか気になります。

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雪の話

2011年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム

 日本海側での大雪のニュースが報道されていますが、山脈で雪が落ちてしまったのか、我が家の界隈は雪が少ない冬になっています。

 鳥取県などの中国地方の大雪が異様で、漁船が積雪で沈没する事件が多発しています。10トンクラスの船が沈むのですから、短銃運研鑽で10トン以上の重みが加わった事です。気温が低いこの季節の雪は箒で掃くことができるこちらとはずいぶん違う、重たい雪が降ったんでしょうね。

 20年近く前のことですが、京都の日本海側、舞鶴に行ったことがあります。シベリア抑留者や大陸・半島からの引き上げの舟が、日本に帰還者を連れて帰った港です。

 冬なので雪が降り始めましたが、降り方が尋常ではない。巨大なボタン雪が見る見る積もって、走行中の自動車のワイパーが雪の重みで動かなくなるほどでした。

 いわゆる豪雪地帯に属する土地に生まれ育っているので積雪で驚きはしませんが、今まで経験したことがないような雪なので「大丈夫か?」と不安になりました。翌日、腰の高さほどあった雪が、10時ごろには溶けてなくなっていました。気温が温かいこともあるのでしょうが、降るのも猛烈なら溶けるのも速いことに驚きました。

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Ой мороз, мороз

2011年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 ロシア人が好んで歌うロシア民謡に「オイ マローズ マローズ(Ой, мороз, мороз)」と言う歌があります。日本語にすれば「ああ、酷寒よ酷寒よ」と言う意味です。

 メロディーは明るい乗りの良いメロディーです。イメージを膨らませれば、真冬の雪に覆われた雪原に大きな焚き火をして、その火を囲むように人々が歌って踊っているような曲です。

 ”ああ、酷寒よ酷寒よ 俺を凍らせないでおくれ 俺を凍らせないで 俺の馬を凍らせないでおくれ 白いたてがみの俺の馬を   俺の女房ときたらひどいやきもち焼きなんだ 俺の女房は飛び切りの美人さ 俺の帰りを待っている 待っているんだ  俺は日暮れまでに家に帰る 女房を抱きしめそれから馬に腹いっぱい水を飲ませるのさ”

 ひどい寒さの中、家に帰る馬橇の御者が吹き付ける寒波に対して語りかける歌で、早く帰らないとやきもち焼きの女房が「あんた浮気でもしてたのね」と叱られる男の弱さと、早く暖かい家にたどり着いて愛する妻を抱きしめたい思いを歌っています。

 冬、北極海から押し寄せてくる-30度から-50度の寒気団をマローズと呼び、ロシアの大地を寒さで覆いつくします。人々にとっては最も忌み嫌うべき寒波ですが、ただ寒いだけではありません。

 マローズは日本の神風のような役割を演じてきました。ナポレオンにモスクワを陥落され、実際は敗北していたにもかかわらず、冬が訪れロシアに閉じ込められる前にパリに戻るナポレオン一行を追い討ちして、ナポレオンの侵略を食い止められたのもマローズが背景にいたおかげです。マローズがある限りロシアの大地を侵略しようとする物好きはロシア人だけでしょう。

 ロシアのクリスマスでサンタクロースのような精霊がジェット・マローズ(寒波のおじさん)。ジェット・マローズがやってくる事はロシアの大地に寒波が押し寄せることで、これは豊作をもたらします。

 ロシアで作られている穀物の多くはライ麦、大麦、小麦などの麦類です。こうした麦類は秋に種をまき発芽させて冬を越します。地表にわずかばかり芽を出した麦の上にマローズがもたらした雪が積もることで地表を吹きすさぶ乾いた冷たい風から麦の芽を守ってくれます。

 マローズがもたらす雪はロシアの生活に欠かせません。ロシアの年間の降水量は日本の三分の一程度で、その多くが冬に集中しており、実際は乾燥地帯です。

 世界の淡水の三分の一があると言うバイカル湖の澄んだ水も冬に降り積もった雪が地表にしみこみ湧き出たものです。

 雪が降らない冬は寒風に麦の芽を枯らされ、地表に水が不足して農作物には干ばつ、氷で覆われる期間が短いと太陽の日差しを受ける時間が長くなり、永久凍土が溶けて地面のしたのメタンガスが地表に出て温暖化を促進したり、陥没した永久凍土跡が沼になり、病気を媒介する蚊が増えたり、冬の寒さで死んでしまう害虫の卵が生き残って翌春夏猛威を振るったりと、暖かい冬は必ずしも幸せを招くとは限りません。

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物忘れ

2011年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 元旦の深夜、寝る前にテレビのチャンネルを回していたら、教育テレビでハーバード大学の教授が、ジョン・ロックの「自然権」について講義する番組が放送されていました。
 学生時代に哲学の授業でジョン・ロックについて多少勉強していたので「なるほど」と興味深く似ていましたが、翌朝、夕べなんかいい番組を見たけど、なんだったかな?と思い出せません。
 「えーっと、ジョンなんだったっかな?ジョン・ディーコンだったっけかな?」
 ちなみにジョン・ディーコンはロックグループ”クィーン”のベーシストでした。
 ジョンディーコンってどんな説となえたんだったけかな?
 なんて一日考えていました。
 
 夕方、ジョン・ロックだった!と思い出しましたが、昔、恩師が言っていた、「歳をとると物事の理解力は高くなるけど、物覚えは悪くなる。だから若いうちに勉強していろいろなことを頭に叩き込んで置け。」と言う言葉がずっしりのしかかってきました。

 忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を語る心のむなしさよ。

 「君の名は」の有名な語りです。

 歳をとることは忘れることも重要なことなんだそうで、余計なわずらわしいことを忘れて、美しいことだけを憶えていることも重要な人生の処世術。要は「都合のよくないこと」に気をとられないということなんでしょうが、こうしたことを腹にしまうのも人間の成長なんでしょうね。

 さすがに「物忘れ」まではいかないものの、「物覚え」が悪くなったことは確かなことで、人生の残りが折り返し地点を過ぎているのですから、それもありでしょう。

 折り返し地点と言えば箱根駅伝。往路は東洋大学が優勝でした。明日から下り坂。どんなドラマがあるだろう?

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