のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

ネバ川

2013年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム

130913  ウラジオストクから1万キロ、古都サンクトペテルブルグを流れるネバ川の夕景です。川の水はフィンランド湾、北極海に流れつきます。冬は凍結します。

 帝政ロシア時代を作り上げたピョートル大帝がヨーロッパへの玄関口として1703年に建設され1712年から1917年までロシアの首都でした。

 ネバ川は市内に「モイカ」、「フォンタンカ」、「グリバエードフ」の三つの水路を持ち、運河としての役割も持っています。そのため、運河を船で観光することもでき、北のヴェニスと呼ばれています。

 ソビエト時代はレーニンにちなんでレニングラードと呼ばれていましたが、現在は昔の名前サンクトペテルブルグに戻されています。

 現在、政治・経済の中心はモスクワですが、「文化の中心はピーチェル!」と人々は申しています。ピョートル大帝がドイツを手本としていたために「聖ペトロの街」と言う意味でサンクトペテルブルグと言う名前でデビューしましたが、1914年第一次大戦が始まり、街の名が敵国ドイツの言葉の名前ではよろしくないと、ロシア語のペトログラードに改名されました。

 社会主義革命以後、1924年レーニンの死に対してその名を刻むべくレニングラードに改名、ソ連崩壊直前の1991年に市民の投票によって元のサンクトペテルブルグに名前が戻りました。

 同じ街で生まれ育ったにもかかわらず、サンクトペテルブルグで生まれ、ペトログラードで少年期を過ごし、レニングラードで働き、サンクトペテルブルグで余生を送ったなんて笑い話もあります。

 今年はたくさんのロシアバレエ団が日本に訪れましたが、モスクワのボリショイ劇場と双璧をなすのがサンクトペテルブルグのマーリンキー劇場です。ロシアの古典バレエやオペラの多くはマーリンキー劇場で初演されています。

 通常マーリンキー劇場はキーロフ劇場と呼ばれていますし、その名の方が世界的に有名かもしれません。ボリショイ(大きい)に対してマーリンキー(小さい)と言うのもあてつけたような名前です。ボリショイ劇場のイメージカラーは赤と金色に対し、マーリンキー劇場は青と銀色です。

 帝政ロシア時代エリアナ・パブロワというバレエ少女がマーリンキー劇場で踊ることを目指していました。しかしロシア革命が起こり、シベリア--満洲-上海-神戸と渡り歩き鎌倉七里ガ浜界隈に落ち着きます。

 昭和2年に鎌倉にバレエの学校を作り、日本にバレエを広め多くの舞踏家を育てました。ロシア革命が日本にバレエをもたらしました。

 エリアナ・パブロワは昭和8年に日本に帰化し、霧島エリ子と名乗ります。日本軍の慰問として訪れた南京で昭和16年に没しましたが、鎌倉市は市民葬を行い霧島エリ子は靖国神社に祭られています。

 稲村ヶ崎を見渡す道沿い、エリアナ・パブロワがバレエ学校を作った跡地に「日本バレエ発祥の地」のモニュメントが建てられています。

 戦後早々、故エリアナ・パブロワの教えを受けた舞踏家たちが日本バレエの復興のために尽力し、こんにち、世界的にも多数のバレエダンサーを世に送り出すことになる日本バレエの礎が作られます。

 あまり知られていないロシアとの関わりですが、鎌倉方面に出かけることがありましたら「日本バレエ発祥の地」の記念碑を探してみてください。

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