のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

ウッドストック

2009年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 USAのオバマ大統領の登場で、有色人種とホワイトの共棲を唱えたキング牧師について再認識するような報道を、よく見かけるようになりました。日本とは法体制が違うと言っても、こうした人々の市民活動は米国の憲法を改正させたのですから、偉大なムーブメントだったのでしょう。

 こうした報道や特番にテーマソングのように必ず登場するのが「We shall over come」勝利をわが手にという邦題で、日本でも安保闘争の学生達がよく歌っていた歌です。私など、学生運動の成れの果てが連合赤軍で、ハイジャックやらテロリストなどと銘打って海外に脱出して暴れた上に、今頃になって日本にもどりたがるような無責任な甘ったれた連中のバックミュージックのようで、何か胡散臭く感じてしまう歌です。

 1969年のウッドストックコンサートでのジョーン・バエズが唄う「We shall over come」

  ヒッピー文化華やかな頃のUSA、この頃から「自然破壊」は錦の御旗になっており、「自然回帰」運動が巻き起こりますが、「本能のままに」自然回帰してしまった若者も少なくなかったようです。
 元ヒッピーだった両親を持つ米国人の友人は「自分たちの自由ばかり優先して、子育てなんか手抜きそのもの。ヒッピーの親を持ったために、私は子供の頃本当に悲しい育ち方をしました。」と親を憎んでさえいるような口調です。反面教師だったのか、およそその親とはかけ離れた伝統的な人生を歩んではいるものの、子供の頃の家庭環境がトラウマになっているようです。自由には責任がつき物です。

 およそ、言論の自由とは程遠いように思われたソビエトにもバルドと呼ばれるシンガーソングライターがいて、ウラジミール・ヴィソツキーやブラート・オクジャワなどの反体制フォークシンガーもいました。ヴィソツキーは早死にしましたが、その死には「暗殺」を疑問視する声もあります。
 オクジャワはパリに亡命して日本に来日したこともありましたが、ソビエトが崩壊し戦う相手がいなくなり、ほどなくしてパリで亡くなりました。

 ロシアの南部では自分の言葉で唄うバルドたちが集まる大規模なコンサートが毎年行われているようですが、極東のウラジオストクは蚊帳の外です。

  ロシア版ヒッピーのたまり場か?と思ったら、もっと大人になっているようです。ヒッピーをやっていけるほど甘くない現実があるのかもしれませんが・・・

コメント
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