傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

テレビ東京のドラマ【たった一度の約束】を視聴して・・・孫文へ見返りを期待しない支援

2014-02-27 10:26:43 | 独り言

26日放送のテレビ東京のドラマ【たった一度の約束】(~時代に封印された日本人~)は、日活の創設者の一人、梅屋庄吉が中国の辛亥革命の主導者・孫文への支援物語で、映画事業などで得た収益の多くを孫文の革命資金に投じ、梅屋夫妻が孫文と後に国家副主席の宋慶齢を結びつけた事実らを、梅屋庄吉の口外ならずの遺言を遺族が堅持してき、1972年の中国交回復後、遺族がメディアの求めに応じて史実を公開してきた背景経緯の物語でした。

テレビ東京のドラマ【たった一度の約束】の「あらすじ」は、

”「昭和40年。国方千世子(原田美枝子)は、かつて父・梅屋庄吉(柳葉敏郎)の秘書だった佐々木(篠井英介)の元を訪ねる。映画界の風雲児と呼ばれ、日本で初めて大手映画会社を創設した梅屋庄吉。しかし庄吉にはもうひとつの知られざる顔があった。“一切口外してはならず” 庄吉は遺言で、そのことを公にしないよう命じていた。しかし佐々木は、庄吉と、生涯にわたって庄吉を支え続けた妻・トク(夏川結衣)の歩んだ道のりを世に伝えてほしいと、ある木箱を千世子に手渡す。そこには千世子も知らない、夫婦の秘められた人生が詰まっていた・・・。

梅屋庄吉が生まれたのは明治元年。長崎の貿易商・梅屋商店の跡取り息子だったが、破天荒な性格ゆえに25歳の頃家を飛び出したまま行方知れずになっていた。

そんな放蕩息子に愛想を尽かした父・吉五郎(吉澤健)は、明治27年、壱岐で生まれ育ったトクを跡取りとして養女に迎え入れるが、その2年後、庄吉は香港からひょっこり帰宅する。そんな庄吉に吉五郎は自分が死ぬ前にトクと結婚して欲しいと頼み、出会ったばかりの二人は夫婦となる。
しかし、まもなく吉五郎は亡くなり、葬儀の直後、庄吉は再び一人で香港に旅立ってしまう。

庄吉が香港で立ち上げた写真館は、自らが立案したサービスが受け大繁盛していた。そんな明治28年、医学博士・ジェームスカントリーの紹介で、庄吉は孫文(奥田達士)と運命の出会いを果たす。二人はすぐに意気投合。清朝の皇帝支配により苦しい生活を強いられている民衆のために、革命に情熱を傾ける孫文は、庄吉に支援を願い出る。孫文の思いに触れた庄吉はそれに応じ、資金援助を開始。孫文はすぐに兵を挙げるが幾度となく失敗する。しかし、庄吉はその後も資金を送り続ける・・・。

一方、日本で9年間も待たされ続けたトクは、明治36年のある日、とうとう香港に押し掛ける。香港で、庄吉が引き取った身寄りのない3人の子供たちとともに暮らし始めたトクは、庄吉が孫文を支援していることを知る。その理由を尋ねたトクに、庄吉は「同仁」という言葉が書かれた紙を差し出す。同仁、それは、わけへだてなく広く平等に愛すること。庄吉の思いを受け止めたトクは、庄吉の秘密の支援活動を支えていくことを決意する
。」”

で、物語前半のあらすじに過ぎませんが、梅屋庄吉が孫文の言葉『同仁』に触発され、妻・トクも啓発された『同仁』が番組のキーワードになっており、番組の終盤に、秘書だった佐々木が晩年の梅屋庄吉に「何故、孫文に深入りしたのか?」と問う場面で、梅屋庄吉が”「同仁、それは、わけへだてなく広く平等に愛すること」”を痛感した体験談を語り、番組の最後は、2008年5月 胡錦濤国家主席が福田総理主催の夕食会に松本楼を訪問された際、胡錦濤国家主席は、孫文が梅屋庄吉宛に書した『同仁』の額の前で祈念写真を撮る場面でした。

番組は、梅屋庄吉の曾孫で、松本楼常務取締役:小坂文乃が著したノンフィクション「革命をプロデュースした日本人」を原案とし、昭和40年(1969年)、国方千世子が、かつて父・梅屋庄吉の秘書だった佐々木の元を訪ね、佐々木から孫文の中国革命に関わる秘匿していた資料を手渡しされ、回顧談を聞かされ、梅屋庄吉夫妻の活動を公にする事を嘆願される構成で番組が進行。

番組では、1934年、梅屋庄吉が65歳で亡くなった時に 自分の事が公になることで迷惑を被る人を案じ”「自分は孫文との盟約で中国革命を成功させたが このことに関する日記や書簡などの資料は一切口外してはいけない」”という遺言を残しており、国方千世子は一度は公に出来ないと断るが、番組のキーワードになる『同仁』の真意を知り、公できる機会を留意の返答するストリーです。
国方千世子は、身内や報道関係にポツリ、ポツリと史実を話すようになり、1972年の中国交回復後、国家副主席になっていた宋慶齢から国方千世子に会いたいと中国に招待され、花束を手渡した宋慶齢・孫文との結婚式から63年ぶりの再会の場面になり、帰国後、宋慶齢から手紙の紹介場面となる。

手紙の場面は、
”「あなたのご来光により、当時の思い出が読みかえりました。
梅屋先生、トク夫人、孫先生並びに私との友情の思い出、かけがえの無い真の友情、例え、時が経て世の中が変わるとも、それは決して消せるものではありません。
消せるのもではない。あたわず(不能)の所に、わざわざアンダーラインが引かれていました。
この手紙を読んだ時、改めて両親のことを語り継ぐべきだと強く思いました
。」”
その後、2008年、胡錦濤国家主席が来日の際に、松本桜に訪問したいと申し入れしたと。

当方は、2011年?放送のNHK『辛亥革命100年 第1回 孫文 革命を支えた日本人』を視聴した記憶があり、孫文の革命の成功には日本人支援があった程度の認識で、梅屋庄吉の支援活動には記憶がなく、当該番組【たった一度の約束】を視聴し、日中間の歴史認識については疎いと痛感しましたね。
靖国神社参拝、尖閣列島問題など難題が存在するが、歴史認識を踏まえ、孫文が唱えた民主主義革命の思想、民族主義・民権主義・民生主義から成る三民主義と総称される民主主義革命の思想をも認識しなければ難題の解は無いと思いましたね。
また、国交は国益第一の政治主導ではなく、人道の側面から民間先導が解法とも思いました。

「付記」

(1) 日本記者クラブでの講演(動画)
   小坂文乃 「革命をプロデュースした日本人」著者 2010.6.8 .

(2) 孫文を支援したアジア主義者が集った松本楼(動画)
    NHKハイビジョンから(アップロード日: 2011/03/02)
   孫文と梅屋庄吉 002.MOV



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