傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

ブログ『なぜ人は東電社員の懺悔を求めるのか』について・・・雑感

2011-12-01 12:41:08 | 独り言

馬場正博氏のブログ【ビジネスのための雑学知ったかぶり】のエントリー『なぜ人は東電社員の懺悔を求めるのか』を、ブログ【「小さな政府」を語ろう】様のブログでも紹介され、日本のムラ社会体質を取り上げています。

馬場正博氏のエントリー『なぜ人は東電社員の懺悔を求めるのか』では、橘玲氏のブログ記事『”無責任社会”は無限責任から生まれた 週刊プレイボーイ連載(28)』を取り上げ、橘玲氏のいう日本のムラ社会は「権限と責任が分離し、誰も責任を取らない「無責任体制」となり、たまたま特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。」とし、東電社員に怒る人々も、同じムラ社会の文化を共有していると論じています。

橘玲氏のブログ記事『”無責任社会”は無限責任から生まれた 週刊プレイボーイ連載(28)』は、オリンパスの巨額の損失の隠蔽問題は、ガバナンス問題とし、日本企業のコーポレートガバナンス(会社統治・・・組織内の権限と責任を明確にして、権力構造(指揮命令系統)を明示化の仕組み)の曖昧さは、日本社会の特異性で、権限と責任が分離して、いつのまにか責任の所在が消えてしまうことで、だれも責任をとらない「無責任体制」が完成し、責任も全員に分散されますから(一億総懺悔)、原理的に責任をとることができないと。
この「無責任体制」で、たまたま特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになると。

そして、”「株式市場のルールを一顧だにしないオリンパスは、まさに“日本的経営”の理想の姿で、この“素晴らしき日本の伝統”が、企業の価値や社員の生活を破壊していく様を、私たちはいま目にしているのです。」”
と、コーポレートガバナンスの軽視のオリンパスは、企業の価値や社員の生活を破壊していく様を見ていると論じています。

馬場正博氏は、橘玲氏のブログを取り上げ、東電社員への批判は、「権限と責任が分離し、誰も責任を取らない「無責任体制」となり、たまたま特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。」が根底にあると論じています。

当方は、経営、社会分野に疎いが、橘玲氏の論調には、素直に共感できないですね。
当方は、日本的な経営的経営については、全面的に賛同しないが、かといって、橘玲氏のいう”「権限と責任が分離して、いつのまにか責任の所在が消えてしまうことで、だれも責任をとらない「無責任体制」が完成した」”という論調に違和感があります。

権限が責任をとることをしなくなったのが「無責任体制」です。
経営で、「権限移譲」が必要と言われているが、現実は、「権限委譲」でなく「責任移譲」であり、責任を負わない「権限移譲」なのです。
権限と責任の分離は、現場責任は負わない権限者の保身のためであり、組織責任の手段でもあります。

馬場正博氏は、東電社員の批判には、”「しかし、同時に事故後東電の経営の責任のたらい回し、と言うより無責任体制としか思えない対応ぶりの理由でもあるのでしょう。」”と、東電幹部の無責任を批判している部分があるというのは同感できます。
世の中、組織責任をとるために、権限者が存在するのであり、現場責任の類でも、権限者が責任をとり、組織が防衛できるのです。

馬場正博氏のブログに接して、連想したのは、「現代ビジネス」に掲載の中谷巌氏の対談記事『中谷巌 第3回 「この20年間、アメリカに押しつけられた改革で日本が失った2つのもの」』、『中谷巌 第4回 「過剰な企業のコンプライアンスなんて日本の文化にあいません」』です。
中谷巌氏は、失ったものは「日本の官僚システム」と「日本のメインバンク・システム」と、日本独特の「相互の信頼関係」で、日本には、コンプライアンスとかいう考えは合わないと語っています。

コンプライアンスについては、「現代ビジネス」に掲載記事『ニッポンはビョーキです!異常コンプライアンス社会 あなたの会社にもいませんか、コンプライアンス・バカ』ではないが、コンプライアンスの専門家の弁護士の郷原信郎氏が、
”「本来、コンプライアンスというのは、社会の要請や環境の変化にいかに対応できるかということに尽きる。定型化して、ノウハウを学ぶようなものではありません。」”
と、コンプライアンスの取り組みを言い訳とし、
”「また、無駄にチェック機能ばかり増やす企業もありますが、それでは業務に支障が出るし、社員も疲弊する一方です。」”
と語っており、記事は、”「コンプライアンス栄えて国滅ぶ」”と結んでいます。

要は、良くも悪くも「清濁併せ持つ」という日本的な風土が、アメリカ流の「グローバルスタンダード」に洗脳されたのです。
馬場正博氏の橘玲氏のガバナンス問題から無責任体制、無限責任で、東電社員批判を論じるのは、違和感を感じるのです。
マアー、日本社会は、ゆとり・余裕が無くなってきたのは事実ですね。

「付記」

本ブログ「中谷 巌氏の新自由主義にもとづく構造改革の懺悔のついて」で、経済に疎い当方は、中谷 巌氏の反省の記を読み、初めて経済学は人間の営みを考慮していない学問であったかを認識したと書きました。
アメリカ流の「グローバルスタンダード」の考えは、人間の営みを考慮していないと思っています。


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