傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

地震と津波:液状被害と先人の教え(雑感)

2011-03-31 11:41:34 | 社会

東日本大震災の津波被害・福島原発事故で、防災には安全値がないと痛感しました。
当方が東日本大震災の被災模様に接するほど、昔から言われてきた「家は高所で地盤の良い場所」が正解かと思うこの頃です。

当方は、ブログでも書きましたが、仙台で仕事していた当時に、1978年の宮城県沖地震(マグニチュード7.4)を体験しました。
借りていた木造アパートは、仙台市の西(山形寄り)に当たる山の中腹の造成分譲地にあり、同じ分譲地でも家屋の被害状態に大きく相違がありました。
後日、分譲地には山を削った区画と削った残土で盛土の区画があり、削った地盤に建てた家屋と盛土に建てた家屋とは、被害度合いは明らかな相違を認識しました。
昔から家を建てる時は地盤に神経を使えといわれてきたのを再認識しました。

当方が液状化現象を知ったのは、1964年の新潟地震で液状化現象で中層コンクリート住宅棟が転倒しているTVニュースを視聴し、地震の揺れでなく液状化でコンクリート建築物は転倒するのか強烈な印象があります。
この度の大震災で、葉県浦安市の液状化被害のニュースに接して、液状化対策した埋立地でも自然の力に非力と思いましたね。

読売新聞の記事『埼玉・久喜市でも液状化…市に住民の批判噴出』で、埼玉県久喜市南栗橋地区の住民が、東日本巨大地震による液状化現象の被害に苦しんでいると報道。
記事では、旧栗橋町が83年、豊田土地区画整理事業として、水田などの軟弱地盤を埋め立てた土地造成し、99年に完成。90年頃から入居が始まった新興住宅地で、被害者の男性会社員(47)は「海沿いならともかく、内陸で液状化が起きるなんて思っていた住民は一人もいない。納得できる説明や支援がなければ、地盤が怖くて戻れない」と頭を抱えていると。

木下 敏之氏が「JBpress」に寄稿の『今、江戸時代の治水に学ぶこと人間は自然を組み伏せることができるのか』で、
”「私が、古くから不動産屋をやっている方と宅地の探し方について話をしていた時に、「家を建てる時は必ず古地図を見るように」とアドバイスされたことがあります。
昔の地図を見ると、かつてはどこに川が流れていたとか、湿田だったとか、沼地がどこにあった、などということが分かります。今の河川は、昔は湾曲して流れていた川を直線的に整備していますが、いざ堤防が切れて洪水になると、昔の川の跡を水が流れることも多いのです。危ない土地が予想できます
。」”
と書いています。
埼玉・久喜市でも液状化被害も、昔の地図では湿田、沼地だったのでしょうが、市が造成した宅地であれば、庶民は市が造成したからと安心して購入したのでしょうね。

東日本大震災で三陸では、世界最大の防波堤・防潮堤でも津波には無力で多くの被害をだしたが、その中で、読売新聞の記事『此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う』が、
”「東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。

 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」

 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)

 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった

 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す
。」”
と報道しています。

本ブログで、原発について、「神でない、たかが人間が自然界を制御しようとするのは、自然の摂理への冒涜ですね。」と書きましたが、幾たびの艱難辛苦を体験してきた先人の智恵は重い教えですね。


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