天正3年(1575)11月28日、織田信長は、突然
それまでの本拠地であった岐阜城と家督を、嫡男の信忠
に譲ることを宣言した。自らは天正4年正月中旬に、近
江国安土山に城を築くこととして総奉行を丹羽長秀に命
じた。信長は当時、岐阜城に住んでいたが、永禄8年(
1565)に三好一族が足利義輝を殺害した時に、岐阜
から京へ兵を送るのにまる一日かかり京を奪還されるそ
うになったという苦い経験から、岐阜へも半日、京へも
半日の行程でいける安土山に目をつけて城を築いたとい
われている。安土山は比高差99.7メートル、約90
ヘクタールあるひょうたん形をした低丘陵で、現在は戦
後の干拓により、周りにあった琵琶湖の内湖を埋められ
てしまっているが、当時は四方を湖に囲まれ陸続きは
ごく一部というような天然の要害であった。信長はここ
に総石垣からなる巨大な城を築いた。
記録では、天正4年4月1日より、大石をもって石垣積
みが開始され、天主の造営から開始されたとある。参加
した人々は、尾張・美濃・伊勢・越前・若狭・畿内の諸
待と京・奈良・堺の大工と請職人である。瓦焼きは奈良
衆と唐人一官に命じ天主は唐様に作られたという。石垣
の石は、観音寺山・長命寺山等の近隣から集められて、
その数は三千という。「蛇石」という名石などは、三千
人を以てしても山に上ることが出来なかったことが『伍
長公記』には記されている。昼夜を問わすの突貫工事の
末、天正7年(1579)には天主が完成した。城の完
成を見たのは、天正10年(1582)のことである。そ
の年の正月には家臣を集め完成祝賀会が開れている。そ
の時の様子によると、御一門衆をはじめ、他国衆や安土
衆が呼び寄せられ、捻見寺から本丸に案内され、御殿主
では天皇の間や御幸の間、江雲寺御殿、粛殺などが披露
された。これらの記載から信長は、安土城の築城段階か
ら、正親町天皇・誠仁親王の行幸を想定して安土城を築
いていたことがわかる。安土城は信長の生活の拠点、天
下布武の拠点でもあり、行幸という政治的な場として築
城されていた事がわかるのである。
しかし、栄華を誇るはずであった城も、大正10年に起
こった本能寺の変の巻き添えにより焼失してしまう。一
説に犯人は明智光秀や在城していた甥の秀満というが、
光秀が山崎の合戦で死を遂げた日、秀満が坂本城で自刃
した時にはまだ焼亡していない。犯人はフロイスが書き
残したとおり織田信雄とするのが妥当かもしれない。近
年の発掘調査では、焼亡したのは天主を中心とした主郭
部だけであることがわかっており、城全体の98%はそ
のままの形で残っていた。本丸天主を除く城の建物の多
くは、大正13年(1585)の羽柴秀吉による近江八
幡山城築城に際して城下町ごと移転させられたものと考
えられる。移転後の城跡には秀吉が信長を弔うために墓
を造営し、城と墓を聖地として守ることを捻尼寺(現土
地所有者)に託した。この配慮はその後、幕末まで徳川
幕府でも将軍の朱印という形で代々続けられている。城
の荒廃が進むなか、大正15年(1926)に史跡指定
され、昭和15年(1940)以降、滋賀県で続けられ
ている調査整備により、総石垣に囲まれた織豊系城郭の
出発点としての城跡が次第によみがえりつつある。
信長の夢 「安土城」発掘
●安土城は信長の思想の写し絵だった
安土城-。それは信長の理念を具現化した建造物だっ
た。その城郭内の各構成要素は、それぞれ密接にからみ
あい、互いに連関しながら、有機的に信長の思想を映し
だす装置になっている。
あらためて振り返ってみると、安土城の「四本の道」
は、それぞれ城郭および城下町の構築物と連携し、それ
ぞれ固有の役割をになっていたことがわかる。
大手道は、名づけるならば「天皇の道」である。そし
て、天皇を迎えるための御所としてつくられた本丸御殿
と対応している。
百々(どど)橋口道は、名づけるならば「宗教の道」
である。この道は、その途中に設けられた掠見寺を介し
て、同じ西の稜線上に並び立つ天主に照応している。
搦手(からめて)道は、琵琶湖をたどる「湖上の道」
に通じている。水運を利用して運搬されてきた物資は、
この道を通って城内に運びこまれる。この道は、けっし
て単なる「裏道」ではなかった。金箔瓦の出土などによ
り、この道の入り口となる船着場(舟入り)のあたりが
壮麗な建築物の立ち並ぶ場所であったとわかったからで
ある。この道を物資運搬のための道として整備し、スロ
ープを設け、建築物を配し、水路を設けるなどの工夫を
こらしたことは、信長がいかにロジスティックス(補給)を重視
していたかの表れであるともいえる。
七曲がり道は、「家臣の道」である。この道は、城の北西部
に設けられた家臣たちの屋敷地に通じていたことがわかって
いる。儒長は武士たちを在野の領地から切り離し、城下町へ
移り注むことを命じた。その武士たちのために、儒艮は専用
の登城跡を用意したのである。町民たちには百々橋口道を
使わせ、武土たちには七曲がり道を登らせる。武士たちを専
門の軍事集団とし、明快に町人や農民と区別しようとした信
長儒長の発想の具現化した姿を、この道に見ることができる。
これら四本の道は、儒長の思想と事績を表す道だったので
ある。
天皇を招き、民衆を集め、家臣を移し、物資を運びこ
む。朝廷の招致、宗教の統制、家臣の集注、物資の流入
といった儒長の諸政策が、この四本の道に集約されてい
るともいえる。
一方、四本の道はまた、それぞれに奇想をこらした迷
路でもあった。大手道は途中から急に姿を変え、百々橋
口道は途中に徳見寺が設けられ、搦手道は途中で地下に
消え、七曲がり道は途中、幾度もクランクのように鋭角
に折れ曲がる文字通りの迷路である。信長は、中世にお
いては単なる軍事的要塞でしかなかった城というものを、
現代人ですらおよびもつかないほどの高度に有機的な建
造物へ進化させたのである。
安土城はあらゆる意味において、他の城に超越した独
創的な城だった。
●白亜の外壁
安土城が他に先駆けた存在であったことを実証する遺
物が他にもある。
平成12年、天主跡の調査中に発見された白壁の破片
である。
フロイスの『日本史』には、安土城の天主が白かった
ことが記されている。この発見によって、その記述が正
しいことが立証されたわけである。
安土城郭調査研究所の木戸雅寿さんは、その意義をこ
う語っている。
「城というのは、戦闘の場として成立しているわけで
すから、本来は敵の攻撃を防御するためのものだけあれ
ばいいわけですね。たとえば土で積んだ土塁だとか、そ
れから板壁などがあればいいわけなのです。
ところが、今われわれが目にできる城を見ると、そう
いう城ではなくて、全部白い壁や塀になっていたり、城
の天守も外壁が全部白く塗ってあったりするわけですね。
城の目的が戦闘だけなのだとすれば、そういうものは
全然必要ないわけですけれども、だんだんと、戦闘目的
のものよりも、人に見せることを目的として化粧した建
築物に移り変わっていくのです。
これまでは、その一番最初は大坂城ではないかといわ
れていたのですけれども、発掘調査によって安土城も白
い壁で塗られていたことが裏づけられたことになります
ので、戦闘の場ではない『見せる城』、政治の場として
使っていく城の発祥が安土城まで遡ることになりますね」
白壁の発見は、城の発達史における安土城の位置をは
っきりしたものにした。城が軍事施設であることを離れ
て政治の場に変わっていく契機は、外観の上でも安土城
からだったことになる。
もうひとつ、白壁の発見には重要な意味があった。そ
れは、それまで寺院にのみ使われていた技術を城に応用
するという画期的な発想の転換を示すものでもあったか
らである。さらに、それは従来、寺院だけに独占されて
いた建築技術を寺社以外の建築物にも解放するという意
義もあわせもっていた。
木戸さんはこの点に関して、こう語っている。
「白壁、つまり漆喰壁というのは、(当時)寺院には
ごくふつうに存在していたわけですから、安土城で白壁
が出たということは、寺院のそういう技術を信長が城に
持ちこんできたということになりますね。
当時の建物の中でおそらく寺院の建物が一番技術的に
進んでいたと思いますので、その進んだ技術を寺院だけ
のものではなくて、信長のものにしたというところに狙
いがあったと思うのです。
中世というのは寺院が権力をもっていて、瓦の技術、
建物の技術、壁をつくる技術も全部、寺院が掌握をして
いるわけなのですね。武士たちはそういうものとはあま
り関わりをもてないような状況でした。信長はそういう
技術者たちを自分のお膝下に呼べるようにした。そして、
寺社が囲ってもっている古い権力を解体して、安土城を
つくりあげていこうとした。それが信長がめざしていた
新しい世界で、そういう信長の思いが、白壁ひとつから
でもわかるのではないかと思うのです」
『第5章 信長の夢』pp.215-220
この項つづく
【エピソード】
【脚注およびリンク】
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- 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
.2.17 - 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
雅寿、吉川弘文館 - 滋賀県立安土城考古博物館
- 安土町観光協会
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