大溝城は、天下統一を目指した織田信長が、甥のる信澄
(津田七兵衛)に琵琶湖の西岸に築城させた水城である。
信澄は、『寛政重修諸家譜』によると、信長の弟勘十郎
信行(信勝)の嫡男で、幼名を坊丸七兵衛と云い、父信
行が領地横領の罪で信長に謀殺されて後、信長の家臣柴
田勝家の元で育てられ、永禄七年(1564)正月元服
し、津田姓を名のる。天正六年(1578)二月三日に
は、磯野員昌の出奔により、信長からその跡地である高
島の地を宛われて大溝城主となり、高島郡の支配権を手
中に収めた。
大溝城築城時の縄張(設計)については、妻の父上であ
る明智光秀が実施したと伝えられ、琵琶湖の内湖である
洞海(乙女ケ池)を巧みに取り入れた見事な水城を完成
させる。信澄は、織田一門衆の五番目まで地位を上げた
が、大正十年五月、織田信孝(信長の三男)の率いる四
国遠征軍の副将として大坂の住吉に着陣し、出撃待機中
の六月二目早暁、光秀が信長に対し謀反をおこし、京の
本能寺の変が勃発する。信澄は光秀の女婿ということで、
否応なく敵方にされ、信孝は丹羽長秀と謀って、六月五
日早朝、大坂城二の九千貫櫓にて信澄に攻め寄り、遂に
信澄は自害する。
JR近江高島駅を降りてすぐ東側(琵琶湖側)に公立高
島総合病院が建っている。その束手に天満城跡が所在す
る。現在、本丸天守台石垣の周辺は荒地となっているが、
本来は琵琶湖へつながる堀で囲まれている。「織田城郭
絵図面」では、本丸を囲むようにして洞海(現乙女ケ池)
が入り込み、三ヵ所の隅櫓は洞海に面している。また、
本丸を囲む侍町には、高島の戦国時代にその名を見るこ
とができる朽木氏や永田氏などの屋敷が配置されている。
また、城下町も北側に造られていたようで、本丸の北西
部に町屋を見ることができる。町名にも本町・新町・中
町などの通りが現在もあり、新庄・今市(新旭町)や南
市(安曇川町)などの名を付けた町名が残り、信澄時代
、高島郡南部から商工業にたずさわった人々を集注させ
た名残と読み取るれる。寺院についても勝安寺・妙琳寺・
大善寺は、今の地へ移築されたものである。
信澄以後、代々城主は変わり、元和五年(1719)に
伊勢上野(現三重県津市)から二万石の天溝藩主として
分部光信が迎えられ、以後、明治維新までこの地を治め
る。昭和58年、旧高島町教育委員会が大満城本丸東側
で同城の範囲確認調査を実施したところ、信長が築城し
た安土城出土の軒丸瓦と同型瓦が出土し、織田城郭群の
ひとつである証となる発見があった。また、信澄以後に
大溝城は解体され、その建築部材が水口岡山城に使用さ
れたと伝えられる。近年、水口岡山城本丸跡から先述の
同型軒丸瓦が出土し、歴史の証人として興味深い資料が
ここにひとつ加えられた。
【脚注およびリンク】
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- 大溝城趾、高島市観光情報資料
- 大溝城コース|戦国の舞台 近江を歩く、滋賀県観
光情報 - 大溝城「その過去・現在・未来」 - びわ湖源流 ドット
コム - 大溝城と城主織田信澄 - びわ湖源流 ドットコム
- 初が嫁いだ京極家ゆかりの大溝城と城下町、高島市
- 大溝城フォーラムI「大溝減の歴史的変選を考え
る」2010.01.30
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