高宮と宿場町 5

2015年07月30日 | デジタル高宮町史

旅籠(はたご)

旅籠は 本陣、問屋とともに宿場を形成る重要な施設。
本陣・問屋がいわば公的な施設であり、旅籠は庶民の
ための休泊施設。東海道の大きい旅籠は、書院造りの
上段の間にある脇本陣クラスの立派なものもあったが、
中山道ではそれより小さいものであったとされるが、
それでも大中小にクラス分けされていた。

大旅籠 間口6間以下(8~10間)
中旅籠 間口4間(5~7間)
小旅籠 間口3間(同左)

※( )ないは東海道。



標準的な旅能の問口を基礎とした分類で『中山道宿村
大概帳』では大中小の区別
をして旅籠の数を記載して
いる,それによると高宮宿は大旅籠七軒、中旅籠10
軒、小旅籠6軒と記されている。

実際に残されている旅能の間取図で間口などを調べて
みるものの、前記の区分がどの旅胞を指しているのか
不明であり、間口だけではなく、総合的な区分でなさ
れたと考えられる。

この間取り図には間口の書いてあるものが少ないく、
旅籠の数では何枚かの残っている宿絵図などの中で最
も多い。同年代の宿絵図では旅籠の位置を明らかには
されていなが、旅籠の主な名前でその位置は全て確認
されている。いずれの旅籠も中山道沿いにあって「桔
梗屋」から「」四つ目屋」までの四軒は街道の東側に、
他の七軒は西側にあった。東側に多い現象はだんだん
顕著になる。

50年ほどの間に旅籠の数はかなり減ってきているこ
とが分るとされる。「兜屋」以下の四軒だけか街道の
西側にあって他の旅籠はは東側にあった,

旅籠はおおむね三段階、大中小に区別されていた、東
海道の旅籠に比べると中山道のそれは狭小である。大
旅籠でも間口六間、中旅飢で四間のものが多く,小旅
籠でも三巻以下というのが標準であった。天保14年
(1843)の大概帳では「大七、中十、小八」と記
載されているか、時代のずれがあるとはいえこの標準
では区別することはできず、これらは「平旅籠」と呼
ばれた範疇に入るものと思われるが、高宮宿での休泊
は定かでない。東海道筋の天明時代(1781~17
88)の大旅籠が.一泊二食で一貫二百文から、一貫
五、六百文、小旅籠では五、六○から、百文であった
といわれているから、中山道ではこれ以下であっただ
ろうと考えられている。いずれにしても定められた料
金があったわけではなかった。

「飯盛旅籠」と呼ばれていた。泊まり客に飯盛給化を
したり遊女を抱えていた旅籠で、建物や部屋の間取り
か違うということではなかった。高宮宿にこれに該当
する旅籠があったかどうかは分らないが、宿場の施設
があまり大きくなかった高宮宿にはおそらくなかった
のではなかろうか。

旅籠と呼ばれる休泊施設のほかに、もっとも庶民的な
施設として「木賃宿」(きちんやど)というものがあ
った。これは文字通り、「木(薪)の代金を払い宿泊
する」というもので、自炊して泊めてもらったが、木
賃宿の料金は旅籠の料金と違い定められていた。




人馬継立 

人馬継立とは宿場から宿場への人や物の輸送を中継す
ことで、これを行うのが問屋(場)で、これを差配
するのが問屋役人だった。人馬継立には「御朱印」
「御証文」「御定賃銭」「雇上人
馬」などいくつかの
種類があった。

御朱印とは将軍が人馬の使用を許可しか特権の事で、
この中には「御茶壷」も入っており、その他門跡
や公
家などにも与えられていた。御朱印と指定されている
人馬は定められた数だけは無賃で馬や人足を雇
えたの
であった。ご証文は老中や所司代などが発行するご文
書のこと。


各宿場では、これらに対処するために、一定数の馬、
人足を準備することが義務づけられていた。宿場が

きた当初はわからないが、寛文5年(1665)『江
州犬上郡高宮宿町明細書』では伝馬役25疋、歩行役
25人。元禄2年(1685)の『御条目之写』では、
幕府道中奉行の助村の調査に対し、役馬25疋、人
夫180人、宿に馬が必要なときには、これらの助
の村々が補助すると報告されている。その後、中山道
の場合、各宿人夫50人、馬50疋と定められた。
『大概帳』には、

一、問
屋給米無之
一、継飛脚給米九石壱升九合年々大津陣屋より相渡、
  宿人馬役之者え割賦いたし来
一、宿
建人馬5人、50疋、但、囲人馬之無

ある。この『大概帳』は、天保14年(1843)
ものではあるが、これより200年ほどさかのぼる寛
永10年(1633)の文書には「高宮 一米九石壱
升九合 京升 右是は 御伝馬人足並びに次飛脚為御
用(以下略)」とある。長い間変更されなかったもの
の用である。

この給米の分配方法について天明5年(1785)の
『諸事覚』には、「一 大津表にて頂戴仕候御米九

壱升九合内弐石は九役壱升づつ、人数286人へ頂戴
六斗四升五合御米請取に参上仕候諸入用五拾目
と引換
て、六石三斗七升四合は宿役相勤候内へ頂戴」と詳細
に決められている。
これだけの給米で宿役の費用か賄
えかとは思もわれないし、まして二百年璵余も同じと
は考えられない。

                 この項つづく

【エピソード】

 

● 江戸時代の貨幣の現在価値

1文=18.5円(百文=1850円)
1疋=10文(銭)。1疋=10文(銭)とされた
のは犬追者に使う犬1疋(匹)の値段が10文(銭)
だったからという。

 

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【脚注及びリンク】
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  1. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  2. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル 

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