高宮と宿場町 3

2015年07月24日 | デジタル高宮町史

 

脇本陣

参勤交代や役人の往来が頻繁になり、本陣だけでは賄い
きれなくなってつくられたのが脇本陣である。勿論、脇
本陣の規模は本陣より小さく、一般の旅籠より一段高い
ランクの旅籠である。ここは諸大名、公用役人のほか、
幕臣・藩士が利用し、豪商など裕福な人々の利用も可能
となっていた。



脇本陣跡


高宮宿の脇本陣は 例は本陣は2軒、1軒は問屋を兼ね
ていた。本陣の北50メートルほど西側にあった。残っ
ている間取り
によると、間口7間半、奥行き8間、門構
えで玄関もある建坪74坪だった。門のほ
かに別の入り
口かあり、入りたところに「荷物継替所」と記した土間
かつづいていて、継立ての仕事を行っていたらしい。


もう一軒の脇本陣は、本卿の南.百メートルほどのとこ
ろにあった。間口9間半奥行き20間5尺建坪71坪
で、
門構えのある玄関を備えていた。いずれにも本陣にあっ
番所はない。



問屋を兼ねていた脇本陣は本陣の北川権左衛門から慶長1
3年(1636)に塩尾治右衛門に代わった。もう1つの
脇本陣
は、天明時代(1780代)からは安孫子清助家が
務めた。と
ころで、本陣、脇本陣の休泊料は、決まった分
金額あった分
けではなく、それどころかこれらは「お殿様
からの賜り物」と
いう性格のもので、お殿様の「家格」と
か「
体面」「慣習」によったものと思われる。『民間省要』
に次のように書かれている
,「百疋二百疋、或いは銀一枚、
休所にして.二百疋、三百疋五疋ぐらいまでなり。そうし
て賜の高下は分限によらず、家々の品によることなり(中
略)泊所にて一両より三両まで、又は二枚から五枚までな
りといへど、家々の格によりてその品いろいろなり」。こ

のような状況であったので、中には「お国は大和の郡山、
お高が十、五万の石、茶代はたったの二百文」となど謳わ
れ、笑われていた殿様もいたが、高宮宿の旅籠料は、彦根
代官あての覚書などの資料では、250~300文という
のが残っている。


【エピソード】

ここでの鍵語は「往来」「品格」。往来の多寡は賑わい
を顕し、品格のそれは現代風にいえばコンテンツの品質
となる。この「往来」をアレンジし付加価値に転化する
知恵が、住民と旅人に求められているのであろう。

【脚注及びリンク】
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  1. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  2. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  3. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル 

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