● 中山道近江の宿場
中山道の宿場は板橋に始まって守山に至る六七次であ
るが、京都までの街道ということで、東海道の宿場で
ある草津、大湊を加えて六九次と数えることも多かっ
た。安藤広東も「木皆海道六十九次」と題して名作を
道している。
高宮宿と他の宿とを比較してみるとその繁栄の程度が
よくわかる。天保14年(1743)の『中山道宿村
大概帳』※によると宿高2923石62升は鵜沼宿の3
200石に次ぎ、人口は本庄宿の4558に次いで2
560人を数える。また家数では本庄、能谷の両宿に
次いで第3の多さであった。これらは高宮宿には多く
の人々が生活していたことを表す数字と言える。
※江戸時代の五街道(東海道・中山道・甲州道中・日
光道中・奥州道中)およびそれに付属する街道(美
濃路・佐屋路・本坂道・山崎通・日光御成道・壬生
通り・日光道 幣使街道・水戸佐倉道)の宿駅と街
道沿いの様子を書き上げたもの。
一方、宿場の施設を比較してみると、必ずしも大きな
宿場とは言えない。旅龍の数は67宿中の38番目の
22軒であった。多いところでは深谷の80軒、本庄
の70軒などがあり、鳥居本宿でも3百軒もあった。
問屋場の数も半数以上の宿には複数あり、醒ケ井宿の
ように7ヵ所もあったところもあった。もっとも、こ
のような場合には自宅を問屋場として使用したり、交
替で問屋役人をつとめていたのそある。こうしたとこ
ろから高宮宿の性格が現れてくるようだ。交通の要衝
であり宿場としての機能はもちろんもってはいたが、
それ以上に地域経済の中心として、あるいは、多賀神
社の門前町として複合的な要素が色濃いものであった。
● 高宮宿の誕生
江戸時代以前の高宮は、平安時代までは主に歌枕とし
てあるいは紀行文の中での存在であったものが、鎌倉
時代になると「高言上布」の名声を元にした地域経済
の中心地として、また多賀神社の門前町として、人の
集まるところとなったと思われる。
中山道に宿場が整備されるにあたっては、以前からの
宿駅を指定することが多かったが、井伊家の居城が彦
根に造られるようになって、鳥居本とともに高宮も宿
場と定められた、近江の中で新しく作られたのはこの
二宿だけであった。このことで今まで宿駅であった小
野は宿場ではなくなったのである。
慶長七年(1602)、徳川家康は東海道に次いで
中山道を整備するにあたって、各宿に勘定奉行の発し
た定書を下付した。滋賀県では唯一高宮宿宛の定書が
現存している。この文書で高宮が宿場としてこのとき
に誕生したということができる。
定 高行宿中
ー 宿々において荷物につき番あい定めず 出会い
次第早速つけ送るべきこと
ー 御伝馬の荷物は、ー駄獣につき三二貫目 なら
びに駄賃は四〇貫目にあい極め候 もし難渋の
やからに於いては書付をもって申し上べき事
ー 荷物軽重のぎははかりを遣わさせ候あいだかけ
改めつくべきこと
ー 駄賃ねつみのぎは奈良座右右衛門尉 梅屋三四
郎に申しつけ候この両人切手次第つかまつるべ
き事
ー 御伝駄賃ともに夜中に限らず早々 つけ送るべ
きこと
右条々あいさだめおわんぬ もし違背のともがらに
おいては 曲事たるべきものなり よって件のごと
し、
この定書は公用、御伝馬、私用(駄賃)、の重量を定
めたもので、駄賃の値段も二人の政商の決定によった。
恐らくこの時に鳥居本、愛知川までの値段も決められ
たと思われるが不明である。また、公用を証するもの
としての伝馬朱印状、伝馬継立に関する具体的な内容
(準備すべき伝馬の数、継立区間など)を定めた文書
が下付され高札場に掲出されたであろうと思われるが、
高宮宿には残存していない。
宿場は幕府の道中奉行と領主の二重の配下にあり、宿
場機能を維持するために、旅宿のための本陣・脇本陣・
旅籠屋・茶屋といった施設が設けられた。本陣・脇本陣
には、大名や勅使・公家・旗本などの公的旅行者が休泊
した。一般の旅行者は旅籠屋に泊まり茶屋で休息を取
った。参勤交代などで大名が高宮宿に宿泊したり、休
憩したりする時には、彦根藩は受け入れ準備や接待を
行っている。
高宮宿の概観
高宮宿はどのように繁栄をしてきたのか。
ここで、天保14年(1843)の『中山道宿大概帳』
(以下、大概帳)を抜粋、アウトラインを示すことに
する(上図/上をダブルクリック)。
高宮宿の人口・家族
高宮宿は、中山道の宿場の中で家数、人口が多く、記
録にには、年代によって本家・竃数・家数などと調査
が一定していないので、単純に比較できないのかもし
れないが、およその状況を把握することはできる。
600年代の高宮宿の人口などはそれほど多くないよ
うだが、1840年代になっても寛文・延宝の時代の
高宮より人口などが少ないところが見られる。高宮は、
当時すでに街道筋では大きな集落、宿駅を形成してい
たとみられる。
人口などが急激に増加したのは、家康が豊臣氏との戦
いに備え宿駅の拡張を企て、慶長19年(1614)
に沿道各駅に付近の集落などからの移住を奨励したこ
とによる。彦根藩主もこれに従い、領内の高宮・鳥居
本・番場の各宿への移住を進めたので、自然に宿場の
人口などが拡張されていった。
宿場の施設
本陣
本陣とは、『松屋筆記』に「諸侯の旅館を本陣といへ
り」とあるように、衝迫を通行する大名や公家その他
の特権階級を宿泊させるためのいわば高級旅館であっ
て、一般人は利用することができなかった。江戸初期
には定まった場所はなく、宿場の資産家が自宅に宿泊
たりしてこれを名誉と考えていた。寛永2年(163
5)三代将軍家光によって参勤交代が制度化されると
ともに、一定の格式をもつようになり、「本陣」と名
付けられて宿内で一定の地位を確立することになった。
中山道の各宿の本陣をみると、一宿、一ヵ所であった
が、守山宿のように二ヵ所あった宿が八宿、反対に本
陣のなかった宿場も二宿あった。ちなみに東海道では
六宿のように二ヵ所あったところもあり、参勤交代を
初めとする交通量の違いが見て取れる。
高宮宿の本陣は一軒で、天明5年(1785)の文書
には、同日、八間四尺、奥行.八間、敷地面積四四八
坪、建坪は一二三坪と記録されている。円照寺の斜め
前に残っている門は修復はされているが本陣の門であ
る。これは唯一高宮に残る宿場の名残である。
本陣役は原則として世襲であったが、高宮本陣にあっ
ては親戚筋と思われる.三家か本陣役を務めた。最初
は北川四郎右衛門家が四代、宝暦11年(1761)
から小林太左衛門家が四代、最後に嘉永元年(184
8)から小林嘉十郎家が勤めた。
【エピソード】
● 円照寺
彦根市高宮町
浄土宗本願寺派
高宮家家臣の北川九兵衛が剃髪建立。境内には明治天
皇ゆかりの「止鑾の松」という名の松の大木がある。
明治天皇御巡幸の際、宿泊された所。書院入口の松は
御輿の邪魔になると伐ろうとしたが、天皇は御輿から
降りて歩かれたため枝払いせずに済んだとされる。本
堂前にある老紅梅を冠った玉垣内に徳川家康が腰掛た
とされる家康腰掛石が残っている。「明治天皇行在所
(あんざいしょ)」の碑が立つ。中山道を挟んで、向
かいは本陣跡である。当時の表門が残っている。
円照寺の向かいにある門構えのある家が、本陣跡の小林
家。
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
- 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 中山道高宮宿 馬場憲山宿
- 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブログ
- 新高宮町史 自費出版デジタル
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