長浜城と官兵衛

2013年11月22日 | 滋賀百城

 

 

 

2014年のNHK大河ドラマは、『軍師官兵衛』が放映
される。豊臣秀吉の軍師として、数々の合戦を勝利に
導いた知恵者である。官兵衛の活躍の舞台は、姫路を
中心とした播磨地方(現在の兵庫県西南部)、官兵衛
が主君と仰ぐ羽柴秀吉の本拠である北近江も重要な歴
史的な後背地だ。黒田家は近江国の守護家である京極
家の出身、官兵衛の曾祖父までは伊香郡黒田村(長浜
市木之本町黒田)に居住していた。官兵衛と同様、秀
吉の軍師・竹中半兵衛の活躍場所は、北近江での浅井
攻めの場でもある。官兵衛の長男・長政(幼名・松寿)
人質として長浜城で養育されている。また、信長亡き
後の天下分け目の合戦・賤ヶ岳には黒田官兵衛と利休
の高弟でキリシタン大名で高槻城主の高山右近も共に
参戦している。

※兵衛の先祖と近江:黒田家の発祥については、『黒
田家譜』により近江国伊香郡黒田村とするのが通説だ
が、同国坂田郡黒田郷や、播磨国多可郡発祥説ある。

   

 

さて、長浜城の話。天正元年(一五七三)九月、三十
七歳
の秀吉は浅井氏攻めの功績によって、北近江三郡
を領す
る大名となった。いったん浅井氏の旧城にあた
る小谷城に入ったが、翌年
から湖岸の「今浜」に築城
を開始し、地名を「長浜」に
変更、その居城としたの
である。その完成は、天正四年
二五七六)頃と考えら
れている。秀吉は長浜築城に際
し、その領国である北
近江の農民を徴用し、建築・土木
用材も西美濃や西近
江から集めたことが知られている。
また、現在の長浜
市街地の基礎となる城下町も、同時に
建設した。
 秀吉は、天正十年(一五八二)六月の「本能寺の変」
直後まで、この長浜城の城主をつとめたが、同月に行
われた清洲会議によって、柴田勝家の甥・勝豊か第
二代
の城主となった。勝豊の城主期間は、わずか六ケ
月程と短期間で、大正十一年(一五八三)三月から四
月にかけては、賤ケ岳合戦の秀吉本陣として使用され
た。その後、天正十三年(一五八五)閏八月から、
秀吉の家臣:田内一豊か第三代城主として入城する。
一豊の城主期間は五年間で、彼が遠州掛川城主として
転出した天正十八年一五九〇)以降は、城主不在とな
り荒廃したと推定される。



慶長十一年(一六○六)、大坂の豊臣秀頼を包囲する
ため、徳川家康は異母弟にあたる内藤信成を第四代城
主とする。哲成の長浜入城にあたっては、美濃・飛騨・
近江の住民が動員された「天下普請」で、城の改修が
行なわれている。現在わずかに残る長浜城の遺構は、
この「天下普請」の結果で、必ずしも秀吉築城の長浜
城の遺構でないことは注意を要する。さらに、慶長十
七年一六一二)に信成の子・信正が第五代城主となり
大坂の陣を迎えた。元和元年(一六一五)の大坂の陣
後、長浜城は廃城となり、その建築資材や石垣などは、
彦根築城のために使用された。

 長浜城は廃城後、田地と桑畑・畑となったので、現
在その遺構を明確にはとどめない。明治四十三年には、
本丸・二の丸(「二の丸」の呼称は推定)の跡地が「
豊公園」として整備され、さらに昭和になってからも
都市公園としての整備が進み、わずかに残っていた堀
跡などの遺構は、まったく失われてしまった。現在ま
で小規模なものも含め一五六次の調査が行われたが、
縄張を推定するにたる大きな成果を得られていない。
ただ、昭和四十四年に行なわれた第一次調査の成果は
注目され、湖岸近くに柄杓型をした石垣の根石列が発
掘されている。その場所は、現在の豊公園管理事務所
の南側にあたり、発掘された根石の並びは、地中にサ
インが埋め込まれ表示されている。



 現在、長浜城歴史博物館(復興天守閣)や国民宿舎・
豊公荘が建つ周辺が、小字本丸と呼ばれ、長浜市指定
史跡となっている。本来の天守閣は、現在の長浜城の
約五○メートル西北に残る天守台の上に構築されてい
た。江戸中期と考えられる「長浜町絵図」(今村本)
などによれば、天守台跡の大きさは、南北十間・東西
十二間であったとされている。また、天守台南の道路
両側に積まれた石垣は、大正四年の豊公園整備に当た
って、周辺に散乱していた石を積み直したものである。
湖岸には、昭和十四年に発見された「太閤井戸」があ
るが、長浜城の井戸であったかは確証がない。

 豊公園のテニスコート・市民プール・明治山の周辺
は、明治初期の地籍図には、小字欄干・浜畑と記され
た場所で、二の丸の推定地である。ただし、近代の公
園化により、二の丸部分の城郭遺構は、ことごとく失
われた。
 江戸時代から明治時代の絵図を見ると、本丸・二の
丸推定地の外側に、池状の内堀が確認できるが、ほぽ
同位置を現在「湖周道路」が通っている。その北側及
び東側が、家臣団の集住する三の丸(呼称は推定)で
あった。明治初期の地籍図には、小字として殿町(現
在の長浜駅南周辺) ・内殿町(現在の殿町周辺)・
伊右衛門屋敷などの地名が載り、城郭内であったこと

が知られる。特に、伊右衛門屋敷(現在、サーパス長
浜豊公園が建設された場所)は、山内伊右衛門一豊の
敷伝承地となっている。また、地籍図によれば、殿
町北側
には北土居・大手土居などの城郭遺構を示す地
名も残っ
ていた。現在は、殿町北側に外堀跡である大
三六堀が流れ、往時の面影をかろ
うじて保っている。
また、外堀の東北隅の交
差点には、「長浜城外壕」と記さ
れた石碑が建立されている。



 「長浜城外壕」の石碑から南に続き、長浜駅前の平
和堂
の裏手を流れる南北の川、これが外堀の遺構であ
る。長
浜城の場合、外堀は二重にあった。内側の外堀
は平和堂
の下を流れており、現在も地籍図では細長い
地番が確認
される。この外側の外堀と、内側の外堀の
間を、江戸時
代には編町と呼ぶようになった。送風機
である編を使う
金工職人が多く集住したことによる地
名である。

 大手門は長浜駅の東北、二重の外堀の間にあった。
在、通常は駐車場として活用されている、長浜ハ幡
「お旅所」の南側である。元禄九年(一九六九)の
長浜
町絵図によれば、この付近で外側の外堀幅は十五
間あっ
たという。外堀の東に城下町が広がり、大手門
からは長
浜ハ幡宮につながる、大手通りが伸びていた。

【エピソード】

 

 

 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 013.11.13、賤ケ岳合戦ジオラマに 「黒田官兵
    衛博」長浜2会場に、京都新聞
  2. 2013.05.12、官兵衛が合戦の前線にいたことが
    裏付けられた-軍師・黒田官兵衛が賤ヶ岳に参戦
    歴史的速報@2ch
  3. 2013.05.11、秀吉の「戦略指令」発見 黒田官兵
    衛参戦も判明。毎日新聞
  4. 長浜城歴史博物館
  5. 黒田官兵衛から見る近江の歴史、龍谷大学、文化・
    歴史コース
  6. 黒田屋敷、近江の城郭
  7. 松本人志 黒田官兵衛、YouTube
  8. 「播州物語」、司馬遼太郎、講談社文庫

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