【中世の彦根 5】
● 神輿道の渡御と甘呂神社
甘呂町の集落の中央部に真四角に通る道が一周している。
この道幅はいずれも二間道の十二尺(3.6メートル)
をもつ通称四小路と呼ばれています。800年以前に、
この道が設けられた。山門の政策として、日吉新社の威
勢を示す道を設けたとか、荘園拡張の協力をここ甘呂に
果せたのではないだろうかと考えられている。この道を
毎年甘呂神社の五月一日の春季大祭には、華麗荘厳な古
例の神輿の渡御が行われる。
正午神輿の渡御奏楽のあと、町内の若衆に担がれその渡
御の列は神輿二基、屋台二基、大太鼓一個に鐘一個、「
お伊勢まいり」の音頭に囃されて境内を発進し、その神
輿道に一幅の絵巻物を彷彿させる渡御が繰り展げられ、
途中、御旅所では神輿に神酒を供し小憩をとる。その後
斎場に向い、到着すると二社の神輿は交互に三度当て、
囃し立てられて休憩をとる。鐘と太鼓とは若衆によって
威勢よく連打され、祭礼はクライマックスに盛り上がる。
頃合いを見て境内に還行する。
これより二社の神輿は、西の言路から波香山に交互に三
度、囃し立てながら渡御を繰り返す。このようにして渡
御が無事終り、拝殿に待ち構える宮司によって還幸の祝
詞が奏される頃、春の夕日は西に傾き、黄昏を迎える。
さて、この甘呂神社は、その祭神は大山昨今と伊邪那美
奈としている。大山昨命は、明治以前は山王権現といい、
素佐男尊の御子犬歳神の御子で武勇絶倫の大神といわれ
ている。平安の中期、応徳三年(1086)白河上皇が
比叡山麓の坂本に圓徳院を建立された当時のこと、甘呂
はその新御堂の寺領となり、甘露庄と呼ばれた。その領
家は梶井宮で、比叡山延暦寺の末寺建立のとき、守護神
として日吉神社から波香山に勧請せられたものと伝承さ
れている。
伊邪那美命は、白山権現といわれ、日本開聞の神で、加
賀白山に座す白山姫尊です。建長年間(1249~12
55)比叡山全盛期に日吉新社として、「西の森」に勧
請し、白山社といったと伝えられています。その後享保
十二年(1727)現在の社殿に合祀。この白出社の跡
を西の森と名づける。社殿は延享二五年(1745)本
社の社殿を建立。社殿は大正二年(1913)、回廊と
ともに改築、拝殿は明治二十一年(1888)建立され、
鳥居は明治四十年(1907)に建立する。
境内の古蹟波香山は神社の東南に、往古天台宗山門末寺
甘露寺が建立され、その山号を波香山と称したがその年
号は不詳で、この地に山王社が奉伺される。五月一日の
春季大祭には二社の御輿の七度(現在は三度)御幸の儀
が行われる霊地です。由緒書の記念碑も建てられ、欅の
老大樹のその幹の周囲は、現在7・5メートル(4・87
メートル)である。
蓮池跡は、甘露寺の古蹟で「江在三郡録」に次のように
記されている。
其の当時波香山の麓から現在の御輿蔵の辺まで山水
の景をなし、蓮の花咲く頃は、他の細波香ひその妙
なる四方に薫ず。波香山の名も蓮花清波に映ずる美
観より起れり。
故老の話では、このところを天狗の川ともいい、川幅も
広くその中に入って、泳ぎ戯れたと云うことだが、現在
は埋れ、潅木さえ生い繁り、昔の縁を知る人はない。
宮居跡は、また西の宮跡ともいいます。享保十二年(1
727)、ここに鎮座した白山社を現在の社殿に合祀。
現在は広場である。蔵屋敷跡は領家梶井門跡の荘園時代
の蔵屋敷の跡である。その後総合され、勧善学校の敷地
となり、現在は公民館となっている。
※ 甘呂神社 彦根市甘呂町 0749-25-1494(甘呂公民
館)
● 甘呂城跡と城郭
上地図の整然と碁盤の目の区画は、古代の土地区両制度
の条里制地割で、1町(約109メートル)四方を基本
単位として「坪」と称し、坪には、それぞれ小字名が振
られている。集落の南端に 「城畑」「城田」「城南」
「城ノ西」など「城」の字を冠した字名が集中。「城畑」
「城田」の辺りを中心に、かつて河瀬氏ゆかりの平地城
館が広がっていたと推測されている。さらに、現在の集
落の中心付近は坪の地割をさらに南北に二分するように
走る直線的な道路や水路が設けられ間口を等しくする計
画的な屋敷割である。規模は小さく、この辺りに町屋が
形成されたと予測される。
そして、集落の周囲には現存する甘呂神社のほか、「雪
待寺」「善福寺」「大地庵」「光勝寺」「一町寺」「朱
雀院」など社寺にちなんだ小字名が存在。また、甘呂神
社の南方に存在した細長い藪は、城を取り囲んでいた土
塁の一部であり、甘呂神社の北方に現在も流れを刻む水
路は、堀の役割を担っていた可能性も考えらる。このこと
から甘呂集落の南端付近に城館を構え、その北に町屋を
形成、周囲に社寺を点在させ土塁や堀で囲った城郭都市
の原型がイメージできる。
甘呂の地は、すぐ南西側を直進する下街道(古代の巡礼
街道)が走っており、戦国時代には下街道に面し、佐和
山城や安土城・八幡山城などの城が築かれ、幾多の武将
が往来。甘呂城も規模は小さいですが、下街道沿いの重
要な位置に築かれた城と想定される。なお、小字「城南
」の地には天九郎井戸と呼ばれる井戸が残り、南北朝時
代(1336~1392)頃、甘呂に住んだ刀工天九郎俊長ゆか
りの井戸の伝承がある。
【エピソード】
甘呂は犬上川の下流に位置し、西は野田沼に接する。甘
呂は古くはF甘露」とも書く。京都の三千院に伝わる古
文書には、正中2年(1325)の西南院新御堂領の1
つとして「近江国甘露庄」と記されている。西南院は高
野山の別格本山西南院のこと。当時、甘呂は西南院の新
御堂の荘園であった。その後、甘呂の地は梶井門跡領の
荘園として維持される。
● 河瀬氏
この甘呂に、いつごろ城が築かれたか不詳であるが『江
州佐々木南北諸士帳』(佐々木一族が近江を支配した中
世に、近江に存在した城名と城主名を列挙したもの)
によると、F甘呂住佐々木陸兵河瀬大和守秀宗」と記さ
れて、甘呂には佐々木一族の家臣であった河瀬大和守秀
宗が住み、この河瀬氏のもとで甘呂に城が築かれたと見
られ、もともとは荘園の現地管理を委ねられた荘官であ
ったと推測されるが、しだいに甘呂の地を本拠として武士
化し、城を築<ようになったと考えられる。なお、『江
州佐々木南北諸士帳』を見ると、河瀬氏の名は甘呂のほ
か北河瀬や多賀の地にも認めることができ、一族と考え
られる。
16年度新年会(案)
日時 2月6日(土)か2月13日(土)のどちらかで
開宴18:00~20:00まで
場所 彦根市内西今町 『水幸亭』050-5871-1454
会費 寿司懐石(6千円+飲み放題酒代1・2千円)
送迎 幹事が責任もって手配します。
幹事敬白
【脚注及びリンク】
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- 中山道 高宮宿場町|彦根市
- 中山道 高宮宿 彦根観光協会
- 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿
- 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
- 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
- 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
中山道 2004.4.9 - 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
つり・高宮布 - 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
- 新高宮町史 自費出版デジタル
- 江佐尚白:生年不詳~享保7年(1722)7月19日
- 旧中山道六十九次徒歩の旅53/鳥居本~64高
宮宿/紀行写真集3 - いのちの神様 多賀大社
- 歴史まちづくりの特性の見方・読み方 国土技術
政策総合研究所 2013.04.11 - 「地域資源・交通拠点等のネットワーク化による
国際観光振興方策に関する研究」国土技術政策総
合研究所 プロジェクト研究報告 2008.05.21 - 「歴史まちづくりのてびき(案)」ISSN 1346-73
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北野寺とも - 淡海文庫 44 「近江が生んだ知将 石田三成」 太田
浩司 サンライズ出版 - 佐和山城 [5/5] 大手口跡は荒れ放題。現存する移築
大手門は必見 | 城めぐりチャンネル - 中井均 『近江佐和山城・彦根城』サンライズ出版2007
- 滋賀県彦根市 専宗寺 JAPAN-GEOGRAPHIC.TV
- 彦根御山絵図 彦根三根往古絵図など古絵図デジタル
・アーカイブ化に、彦根市立図書館 2012.05.27 - 稲村神社春季例大祭 太鼓登山
- 「近世初期有力農民の社会関係-近江国愛知郡下平
流村山田庄兵新家を素材に」 渡辺恒一 2013.06.13 - 「湖東地域における複数村落による 神社祭祀」 市川
秀幸 2015.03.27 - 三島由紀夫の十代の詩を読み解く18:詩論としての『
絹と明察』(1)~(7) 詩文楽-Shibunraku - 荒神山神社 公式ホームページ
- 甘呂城と川瀬氏「わたしの町戦国 06」 彦根市
- 山崎山城跡「わたしの町戦国」彦根市
- 甘呂神社 滋賀県神社庁
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