靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

理解しようとする姿勢

2012-01-28 00:04:09 | 子育てノート
学生時代、文化人類学を少しかじったのだけれど、その後の暮らしの中で、文化人類学的な姿勢というものの大切さをよく思うことがある。

それは相手のことを理解しようとする姿勢。自身が物事をとらえるフィルターを意識しつつ、できる限り相手の文脈の中で相手を理解しようとする姿勢。その人が発する言葉のその人がとる行動の背景を見つめ丁寧に文脈をつむぎ出しつつ相手を理解していこうとする姿勢。

文化人類学者は地球の果ての辺境地から身近な社会のコミュニティーまで、出かけていってはひっそりと身をおき、そこに暮らす人々と生活を共にしつつ、そこに暮らす人々を、人々の依って立つ文脈の網の目をひたすら理解しようとする。そんなフィールドワークを通し記された文献には必ず文化人類学者本人の生まれ育った歴史に基づく「見方」というものが影響しているわけだけれど、それでもとことんまで相手を理解しようとした姿勢の結晶が見て取れる。

人付き合いでも、子育てでもこの「相手を理解しようとする姿勢」の大切さ大きさを思う。どれほど乱暴に自身の見方を当てはめジャッジし切り捨てているかを思うことがある。

子どもが発する言葉、とる行動をたしなめ鋳型に入れていくのも必要なことだけれど、それらの言葉行動の生まれる背景を理解することでより根本的な解決に繋がる。理解しようとする姿勢を見せるだけで、子ども達の心がほぐれ解決してしまうこともよくある。

「何でわかってくれないの」、そんな叫びが言葉や行動の背景にあったりする。

子どもの言い分をまずは聞いてみる、すぐに自分の考え説教アドバイスに繋げず、子どもが1番柔らかな部分をむき出しにするまでとにかく聞く。そして言葉だけでない表情身振り雰囲気などもよく見、理解しようとする(コミュニケーションには言葉以外の要素が70パーセント以上を占めているという説もある)。

「わかってくれた」そう子ども達が感じるとき、初めて親の見方哲学アドバイスが心に届く。

「理解しようとする姿勢」、子どもたち、人々と関係を築いていく上で土台となること。心がけていきたい。

あなたの見ているものと私の見ているものと

2012-01-28 00:02:08 | 子育てノート
長女が何かを言いかけている。周りでは(いつものように)ちびっ子たちの叫び声、すっかり忘れていたキッチンの鍋を思い出し走り寄ると案の定焦げ焦げ、「あ~あ」と肩をすくめながら後処理しつつちびっ子たちをたしなめ。口を開きかけていた長女、ため息つきながら部屋へ行こうとする。

長女何かを言いかけ、色々な邪魔が入り、ため息、というパターンがよくある。

「あなたの家はね妹兄弟も多くてどうしようもないこともあるのだから。すぐに気持ちを損ねないで何度でも大声で話すなり、良さそうなときを見計らって話しかけてくるなりして。ママの状況も理解するようにしてね」

そんなことを言ったりしながら、ちょっとゆっくり一対一の時間を取る頃だな、と感じていた。


そんな中長女と何枚かの絵を見る機会があった。心理学などによく使われる白黒の1つの絵が、老婆に見えたり若い女に見えたり、などするもの。「オプティカル・イリュージョン(錯視)」系の子ども本にのっていたもの。

夕食後のひと時に、「あ、これ顔にも見えるけれど人の後姿にも見える!」そんな風に皆で叫びながら。

同じものを前にしても、人によっては全く違うものを見ていることもある。そんな話をする。

その夜、次男のオムツを変えている途中に長女が話しかけてくる、途中でおしりふきが足りないからと三女に一階へ取りに行くようにと話しかける私。また遮られたと長女が口をとがらせる。

「さっきの絵、思い出してみて。あなたが見ているものとママが見ているものはね、違うかもしれないのよ」

はっとした表情をする長女。何だかストンと納得した顔をしている。ああママは私と全く同じものを見ているわけじゃないんだ。


それ以来、「ほらあの絵」が相手の状況相手の気持ちを相手の視線から理解しようとするためのキーワードになっている。

長女の見ているものに触れるために、週末にでも二人で出かけよう、そんなことを思いつつ。