長女が何かを言いかけている。周りでは(いつものように)ちびっ子たちの叫び声、すっかり忘れていたキッチンの鍋を思い出し走り寄ると案の定焦げ焦げ、「あ~あ」と肩をすくめながら後処理しつつちびっ子たちをたしなめ。口を開きかけていた長女、ため息つきながら部屋へ行こうとする。
長女何かを言いかけ、色々な邪魔が入り、ため息、というパターンがよくある。
「あなたの家はね妹兄弟も多くてどうしようもないこともあるのだから。すぐに気持ちを損ねないで何度でも大声で話すなり、良さそうなときを見計らって話しかけてくるなりして。ママの状況も理解するようにしてね」
そんなことを言ったりしながら、ちょっとゆっくり一対一の時間を取る頃だな、と感じていた。
そんな中長女と何枚かの絵を見る機会があった。心理学などによく使われる白黒の1つの絵が、老婆に見えたり若い女に見えたり、などするもの。「オプティカル・イリュージョン(錯視)」系の子ども本にのっていたもの。
夕食後のひと時に、「あ、これ顔にも見えるけれど人の後姿にも見える!」そんな風に皆で叫びながら。
同じものを前にしても、人によっては全く違うものを見ていることもある。そんな話をする。
その夜、次男のオムツを変えている途中に長女が話しかけてくる、途中でおしりふきが足りないからと三女に一階へ取りに行くようにと話しかける私。また遮られたと長女が口をとがらせる。
「さっきの絵、思い出してみて。あなたが見ているものとママが見ているものはね、違うかもしれないのよ」
はっとした表情をする長女。何だかストンと納得した顔をしている。ああママは私と全く同じものを見ているわけじゃないんだ。
それ以来、「ほらあの絵」が相手の状況相手の気持ちを相手の視線から理解しようとするためのキーワードになっている。
長女の見ているものに触れるために、週末にでも二人で出かけよう、そんなことを思いつつ。
長女何かを言いかけ、色々な邪魔が入り、ため息、というパターンがよくある。
「あなたの家はね妹兄弟も多くてどうしようもないこともあるのだから。すぐに気持ちを損ねないで何度でも大声で話すなり、良さそうなときを見計らって話しかけてくるなりして。ママの状況も理解するようにしてね」
そんなことを言ったりしながら、ちょっとゆっくり一対一の時間を取る頃だな、と感じていた。
そんな中長女と何枚かの絵を見る機会があった。心理学などによく使われる白黒の1つの絵が、老婆に見えたり若い女に見えたり、などするもの。「オプティカル・イリュージョン(錯視)」系の子ども本にのっていたもの。
夕食後のひと時に、「あ、これ顔にも見えるけれど人の後姿にも見える!」そんな風に皆で叫びながら。
同じものを前にしても、人によっては全く違うものを見ていることもある。そんな話をする。
その夜、次男のオムツを変えている途中に長女が話しかけてくる、途中でおしりふきが足りないからと三女に一階へ取りに行くようにと話しかける私。また遮られたと長女が口をとがらせる。
「さっきの絵、思い出してみて。あなたが見ているものとママが見ているものはね、違うかもしれないのよ」
はっとした表情をする長女。何だかストンと納得した顔をしている。ああママは私と全く同じものを見ているわけじゃないんだ。
それ以来、「ほらあの絵」が相手の状況相手の気持ちを相手の視線から理解しようとするためのキーワードになっている。
長女の見ているものに触れるために、週末にでも二人で出かけよう、そんなことを思いつつ。
大人の私でも、時としてこの事を忘れ、「どうしてわかってくれないのだろう」「一目瞭然ではないか」と憤ることがありますが、それは必ずや相手が同じ目線で見ているものではないからですね。
この目線を、子供の目線に合わせることも忘れてはならないことだと思います。
私自身もつい自身のがんじがらめの思い込みだけから相手を決め付けジャッジしていることがあります。まさしく「一目瞭然じゃない!」と。「本当にそう?」と自身に何度も問い続けていきたいです。
「この目線を、子どもの目線に合わせること」
本当にそう思います。狭く「常識」に縛られた大人の頭をスカンと広い地平へ飛ばしてくれることがあります。
いつもmirumiruさんのコメントを読むことでまたすっきりと整理され次へと進む元気をもらっています。ありがとうございます。
こちら月曜日始まりました。一月ももう終わりなんですね!Have a wonderful weekend!