
カメラをもってふらふらしていると、なんというか、名状しがたい“奇妙な光景”に出会う。わたしはなにも考えず、とりあえず、パチリと写真を撮る。
ことばではその奇妙さには追いつけないけれど、しばらくたって、またその一枚を、まじまじと眺める。
世界は偶然の堆積物である。
観念だとか、前途に対する漠然とした不安だとか、ベトついた感情を抑えて、自分の頭の中を空っぽにすると、外部に存在するものが、じつに活きいきと見えてくる。いや・・・そうしないと、見えてはこない。
ものが眼に飛び込んでくるのだ。


どのアルバムにも、必ずこういった“ある光景”としか名づけようのない写真がまじっている。
絵解きできそうでできない。
いやもしかしたら、できるのかも知れないが、ありふれたコードの中に、現実を閉じこめたって、仕方ない。だから「なぜ?」という質問は、こういう光景を前にしては役に立たない。
「ははあ」
「ふーむ」
「なるほど」
撮影した者も、見る者も、そんな曖昧なことばを発して、しばし黙り込む。
画像にはいつだって、あるインパクトがともなう。それを見逃してはいけないのである。
こういう光景を眺めたあとでは、ことばがいかに抽象的で、不完全なものかがわかる。

そう考え、そう感じながら、一枚の・・・いや、数枚の写真と向き合う。
写真とはじつに自由なものである。撮ったのは“わたし”というフォトグラファーだけれど、どう見るか、どう感じるかは、見る者の自由にゆだねられる。
そこがおもしろいのだし、写真がじつにダイナミックなある拡がりの彼方へと投げ出される瞬間なのだ。
奇妙なのは、写真それ自体ではなく、あなたのごく身近な現実のほうなのだから。