二草庵摘録

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和歌と俳諧 その2 ~小林一茶を読め!

2016年11月01日 | 俳句・短歌・詩集
「その2」は小林一茶を取り上げる。
いままで通り一遍の関心しかなかったけれど、本気モードで読みはじめてみると、彼はこれまでわたしが漫然と考えていたより、はるかにスケールが大きい、すぐれた個性をもった俳人だということがわかってきた。
同時代の北斎が「画狂人」だとすると、一茶は「俳狂人」といえる。
現在でも十分注目されているという人もいるだろう。しかし・・・いまのわたしの気分では、まだ一茶は過少評価されているのではないか・・・と思われる。

■松尾芭蕉
寛永21年(1644年)~ 元禄7年10月12日(1694年11月28日)

■小林一茶
宝暦13年5月5日(1763年6月15日)~ 文政10年11月19日(1828年1月5日))

小林一茶は、芭蕉に119年遅れてこの世に誕生した。同じ江戸時代人とはいえ、これだけの年代の開きがあることは知っておいたほうがいいだろう。生まれたのは北信の片田舎、柏原村で、14歳で江戸に奉公に出され、流浪しながら過酷な日常を生き抜いた。それがしばしば、俳句的世界の背景をなして、二万二千句もあるといわれる作品を、多彩かつ芳醇な色に染め上げている。

このとき思い出したのは、江戸期を通じ、もっとも偉大な浮世絵師であった北斎である。
■葛飾北斎
宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉~ 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉

北斎は長命だったから1849年まで生きて、驚くべき量の浮世絵、肉筆画、漫画などを遺したが、一茶とほぼ同時代人である。しかも、北斎は晩年に近く、北信の小布施に滞在し、いくつかの後に知られるような大作を描いた。年代にズレがあるとはいえ、この両人が北信濃に居をさだめて活動したというのは、まことに興味深いものがある。



芭蕉は厳しい求道者、蕪村は文人的な教養人の側面をもっていたが、そういった風雅は一茶にはあまりない。鋭い洞察力を武器とした俳人だったが、同時に、童心を生涯忘れなかった、融通無碍な観察者でもあった。

<春の句>
雪とけて村いっぱいの子どもかな
春雨や食はれ残りの鴨が鳴く
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春

<夏の句>
涼風(すずかぜ)の曲がりくねつて来たりけり
大蛍(おほぼたる)ゆらりゆらりと通りけり
焼け土のほかりほかりや蚤(のみ)さわぐ
芭蕉翁の臑をかぢつて 夕凉

<秋の句>
有明や浅間の霧が膳(ぜん)を這(は)ふ
けふからは日本の雁(かり)ぞ楽に寝よ
秋寒(あきさむ)や行く先々は人の家
露(つゆ)の世は露の世ながらさりながら


<冬の句>
これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
うまさうな雪がふうはりふうはりと
猫の子が ちよいと押へる おち葉かな
ともかくもあなたまかせの年の暮


身近にいる小さな生き物たちは、彼の友人である。ところが、身辺の小さな世界に安住しているかと思っていると、広大な風景へ眼を向ける。辛酸を舐めただけに、しばしば辛辣な皮肉も効かせるが、その皮肉を絶妙なユーモアで包み込む術を心得ている。彼の笑いは、豪快な笑いではなく、微苦笑に近いといえるだろう。
わずか十七文字で、これだけのことが表現できるのは、じつに驚きである。

一茶は、十七文字で、この千変万化してやまない世事のくさぐさを、存分に描き尽くした天才であったと、いまは思う。
そういう彼も、明治になって正岡子規が大きく取り上げ「一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり」と評してから、ようやく広く世間に知られるようになったという。
わたし自身も、これまで、芭蕉を読むように、あるいは蕪村を読むように一茶を読んではこなかった´д`。「通俗的だからおもしろいが、通俗的だから、本腰を入れて読むに値しない」と、漠然と考えていたのである。
彼は多作であった。しかも明快でわかりやすいから、つい読み飛ばす。深沈たる精神的な奥行がないから、どうしても、読者はそういう傾向に陥る。

しかし、最近になって、わたしはあることに気がついた。
「なんとまあ、俳句するよろこびにあふれていることだろう」という一事に。
二万二千句を三十年で割ってみると、年間七百三十三句。類似句が多いため、数え方によって、異動があるようである。また俳句を遺したばかりでなく、膨大な日記が残されている。
岩波文庫には句集のほか、「父の終焉日記・おらが春」「七番日記」が収録されているが、未読。「七番日記」は上巻は手許にあったはずだが、目下行方知れずのため、紀伊國屋書店に注文してきたところ。これらは膨大な日記、メモの一部にすぎないようである。



波乱万丈というほどではないが、彼の生涯はなかなか興味深いものがある。
30歳から6年にわたる関西、九州、四国への遍歴は、その俳句的世界を大きく育てたと見られている。その評伝によると、たいへんな読書家であった一茶は、当時一大勢力を築いていた国学の本を読み漁ったのか、ナショナリズムにかぶれ、君が代の句や世直しの句をやたらとつくった。
君が代は乞食の家ものぼり哉
君が代の木陰を鹿の親子哉
世直しの竹よ小藪よ蝉時雨
世の中をゆり直すらん日の始



これらは青木美智男さんの「小林一茶 時代を詠んだ俳諧師」(岩波新書)に詳しく紹介されている。帰国した大黒屋光太夫が語り、世の注目をあびた「北槎聞略」(1779年刊)を知った一茶の世の中に対する反応とみなされるそうである。世事に極めて敏感であったし、それがかなりダイレクトに句作に反映されている。
芭蕉や蕪村の日本の伝統美につながるような「風雅」とは違った、生活に密着した俳句的世界をつくり出すのは、不可避的であったというほかない。

とにかく作りに作り、書きに書いた人である。
芭蕉がおよそ一千、蕪村がおよそ三千に較べ、なにしろ二万二千句なので、正直いって、そのすべてを読む気にはならない´Д`|┛ 読むこちらが草臥れてしまう。
ごく最近、ネット情報をあれこれ調べていて知ったことだが、彼には何でも記録し、とっておくというメモ魔的な一面があった。

《十二 晴 夜三交
十五 晴 婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木(さしき)、何者カコレヲ抜ク
十六 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七 晴 墓詣 夜三交
十八 晴 夜三交
廿 晴 三交
廿一 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交》

(「雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力~小林一茶の交合記録」より引用
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/lifestyle2/issa.pdf)

このころ一茶五十四歳、妻三十歳だが、妻菊女との睦みあいを、しっかり日記に書いている。三交、四交とは、夫婦の交わりのこと。五十を過ぎてから若い嫁をもらうことができた一茶は、たいへんな性豪ぶりを発揮し、妻を妊娠させるけれど、生まれてきた子供は幼くして、つぎつぎ死んでいく。彼の死後、後妻が産んだ女の子が成人しただけだという。
「三交」「四交」という書入れに、ちょっと笑えない必死さがにじんでいる。
また晩年になり、火災にあって焼け出され、土蔵に住むという不運な経験もしている。

わたしの小林一茶への関心は、まだはじまったばかり。
ゆっくりと時間をかけて、一茶の作品とその人生につきあってみたいと、いまは考えている。
芭蕉や蕪村は近づきがたい人物かも知れないが、一茶は隣りの隠居みたいな気安さがある。これほど興味深い、庶民の代表といえるおもしろい人間は、わが国の歴史上、そう多くはないのではないか? 彼が残してくれた作品や日記からそのことがわかるだろう。

小林一茶を読め! 読め! といまは頭の中で念仏を唱えている´Д`|┛



※次回はいよいよ正岡子規を取り上げようと考えているが、不勉強なので、しばらく先になるだろう。

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