二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

雨なほ歇(や)まず ~永井荷風のかたわらで(6)

2019年07月04日 | エッセイ(国内)
たくさんある本の山の中から、江藤淳さんの「荷風散策 ――紅茶のあとさき」(新潮文庫 /平成11年刊)が出てきたので、前半部分をあらためて読み返した。するとこん文章にぶつかった。

《漱石を除けば、私が何度も繰り返して読んできたのは、谷崎でも志賀直哉でも川端でもなく、荷風散人の、それも小説であった。
しかもそうかといって、決してなにか原稿を書こうという下心で、読むのではない。只ひたすら愉しみのために、読むのである。「腕くらべ」「墨東綺譚」「つゆのあとさき」のような長篇も、「夏すがた」や「雪解」のような短篇も、そのようにして私は、いったい幾度読み返し、読み返しして来たか知れない。」(「『おかめ笹』の地誌」より)

若く血気盛んなころに「永井荷風論」を書いていたのは知っている。江藤淳著作集でそれを、かつて読んだはずだが、いまではまったく思い出すことができない。
切れ味の鋭い、いかにも秀才が書いた文学論であった・・・という印象だけが、ボンヤリと頭の片隅に残っている。

しかし、それから幾星霜、江藤さんも年を降るにしたがって、ものの見方、感じ方が変わってくる。
そして、こういう感想をもらすように変わっていく。
20代30代で読むのと、40代50代で読む、さらに60代70代で読むのは、おのずから変遷がある。荷風が書いた文章は、小説であれ、随筆であれ、日記であれ、くり返して読むにたえる文章なのである。

谷崎と荷風は、よくならべて論じられることがある。
しかし、若き時代の経験がまるで違っていて、それがその後の作風の違いにむすびついていく。荷風はアメリカに約4年、フランスに11ヶ月遊学している。つまり荷風は「帰朝者」なのである。
そういう目で、日本と日本人を眺めている。
彼の文明批評はそこに源泉がある。気むずかしい、批判的なまなざしで世の中に向き合い、新聞の論調や世間的な常識から一歩、二歩隔たった場所に、自分の居場所をさだめた。

彼には「恒産」があったので、マスコミやら文壇に媚びへつらう必要はなかった。東京という大都市に暮しながら、隠者となる資格は十分にあったし、それを意識してもいた。しかし、庶民の暮しを高みに立って睥睨するのではなく、その淵みへと、淵みへと下りていく。そして女好きであった彼が発見したのが、吉原、洲崎、銀座、玉ノ井といった色里なのだ。


  (なぜか1~3巻までは旧版、3~5までは新版の「断腸亭日乗」5巻もどこかにあるアハハ)

岩波の全集版「断腸亭日乗」は高価であるうえ、大きく重いので、じっさいには文庫版「摘録 断腸亭日乗」(磯田光一編集)を拾い読みしている。
今日もぱらり、ぱらりと目を走らせていたら、つぎのような一節にしばし釘づけとなったので引用してみよう。

《七月十三日。雨なほ歇(や)まず。午前中中洲にいく。

七月十四日。今日も雨なり。暮方銀座にて夕餉(ゆうげ)をなし中洲病院にお歌の病を問ふ。暗夜中洲より永代橋に至る川筋のさま物さびしく一種の情趣あり。
五月雨やただ名ばかりの菖蒲(あやめ)河岸
乳のみ子の船に啼く夜やさつき雨
さみだれや人の通らぬ夜の橋
さみだれのまた一降りや橋なかば
五月雨の晴れまいそぐや人の足
深川の低き家並みやさつき空

七月十五日。淫雨歇(や)まざること殆ど旬日なり。午後扇面揮毫。夕暮銀座にて夕餉をなし、中洲に往き、芝口に立ち寄りて帰る。》(「摘録 断腸亭日乗」上巻224ページ。引用者の判断で、一部文字を替えてある)

中洲というのは、荷風がかかり付けの病院がある場所のこと。
そこへいって、胃弱だったのにもかかわらずよく食べた彼は、定期的にクスリをもらっている。
「お歌」は、このころの彼の愛人。ある事件に巻き込まれていた彼は「お歌」という愛人を、このとき病院に入院させていたのだ。
お歌は荷風の「永遠の恋びと」と評されることがあるが、とぎれとぎれに、荷風晩年まで寄り添っていた唯一の女人。「お歌」の素性や、その人となりも、研究家によって突き止められ、写真も何枚か発掘されている。


   (若き荷風と関根歌。一時期彼女に店を経営させていたことがある。ネットの画像をおかりしています)

さみだれや人の通らぬ夜の橋
深川の低き家並みやさつき空

名句とはいえぬまでも、なかなかいい句である。彼は銀座へ出かけて外食し、愛人を病院に見舞う。そして一人、帰途につくのだ。
昭和6年(1931)の7月は、こうして過ぎ去っていく。
もう一度引用するが、
さみだれや人の通らぬ夜の橋
深川の低き家並みやさつき空

・・・の二句は、こういう背景の中で読むと、一段と輝いて見える。
《暮方銀座にて夕餉(ゆうげ)をなし中洲病院にお歌の病を問ふ。暗夜中洲より永代橋に至る川筋のさま物さびしく一種の情趣あり。》

娼婦のことをしばしば「淫乱な女」としてあつかっているが、本当は荷風自身が淫乱であったのだ。小金持ちだったので、その種の女ばかり漁っていたともいえる。しかし、関根歌は、ただの商売女ではなかった。
金銭づくで女から女へ渡り歩いてきた彼が、彼女とめぐり逢えたことは、あとから彼の生涯を見渡したとき、仕合わせであったのではなかろうか、とわたしは思う。


  (荷風評伝の金字塔「考証 永井荷風」秋庭太郎)

昭和6年7月13日、14日、15日といえば、いまからおよそ88年前。
想像力を働かせるなら、わたしの目の端には、雨にけむる隅田川の橋を、傘をさして渡っていく荷風の後ろ姿がにじむ・・・まるで映画のロングショットのように。
こういうドキュメントもあるのだ。

荷風の大作「断腸亭日乗」。
この日記に分け入って、仔細に読むのは非常な骨折りだが、むろんそれだけの価値がある。過ぎ去ったばかりの平成の時代にも、多くの先人たちが、この日記を読み、心打たれて、この日記をめぐって著作を書いてきた。
荷風は日記に何曜日かは書かなかったが、天候は必ず書き込んでいる。
「雨瀟々として降る」「雨瀟々」
彼が好んだ一句。
生涯にいったい、何度このことばを書き込んだことだろう。雨に降られたその回数だけ!
いやもっとたくさんの雨瀟々が存在する。彼の欲望をかき立て、あるいは洗い流す・・・雨、雨、雨。

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