まずふとった議員のようなトノサマガエルがあらわれる。
夜行性のコウモリや 時に刺しつらぬかれたカラスがあらわれ
広大な円卓をはさんで踊っている。
ぼくには他人の悪夢が幽かながら見えている。
サバトの饗宴とでもいうような。
日本が「終わりのはじまり」に向かって
押しとどめることのできない坂道を下りはじめたいま
それは昼となく夜となく すべっていく。
すべっていく。
きみやぼくが少し騒いだくらいではどうにもならないんだってさ。
たとえ 一万人が力をあわせても。
せめてゆるやかな着地をめざし 巨大なエンジンのうなりに耳をすます。
やがてべつな動物が人間の繁栄にとって代わるだろう。
ぼくだってクルーの一員なのだから
この国を放り出してどこかへもぐり込むことはできない。
地震の巣の上の 不安な暮らしが夕景ににじんで
コウモリやカラスが飛んで・・・
光と影と 影と光が複雑に入り組んだ町の空を飛んで。
かつてここに壮麗な都があったのだ。
ぼくはいま 坂道の下から上を見あげている。
「終わりのはじまり」が終わった場所から。
ツタンカーメンの棺から発見された矢車菊はどこにあるんだろう?
かつて「時代は感受性に運命をもたらす」と書いた詩人がいた。
苦い大麦を噛んで飲み下すように そのひとことを飲み下しながら
ぼくはあるものの到来を待っている。
巨象が倒れていくカタストロフィーのようなもの であるかもしれぬ。
いなかの竹藪にころがる土器のようなもの であるかもしれぬ。
店員も客もいない真昼のデパートのようなもの であるかもしれぬ。
あの日 あのときの真っ黒い引き波のようなもの であるかもしれぬ。
その人の死に矢車菊を捧げよう。
そして あの人にも こっちの人にも。
ほかに何ができる?
何ができる? と書いたあとで考え込むってのが
ぼくの悪い癖になっちまった。
たとえば 釣り糸のさきでピチピチ跳ねる
小魚のような人というものの生涯について ね。
自注1)ツタンカーメンの棺には、妻のアンケセナーメンが置いたとされる矢車菊があり、発掘されて、三千数百年の眠りから覚めた。
自注2)「時代は感受性に運命をもたらす」は、堀川正美の「新鮮で苦しみおおい日々」から(詩集「太平洋」所収)。
自注3)写真と詩には、いつものように直接の関係はありません。