日曜日、ヒマだと仕事場が趣味の空間にばけてしまう三毛ネコ。
いまこの記事を、シューベルトのCDをかけてそれを聴きながら書いている。
1.アルページョ・ソナタ イ短調 D.821
2.ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
3.ヴァイオリンとピアノのためのソナティナ ニ長調 D.384
4.ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D.898
5.ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D.929
1920年代、1930年代の古い録音なので、音質はお世辞にも良質とはいえない。だが、演奏家はコルトー、ティボー、カザルス、ブッシュなどの往年の天才ばかり。BGMで聴くには「もったいない」音楽なのであります(^^;) 真剣に聴いていると、ご本人すらよくはわからないさまざまなインスピレーションが、ボーフラ・・・いや、雲霞のごとくわいてくる(笑)。
ここからが、今日の本題。
まずこの写真は、出入りのリフォーム屋さんからいただいた、ヤマトイモのつめあわせ。
群馬県太田市(旧境町)産で、生産者の名が入っている優良品である。
せっかくいただいたので、むだにせず、なんとか料理して食べようではないか(^_^)/~
一昨日は皮むき器で皮をむき、摺り下ろして醤油だけで食べた。
ところが、そのままでは、とろみが強すぎ、食べにくい。
すっかり耄碌して、めったに料理などしなくなった母は、「摺り下ろしてから、だし汁でちょっと薄めると食べやすくなるし、おいしいのだ」とウンチクをたれてくれた。
しかしまあ、1本の半分ばかりを両親とわたしと3人でたいらげた。
そして、昨日。
三毛ネコは、このヤマトイモを、てんぷらにして食してみようと考えた。
ところが・・・これが失敗の元。
てんぷら用の鍋がないから、フライパンに多めの油をひいて、摺り下ろしたヤマトイモを、おおさじですくって、ぽとん、ぽとんと落としてみた。
アオサ少々と、鰹節のだし汁を少量入れて、ゆるくしてある。ところが、これが、ツナギがないせいか、油では固まらないことが判明。フライパンで炒めているあいだに、かえってとろみが強くなってしまい、ちょっとつまんで味見したら、なんとも奇妙奇天烈な味。
まいったなあ、失敗だぞ^^;
そこで、オリーブオイルをたらしてみた。
両親に試食させたところ、おかしな顔をされた。
「これはまずいね。捨てちゃいなよ」
うーん。母屋へいって、口にしてみたが、一口でたくさん(>_
朔太郎をはじめて読んだのは、中学生のころ。教科書に「月に吠える」から選ばれた何編かの詩が掲載されていた。
郷土の詩人としていまでは地元の敬愛をあつめ、前橋文学館などは、朔太郎の顕彰施設の感がある。
<前橋文学館>
http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/
<萩原朔太郎記念館>
http://www.city.maebashi.gunma.jp/ctg/14400012/14400012.html
現在、青空文庫で萩原朔太郎の主要作はおおよそ読めるから、
ケータイ端末やゲーム機で詩を読む人がふえつつあるのだろうが、
わたしのような旧世代の人間は、実感や手ざわりを大事にするアナログ人間なので、
印刷物(書物)への偏愛をいまだにひきずっている。
ここにあげた「青猫」はむろんオリジナルではなく、近代文学館が刊行した「名著復刻全集」の中の一冊である。下は新潮日本文学アルバム、朔太郎の遺品と題された見開き。
「朔太郎の詩はどうですか?」
「うーん、いいですよね。だけど、いまさら萩原朔太郎でもないでしょう」
21世紀の現在、詩を書いている人に質問したら、99%がそんな返事をするだろう。
しかし・・・とわたしは考えている。ではこれはいかがでしょう?
この蛸をなんの暗喩ととらえるか(やや長い散文詩だが、我慢して読んでいただきたい)。
読みのがしていたこの作品と、昨年めぐりあって、わたしはもう一度この詩人と向き合わなければならないと考えはじめているのである。
<死なない蛸>
或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
・・・いかがです!?
いまこの記事を、シューベルトのCDをかけてそれを聴きながら書いている。
1.アルページョ・ソナタ イ短調 D.821
2.ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 ハ長調 D.934
3.ヴァイオリンとピアノのためのソナティナ ニ長調 D.384
4.ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D.898
5.ピアノ三重奏曲第2番 変ホ長調 D.929
1920年代、1930年代の古い録音なので、音質はお世辞にも良質とはいえない。だが、演奏家はコルトー、ティボー、カザルス、ブッシュなどの往年の天才ばかり。BGMで聴くには「もったいない」音楽なのであります(^^;) 真剣に聴いていると、ご本人すらよくはわからないさまざまなインスピレーションが、ボーフラ・・・いや、雲霞のごとくわいてくる(笑)。
ここからが、今日の本題。
まずこの写真は、出入りのリフォーム屋さんからいただいた、ヤマトイモのつめあわせ。
群馬県太田市(旧境町)産で、生産者の名が入っている優良品である。
せっかくいただいたので、むだにせず、なんとか料理して食べようではないか(^_^)/~
一昨日は皮むき器で皮をむき、摺り下ろして醤油だけで食べた。
ところが、そのままでは、とろみが強すぎ、食べにくい。
すっかり耄碌して、めったに料理などしなくなった母は、「摺り下ろしてから、だし汁でちょっと薄めると食べやすくなるし、おいしいのだ」とウンチクをたれてくれた。
しかしまあ、1本の半分ばかりを両親とわたしと3人でたいらげた。
そして、昨日。
三毛ネコは、このヤマトイモを、てんぷらにして食してみようと考えた。
ところが・・・これが失敗の元。
てんぷら用の鍋がないから、フライパンに多めの油をひいて、摺り下ろしたヤマトイモを、おおさじですくって、ぽとん、ぽとんと落としてみた。
アオサ少々と、鰹節のだし汁を少量入れて、ゆるくしてある。ところが、これが、ツナギがないせいか、油では固まらないことが判明。フライパンで炒めているあいだに、かえってとろみが強くなってしまい、ちょっとつまんで味見したら、なんとも奇妙奇天烈な味。
まいったなあ、失敗だぞ^^;
そこで、オリーブオイルをたらしてみた。
両親に試食させたところ、おかしな顔をされた。
「これはまずいね。捨てちゃいなよ」
うーん。母屋へいって、口にしてみたが、一口でたくさん(>_
朔太郎をはじめて読んだのは、中学生のころ。教科書に「月に吠える」から選ばれた何編かの詩が掲載されていた。
郷土の詩人としていまでは地元の敬愛をあつめ、前橋文学館などは、朔太郎の顕彰施設の感がある。
<前橋文学館>
http://www15.wind.ne.jp/~mae-bun/
<萩原朔太郎記念館>
http://www.city.maebashi.gunma.jp/ctg/14400012/14400012.html
現在、青空文庫で萩原朔太郎の主要作はおおよそ読めるから、
ケータイ端末やゲーム機で詩を読む人がふえつつあるのだろうが、
わたしのような旧世代の人間は、実感や手ざわりを大事にするアナログ人間なので、
印刷物(書物)への偏愛をいまだにひきずっている。
ここにあげた「青猫」はむろんオリジナルではなく、近代文学館が刊行した「名著復刻全集」の中の一冊である。下は新潮日本文学アルバム、朔太郎の遺品と題された見開き。
「朔太郎の詩はどうですか?」
「うーん、いいですよね。だけど、いまさら萩原朔太郎でもないでしょう」
21世紀の現在、詩を書いている人に質問したら、99%がそんな返事をするだろう。
しかし・・・とわたしは考えている。ではこれはいかがでしょう?
この蛸をなんの暗喩ととらえるか(やや長い散文詩だが、我慢して読んでいただきたい)。
読みのがしていたこの作品と、昨年めぐりあって、わたしはもう一度この詩人と向き合わなければならないと考えはじめているのである。
<死なない蛸>
或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
・・・いかがです!?