二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

森鴎外「雁」

2008年04月20日 | 小説(国内)
森鴎外の「雁」を久しぶりに読み返したので、感想を書いておこう。
新潮文庫に「山椒大夫・高瀬舟」「阿部一族・舞姫」という短編集があって、
これは5年にいっぺんくらいは読み返してきた。
文豪ということばがあるが、鴎外ほど、この表現にぴったりの文学者はいないだろう。
売文をこととして市井に生きる三文文士ではなく、軍医総監・医務局長を長く勤め、その後、帝室博物館総長、帝国美術院院長という、明治・大正の官僚として、いわば最高位を極めた人物。鴎外は「二足のわらじ」を履きとおしたのであった。
しかも、明治文学の指導的人物で、同時代ばかりでなく、後世に大きな影響をあたえている。永井荷風も、生涯にわたって鴎外を畏敬しつづけたし、中野重治、石川淳、松本清張、山崎正和などに、すぐれた「鴎外論」を書かせてもいる。

しかし、わたしの場合、鴎外論を語るようには、鴎外を愛読してきたとはいえない。
岩波書店からは、全38巻という大部な全著作集が刊行されていて、
神田神保町の古書店などで、たまに見かけるが、いま、鴎外の全集を買って読むのは、どういった人であろう。Netで検索したら、ちくま文庫から「鴎外全集」全14巻が出ている。
わたしはこれなら、手許においておくにはいいかも知れないな~、という程度の鴎外ファンである。

「ヰタ・セクスアリス」「青年」「渋江抽斎」といった長編もそれぞれファンがいるだろうが、
「雁」の人気にはおよばないだろう。
客観的な、三人称の小説としての魅力を十分に備えているし、ロマンの香りただよう恋愛小説的な味わいを持っているから、若いころ、そういった興味で読むのではないかと思われる。
視点がゆれているため、小説の終わりちかくなって「ん、あれれ・・・」と戸惑う場面がある。「ぼく」という語り手をもうけず、いっそのこと、神の視点で押し切ってしまったほうがすっきりした。

「雁」は、1911~13年にわたって「スバル」に連載されている。年譜をみると、1910~15年は、鴎外がもっとも旺盛に執筆活動をおこない、いまよく読まれている作品の多くが、この時期に集中しているのがわかる。
その中心に「雁」があると、わたしはみている。

現代の小説の水準からいえば、けっしてうまい作品とはいえないが、
読みどころは、まず第一に、明治十年代の町の風物や、一般庶民の生活習慣の描写である。
長くなるので、引用はひかえるが、「拾」「拾壱」「拾参」の章を読む者は、当時の本郷、池之端、湯島を幻灯のように頭に思い浮かべるに違いない。
なかでも、ヒロインが住む無縁坂界隈は、鴎外が筆を惜しまず、丹念に描いているので、
読者は「明治の無縁坂」を、作者といっしょに辿ることができる。これが、現代の読者にとっては、この小説の、いわば第一の効用である。

お玉は高利貸し末造の「囲い者」となるが、その境涯に満足できない女として登場する。岡田は帝大の学生。この三者の、すれ違いと幻滅を、鴎外は見事にこの小説のなかに封じ込めている。こんど読み返して気がついたのは、末造という高利貸しの描写。
こういった人物を、作者は、じつに的確に、ありありと掴みだして、読者のまえに差し出す。末造・お常の夫婦関係が、じつに巧みなサブストーリーになっているため、作品の奥行きというか、陰影がぐっと深くなっている。

嫉妬の象徴として使われる傘や、お玉のアナロジーとも読める紅雀、外部から襲ってくるある種の「暴力」として登場する蛇。鴎外は小道具を配し、ささやかなエピソードを積み重ねながら、読者を「雁」という小説世界に向き合わせる。
鴎外はおそらく「フィクション」があまり得意ではなかったのであろう。
明治の終焉を見届け、乃木大将の殉死を聞いて、即座に「興津弥五右衛門の遺書」を書き上げ、以後史伝に沈潜していく鴎外が、小説家としての才能のきらめきをこの一編のなかに残してくれたのである。

友人とのあいだに、東京散歩の話が持ち上がったとき、
わたしは無縁坂を歩いてみたいと、すぐに思った。
東大構内の三四郎池のほとりに立ち、鉄門をくぐって、無縁坂を降り、池之端へ出てみたかったのであった。
それは、2008年4月16日に実現した。
無縁坂の途中あたりから、不忍池の枯れ蓮が見えた。雁がいたが、カモメもかなりの数が棲息している。
「雁」と「三四郎」のトポスを訪ねる小さな旅。

小説はフィクションでもいいが、背景は現実の「場所」をなるべく忠実に再現したもののほうがいい。
「ある日、ある場所」など、われわれの記憶にはとどまらない。
「あの日、あの場所」は、いこうとすれば、その場に立って、そのテクスチャーにふれることができる。それがまた、わたしの、ひいては読者の想像力をいききと活気づかせるのだと、信じているのである。

読むなら岩波文庫がおすすめ。
表紙には、初版本にあった横山大観描く雁の絵が復元されているし、
巻末には小説の舞台となった明治の地図が添えられているからである。

 森鴎外「雁」岩波文庫 >☆☆☆☆★

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