<熊谷市>
町歩きをし、街角に立ってカメラを構えるとき、わたしの脳裏をときおりかすめる一人の写真家がある。いや、ほかにいない・・・というのではないが、ここでは一人ということにしておこう(笑)。
以前にも書いたことがあるから「ああ、またか」とお思いの方もおられるだろう(^^;)
その人物の名は、ウジェーヌ・アジェ(1857~1927年フランス)。
この人物と、最初にどこで出会ったのか、よく覚えていない。
中平卓馬さんの本だったか、伊藤俊治さんの本だったか――あるいは、「アサヒカメラ」のなにかの特集号だったか?
アッジェやエバンズ、あるいはロバート・フランクとの出会いが、それまで前田真三さんばりの風景写真を撮っていたわたしの意識を、180度転換させたのであった(=_=)
アジェは後世によって見いだされた写真家である。
わたしは彼の詳細な伝記は読んだことがないから間違っているかもしれないが、ベレニス・アボットが、アジェの最晩年にかろうじてまにあい、散逸しかけた彼の数万枚の「ガラス乾板」を救い出した。
アボットは私財を投じ、あるいは政府にはたらきかけ、彼の写真が後世に残るよう、全力をかたむけた。
アジェのポートレイトをはじめて見たときの印象は、その後彼が残した作品を、数年かけてくり返し見ていくうちに、深まっていった。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20110712/p2
~blog「記憶の彼方へ」
よくいわれるように、彼こそ近代写真の父である。
この時代、写真は絵画の婢(はしため)でしかなかったのである。
彼自身、自分が重い暗箱をかついで、生活のために撮り歩いている写真が、後世にどれほどの影響力をもつようになるか、想像できなかったのである。
アボットが、アジェの最初の「発見者」となった。
彼女は屋根裏で貧しく暮らすアジェ・・・最晩年の彼に、会いにいった。それが写真史には必ずといっていいほど取り上げられる、アボットが写した2枚(・・・たぶん)のアジェなのである。先駆者の例にもれず、彼もまた、自分が後年どれほど有名になるか知るよしもない。
わたしはパリを歩いているわけではないし、1枚撮影するのに何分、何十分とかかるような組み立て暗箱をかついて歩くわけでもない。
わたしの写真機は、ローライフレックス3.5F。レンズ交換のできない、とても素朴な、ほとんど滅亡寸前にある不自由な二眼レフである。
また、シャッターを開けて何分も待たなければ像をとらえることができないガラス乾板ではなく、フジフィルムのPRO400という、最新式のフィルムの恩恵に浴している(^_^)/~
だけど、この少々重たいカメラを首からさげて街角に立つと、わたしのかたわらに、一人の男の影が寄り添ってくる。
それがアジェなのである。
<熊谷市>
<佐久市岩村田>
<佐久市中込>
だからわたしは、一人で知らない町を4時間ほどかけて歩きながら、少しも孤独ではない。
「アジェよ、あんたはすごかった」
そんな思いに駆られる。
老いさらばえたアジェの像は、アボットが眺めた「そのときの」・・・つまり1926年か27年のアジェその人の像である。写真以外、こんなに長い時空を超越し、「その場の空気」に対面させてくれるメディアはほかにない。
時代遅れの一台のカメラの向こう、はるか彼方にその男がいる。
しかし、一方で、写真の中のアジェは、わたしの眼のまえにいるのである。
・・・そのことに対する驚きと感動・・・のようなもの。
写真に立ち向かうとき、その情熱のいわば源泉といった場所に、わたしの場合はアジェの存在がある。やや大げさなものいいとなるけれど、現代の写真家が、意識するしないにかかわらずアジェの影の下にいるのと同じように、わたしもまた――。
《そして変化する世界のなかで老いて死に近づいてゆく自分の変化をアボットに撮らせることによって、アジェは自己像を「古きパリ」の群像の片隅にひそかに埋葬しようとしたのかもしれない。》(上記blogより)
町歩きをし、街角に立ってカメラを構えるとき、わたしの脳裏をときおりかすめる一人の写真家がある。いや、ほかにいない・・・というのではないが、ここでは一人ということにしておこう(笑)。
以前にも書いたことがあるから「ああ、またか」とお思いの方もおられるだろう(^^;)
その人物の名は、ウジェーヌ・アジェ(1857~1927年フランス)。
この人物と、最初にどこで出会ったのか、よく覚えていない。
中平卓馬さんの本だったか、伊藤俊治さんの本だったか――あるいは、「アサヒカメラ」のなにかの特集号だったか?
アッジェやエバンズ、あるいはロバート・フランクとの出会いが、それまで前田真三さんばりの風景写真を撮っていたわたしの意識を、180度転換させたのであった(=_=)
アジェは後世によって見いだされた写真家である。
わたしは彼の詳細な伝記は読んだことがないから間違っているかもしれないが、ベレニス・アボットが、アジェの最晩年にかろうじてまにあい、散逸しかけた彼の数万枚の「ガラス乾板」を救い出した。
アボットは私財を投じ、あるいは政府にはたらきかけ、彼の写真が後世に残るよう、全力をかたむけた。
アジェのポートレイトをはじめて見たときの印象は、その後彼が残した作品を、数年かけてくり返し見ていくうちに、深まっていった。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20110712/p2
~blog「記憶の彼方へ」
よくいわれるように、彼こそ近代写真の父である。
この時代、写真は絵画の婢(はしため)でしかなかったのである。
彼自身、自分が重い暗箱をかついで、生活のために撮り歩いている写真が、後世にどれほどの影響力をもつようになるか、想像できなかったのである。
アボットが、アジェの最初の「発見者」となった。
彼女は屋根裏で貧しく暮らすアジェ・・・最晩年の彼に、会いにいった。それが写真史には必ずといっていいほど取り上げられる、アボットが写した2枚(・・・たぶん)のアジェなのである。先駆者の例にもれず、彼もまた、自分が後年どれほど有名になるか知るよしもない。
わたしはパリを歩いているわけではないし、1枚撮影するのに何分、何十分とかかるような組み立て暗箱をかついて歩くわけでもない。
わたしの写真機は、ローライフレックス3.5F。レンズ交換のできない、とても素朴な、ほとんど滅亡寸前にある不自由な二眼レフである。
また、シャッターを開けて何分も待たなければ像をとらえることができないガラス乾板ではなく、フジフィルムのPRO400という、最新式のフィルムの恩恵に浴している(^_^)/~
だけど、この少々重たいカメラを首からさげて街角に立つと、わたしのかたわらに、一人の男の影が寄り添ってくる。
それがアジェなのである。
<熊谷市>
<佐久市岩村田>
<佐久市中込>
だからわたしは、一人で知らない町を4時間ほどかけて歩きながら、少しも孤独ではない。
「アジェよ、あんたはすごかった」
そんな思いに駆られる。
老いさらばえたアジェの像は、アボットが眺めた「そのときの」・・・つまり1926年か27年のアジェその人の像である。写真以外、こんなに長い時空を超越し、「その場の空気」に対面させてくれるメディアはほかにない。
時代遅れの一台のカメラの向こう、はるか彼方にその男がいる。
しかし、一方で、写真の中のアジェは、わたしの眼のまえにいるのである。
・・・そのことに対する驚きと感動・・・のようなもの。
写真に立ち向かうとき、その情熱のいわば源泉といった場所に、わたしの場合はアジェの存在がある。やや大げさなものいいとなるけれど、現代の写真家が、意識するしないにかかわらずアジェの影の下にいるのと同じように、わたしもまた――。
《そして変化する世界のなかで老いて死に近づいてゆく自分の変化をアボットに撮らせることによって、アジェは自己像を「古きパリ」の群像の片隅にひそかに埋葬しようとしたのかもしれない。》(上記blogより)