最初に「文章読本」を書いたのは、いうまでもなく、谷崎潤一郎。それ以来、ずいぶんと類書が出現し、近年文藝批評家の斎藤美奈子さんが「文章読本さん江」を書いて、そういった現象を、彼女特有の毒舌でからかっている。
わたしが読んだなかでは、いちばんの力作は、丸谷才一さんの「文章読本」だろう。蘊蓄話は重厚感たっぷり、寝転がって気軽には読み飛ばせない文体論の秀作といっていい。
もうひとつ、おもしろかったのは、向井敏さんの「文章読本」。
こちらは軽快でスピード感あふれる、すばらしい文章読本となっていて、愉しく読めた。
ところで、三島由紀夫。
わたしはこの作家の「よき読者」ではない。むしろ、どちらかというと、いくつかの短編をのぞき、どうしても好きにはなれない小説家。わが意を得たりと思ったのは、三島本人との対談で「金閣寺」を評して「あれは、小説ではなく、詩だ。小説を書くなら、やってからのことを書け」といった小林秀雄のことば。
「そうしないと他人というものが、ほんとうには出てこないのだ」と小林はいう。自意識の病など、もう信用していない批評家の言である。
ところで、わたしが三島由紀夫の著作のなかで、愛好している本が一冊ある。それが、この文章読本。高校の終わりごろ、単行本を古本屋で探して読み、これまで二度読んでいる。
今回もBOOK OFFでふと手にして読みはじめ、この文庫版を結局は買ってきて、たちまち読みおえてしまった。
引用されている「過去の名作」の断片が、正確無比といいえる域に達していて、若いころのわたしに影響を与えた。引用された部分だけを拾い読みしても、十分愉しめるようなレベルなのである。鴎外の諸作や、杉捷夫訳のメリメなど、お手本とすべき名文として、わたしの頭に刷り込まれてしまったといっていい。
この「文章読本」に触発されてわたしは、その後、5、6冊は三島の小説を読むこととなった。
ところが、小説家三島由紀夫は、批評家三島由紀夫を裏切っているのである。
舞台を見たことがないから、正確なところは判断保留としておくが、脚本家・劇作家としても、一流なのであろう。しかし・・・わたしにいわせれば、小説はあまりに技巧的・人工的で、彼が文学者としては書斎の人であり、「生の人生の感触」をその作品に注ぎ込んだとは、到底いえないのである。「金閣寺」ばかりでなく、「仮面の告白」も、わたしには読めない。
彼は、本書で読者のパターンを「レクトゥール(普通読者)」と「リズール(精読者)」の二つに分け、今までレクトゥールだった人をリズールに導きたいと述べている。本書は三島による作家論であり、自身の文体論なのである。鴎外と泉鏡花の文章を比較対照し、日本語表現の幅の広さ、深さ、特徴を明快に論証してみせているあたりの手際はすばらしい説得力をもっている。
鹿島さんがまとめた「三島由紀夫のフランス文学講座」(ちくま文庫)を読んだときも、いわば「批評の快楽」と一体となったこの人の理解力の明晰さに、目が覚める思いをしたものであった。
わたしの友人のなかにも、三島の支持者が何人かいる。買っただけで放置してある「宴のあと」「絹と明察」あたりは、わたしにもおもしろく読めるかもしれないと考えたり、「豊饒の海」を、もう一度精読してみようかと、いまなんとなくインスパイアされてしまった気分ではある。
こういう本を熟読玩味していると、「ほんたうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど」の小説好きが出来上がる。そういう意味では、高校の終わりごろに読んだこの「文章読本」は、わたしの小説好きを決定づけた一冊といえるのだろう。「批評の快楽」とは、むろん、書評の快楽とも、深くむすびついている。
評価:★★★★★
わたしが読んだなかでは、いちばんの力作は、丸谷才一さんの「文章読本」だろう。蘊蓄話は重厚感たっぷり、寝転がって気軽には読み飛ばせない文体論の秀作といっていい。
もうひとつ、おもしろかったのは、向井敏さんの「文章読本」。
こちらは軽快でスピード感あふれる、すばらしい文章読本となっていて、愉しく読めた。
ところで、三島由紀夫。
わたしはこの作家の「よき読者」ではない。むしろ、どちらかというと、いくつかの短編をのぞき、どうしても好きにはなれない小説家。わが意を得たりと思ったのは、三島本人との対談で「金閣寺」を評して「あれは、小説ではなく、詩だ。小説を書くなら、やってからのことを書け」といった小林秀雄のことば。
「そうしないと他人というものが、ほんとうには出てこないのだ」と小林はいう。自意識の病など、もう信用していない批評家の言である。
ところで、わたしが三島由紀夫の著作のなかで、愛好している本が一冊ある。それが、この文章読本。高校の終わりごろ、単行本を古本屋で探して読み、これまで二度読んでいる。
今回もBOOK OFFでふと手にして読みはじめ、この文庫版を結局は買ってきて、たちまち読みおえてしまった。
引用されている「過去の名作」の断片が、正確無比といいえる域に達していて、若いころのわたしに影響を与えた。引用された部分だけを拾い読みしても、十分愉しめるようなレベルなのである。鴎外の諸作や、杉捷夫訳のメリメなど、お手本とすべき名文として、わたしの頭に刷り込まれてしまったといっていい。
この「文章読本」に触発されてわたしは、その後、5、6冊は三島の小説を読むこととなった。
ところが、小説家三島由紀夫は、批評家三島由紀夫を裏切っているのである。
舞台を見たことがないから、正確なところは判断保留としておくが、脚本家・劇作家としても、一流なのであろう。しかし・・・わたしにいわせれば、小説はあまりに技巧的・人工的で、彼が文学者としては書斎の人であり、「生の人生の感触」をその作品に注ぎ込んだとは、到底いえないのである。「金閣寺」ばかりでなく、「仮面の告白」も、わたしには読めない。
彼は、本書で読者のパターンを「レクトゥール(普通読者)」と「リズール(精読者)」の二つに分け、今までレクトゥールだった人をリズールに導きたいと述べている。本書は三島による作家論であり、自身の文体論なのである。鴎外と泉鏡花の文章を比較対照し、日本語表現の幅の広さ、深さ、特徴を明快に論証してみせているあたりの手際はすばらしい説得力をもっている。
鹿島さんがまとめた「三島由紀夫のフランス文学講座」(ちくま文庫)を読んだときも、いわば「批評の快楽」と一体となったこの人の理解力の明晰さに、目が覚める思いをしたものであった。
わたしの友人のなかにも、三島の支持者が何人かいる。買っただけで放置してある「宴のあと」「絹と明察」あたりは、わたしにもおもしろく読めるかもしれないと考えたり、「豊饒の海」を、もう一度精読してみようかと、いまなんとなくインスパイアされてしまった気分ではある。
こういう本を熟読玩味していると、「ほんたうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど」の小説好きが出来上がる。そういう意味では、高校の終わりごろに読んだこの「文章読本」は、わたしの小説好きを決定づけた一冊といえるのだろう。「批評の快楽」とは、むろん、書評の快楽とも、深くむすびついている。
評価:★★★★★