二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

クセジュ、わたしは何を知っているか? ~モンテーニュを読む

2021年04月11日 | エッセイ(国内)
クセジュというと、岩波新書の元になったクセジュ文庫を思い浮かべる人が多いだろうが、その語源が、モンテーニュの「エセー」にある。
フランス文学をやった人はもちろんのこと、フランス語の“ Que sais-je?”を知らない読書人は存在しないだろう、ごく一部の例外をのぞいて。


■宮下志朗「モンテーニュ 人生を旅するための7章」岩波新書(2019年刊)を読む

宮下志朗さんは1947年のお生まれで現在、東京大学の名誉教授。ご専門はルネサンス文学、書物の文化史である。
ちくま文庫の「ガルガンチュアとパンタグリュエル」全5巻を、買おうか買うまいか非常に迷ったことがあるので、お名前は存じ上げていたが、その著書を読むのははじめて。
ご専門からほんのちょっとはずれるが、白水社から「エセー」全7巻の訳書を刊行している。それほどお高い本ではないけれど、全7巻ともなると、1万7千円ほど。
おいそれと買える金額ではない(。-_-。)

それはともかく「エセー抄」(1巻本)に手を出しかけたこともあったので、宮下さんのお名前はよく覚えている。

https://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/9dbc3a4faae68bd9cdf3542c1526f02f
(二草庵摘録)

モンテーニュについて書かれた本といえば、保苅瑞穂「モンテーニュ よく生き、よく死ぬために」 (講談社学術文庫)をまず挙げなければならない。
圧倒的な感銘をうけた一冊だからだ。
宮下さんのこの「モンテーニュ」も、つい保刈さんのモンテーニュと比較してしまう。そちらに比して感銘の度合いが低かったので、星は4個に留めておくが、良書であることは疑いない。

学生時代に秋山駿さんにお会いしたとき(場所は中野のかの“クラシック”)、「ドストエフスキー以外なら、どんな本がおすすめですか」とお訊ねした。すると「モンテーニュは折りにふれてよく読んでいますね」という答えが返ってきたのは、うろ覚えながら記憶にある。
秋山駿さんの“枕頭の書”が、このエセーであったのだ。秋山さんは、フランス文学の人なのだ・・・とそのとき、意識した。





いま、わたしの手許には原二郎訳「エセー」岩波文庫(ワイド版)と、荒木昭太郎訳の中公クラシックス版がある。
どちらも全巻揃いではないのが残念だが・・・。
「エセー」は大部な書物だし、ストーリーを追う愉しみはないので、トルストイの長編を読むつもりで第1巻から読んでいったら必ず挫折する。
わたしは拾い読みしかしていないが、それでいいと思っている。

大雑把にいえば、日本の「徒然草」のフランス版であろう。ただし、「徒然草」と違って、世界中でよく読まれている。ボルドー近郊の「モンテーニュの城」は、いまや観光名所と化しているといわれる´・ω・?
ところで宮下さんは、「エセー」の完訳を成し遂げた方である。「エセー」の隅々まで、知悉しているのだ。岩波の新書編集部からオファーがあるのも当然。

《「人間はだれでも、人間としての存在の完全なかたちを備えている」―不寛容と狂気に覆われた一六世紀のフランスを、しなやかに生きたモンテーニュ。本を愛し、旅を愛した彼が、ふつうのことばで生涯綴りつづけた書物こそが、「エッセイ」の始まりだ。困難な時代を生きる私たちの心深くに沁み入る、『エセー』の人生哲学。》(BOOKデータベースより)

本書では序章+7章に分けてこの大部な書物を分析してみせている。

序 章 モンテーニュ、その生涯と作品
第1章 わたしはわたし
第2章 古典との対話
第3章 旅と経験
第4章 裁き、寛容、秩序
第5章 文明と野蛮
第6章 人生を愛し、人生を耕す
第7章 「エッセイ」というスタイル


フランスはこれまですぐれた知性を輩出している。その中で、
モンテーニュ:1533-1592
パスカル:1623-1662
ルソー:1712-1778

この3人は、若いころから漫然たる関心があったので、身の周りに数種の書物がある。「パンセ」は、わたしがはじめて読んだ哲学書、いや箴言集である。
・人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。
・真の雄弁は雄弁を軽蔑し、真の道徳は道徳を軽蔑する。哲学を軽蔑することこそ、真に哲学することである。
・神が存在するということは不可解であり、神が存在しないということも不可解である。
・この無限空間の永遠の静けさが、私をぞっとさせる。


これらのことばは、箴言=断章であることで、読者の心に棘のように突き刺さる、まるでバラの棘のように。
パスカルは詩的だが、モンテーニュは散文的である。
集中力がないと、論旨からはぐれてしまうのだ。モンテーニュに慣れるまでは、パスカルに慣れるより、はるかに時間がかかる。パスカルにとって神はなくてはならないものであったが、モンテーニュは必ずしも神を必要とはしなかった。
だから、わたしはパスカルの方が古い時代の人間だと思っていた節がある。しかし、約100年後の人なのだ。これは驚いていいこと・・・かもしれない(ノω・、)
パスカルはモンテーニュに反発していたし、ルソーも、つねに意識はしながら、モンテーニュを批判しているそうである。

完訳者なので、宮下さんは引用がとてもうまい。モンテーニュは英才教育をうけ、ラテン語を母国語として育ったため、古典を愛し、ソクラテスやセネカを、あの有名な円形の書斎にずらっと並べていた。
モンテーニュの気ままな散歩♪ 
出歩くこともあったが、書棚に膨大な蓄積があったので、プラトンにもキケロにも、いつだって会いにいくことができた。
父子二代に渡ってボルドーの市長をつとめた、貴族に列する新興ブルジョアで、本物の“城持ち”である。

さっさと現役を引退し、読書三昧の日々の中から、「エセー」は生み出された。59歳で亡くなったのは、当時としては特別早死ではないが、現代のわれわれと比べたら十分な老後があったわけではない。

《私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。》(モンテーニュ)

《わたしの書物はつねにひとつなのである。ただし、新版を出すときには、それを買いにきたお客さまを手ぶらで帰してもいけないから、あえて、少しばかり余計な飾りを付け足すことにしている。なにしろ、この書物は、そもそもがぴったりとは合わない寄せ木細工にすぎないのだから。》(モンテーニュ)

《モンテーニュはいわゆる哲学者ではないだろうし、学者でもない。古今の、また身辺のさまざまな素材を前にして「瀬踏みや小手調べ」をおこなって、「こねたり、かきまぜたり、温めたり」して、われわれ後世の人間が「楽に享受できるように・・・」道を開いてくれたのだ。それが全部で107章の、試み・経験としての「エセー」ということだ》(宮下志朗)

本書はやや迫力不足だと感じたので、満点はつけなかった。あとがきを読むと、途中でご病気をしていたとのこと。岩波新書の編集部に促されて、最後のページへたどり着いたのだという。
宮下さんがいうように、「エセー」というスタイルを生み出した人が、そもそもモンテーニュなのだ。
スタイルは人格というか、personality と不可分なもの。そのあとに、模倣者がぞろぞろと出現する。

“はじめの一人”が、つねに最高の達成者なのであろう。俳諧における芭蕉の存在を比定すればそれがわかる。
このところ本は読んではいるのだが、最初のページから最後まで、お行儀よく、熱心には読めない症状が発症している(´Д`;) 
解説やあとがきだけで、あとは本文斜め読み。何というか、腰が落ち着かない。
本書「モンテーニュ」は久しぶりに最初から最後まできちんと読めた本。
かたわらに溜まっていく本の山を横目で睨みながら、本屋の散歩はほぼ毎日やっている。お金が出ていく。



評価:☆☆☆☆

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