二草庵摘録

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近代文学を読む愉しみ ~川崎長太郎とその周辺

2015年08月15日 | 小説(国内)
近代の文学を読むことは、わたしの非常な愉しみに属する。
ここで近代というのは、明治の後半、夏目漱石が「吾輩は猫である」(1905年明治38)や「坊ちゃん」(1906年明治39)によって文壇に登場してきた、そのあたりから以降となる。
日露戦争が1905年(明治38)であるから、ほぼ軌を一にしている現象と世相は、じつになんとも興味深いものがある。
それ以前にも小説は書かれているが、読むにはかなりの忍耐が必要で、どうしても敬遠してしまって読めない。わたしですらそうなのだから、もっと若い世代であればなおさらだろう。

近代文学の下限を区切るのはなかなかむずかしい。安岡章太郎さん、吉行淳之介さんたちの第三の新人あたりまでとしてもいいが、内向の世代と命名された古井由吉さんや阿部昭さん、小川国夫さんあたりまで手をのばすことがあるからである。
この作家たちは1970年代なかばころまでに出そろっている。とくに短編作家としての阿部さん、小川さんは、わたしの場合、20代によく読んだ。

第三の新人と内向の世代のあいだに、第一次戦後派の再来ともいえる石原慎太郎さん、開高健さん、大江健三郎さんがいる。この作家たちは文壇にとどまるだけでなく、政治的・社会的に外部に積極的にかかわろうとした人たちで、のち都知事となった石原さん、ベトナム戦争へ出かけた開高さん、ヒロシマ反核で有名な大江さん・・・ということになる。

ここまで名をあげた人たちは陽のあたる場所を歩いてきた。その時代をリードするようなインテリであり、文壇ばかりではなく、ジャーナリズムに対しても影響力をもっていた。
しかし、彼らのような華やかな才能にめぐまれた作家はいうまでもなくごく少数。大部分は、新人賞止まりで消えていく運命にある。
芥川賞・直木賞のような賞を受賞した作家でも、その後生き残って仕事をした人は受賞者の半数に足りないといえる。

しかし、華やかな活躍はできなかったが、それなりにしぶとく生き残って、作品を雑誌に発表し、一部の好事家から注目をあびている作家というのがある。
ここでは川崎長太郎という、小田原に住んだ私小説の作家をとりあげてみよう。

《さて、私たちが往来と反対の側に入口のある小屋に近づいてゆくと、その小屋の海にむかった方の側面の上の方に、細長い窓が切ってあって、その下に低い机をすえて、小柄の川崎が、眼鏡をかけて、本を読んでいた。そこで、下から声をかけると、川崎は、顔をあげ、うれしそうな微笑を目もとに浮かべて、「どうぞ、」と、云った。そこで私たちは、小屋の正面の方にまわった。
その小屋は普通の小屋ではなく、魚屋の物置小屋である。しかし、高さは一間半ぐらいで、それを、上下に、六と四ぐらいの割で、仕切ってある。そうして、下には魚を入れるらしい箱が乱雑につみかさねてあり、上は、(よく云えば)中二階で、川崎の住まいである。そうしてその中二階に上がり下りするために、普通の梯子がかけてある。
さて、その中二階は、たしか、畳が二枚しいてあり、蒲団や行李ぐらいはいる押し入が附いていたようであるから、私が先に書いたより、この小屋はもう少し大きいかもしれない。しかし、どんな背の低い人でも立てないほど天井はひくい。が、部屋の隅に小ぢんまりとそろえてある本や雑誌、小さな机、それからトタンの壁のところどころに張りつけててある原色版の複製の絵、その他、この部屋では、狭いなりに、どんな物でも、おちついているように見える。
つまり川崎は、二十年ちかく、(いや二十年以上、)こういうところに住みついて、降っても照っても、三度三度、外食をして、不断に、弛まざる文筆生活をつづけているのである。》
(宇野浩二「川崎長太郎」より 現代日本文學大系49<筑摩書房>所収。句読点など原文のまま)

川崎長太郎がどういう作家であったのかは、ウィキベディア等にゆずる。
この人は、掘っ立て小屋に気をもった程度のぼろい物置で寝起きし、“赤貧洗うがごとし”といってみたいような生活を送りながら、短編小説だけを営々と書きつづけ、昭和47年(1972)に、71歳で死去している。年譜によれば、最後まで文学への志は衰えることはなかった。
地味な作家といっても、この川崎長太郎ほどパッとしない、不遇な作家もめずらしいだろう。先輩の葛西善蔵や嘉村礒多の系譜に属する作風だけれど、なんの変哲もない日常を、さもつまらなそうに書いている。志をえない哀れな男の日常生活報告書・・・その断片の集積が、彼の私小説なのである。
「つまらなさ」が、味になっているといえばいえる。普通ならとっくの昔に消えてしまっておかしくないが、少数の“選ばれたる読者”がいるとみえて、講談社文芸文庫に、
「鳳仙花」
「抹香町/路傍」
「老残/死に近く」
「裸木/泡」
「もぐら随筆」

・・・と5冊も現在ラインナップされている。
この人が師と仰いだのは、まず徳田秋声、つぎに宇野浩二であった。

このところ川崎さんの小説を何編か読んでみたが、こういう作家が、いまでも読者をもち、命脈をたもっているのは、なんとも不思議な感じがある。
文章はへたで、ぎこちない。うっかりすると、小説というより、身辺雑記である。正直いって「これを小説というべきかどうか」わたしは小首をかしげざるをえない。
隠者の文学の系譜に属するといってみたくないわけではないが、「徒然草」にも「方丈記」にも、鋭敏かつ強靱な批評精神がやどっている。ところがこの人の短編には、そういった“精神”はクスリにしたくも存在しない。

では葛西や太宰のような破滅型の私小説作家なのかというと、それに対しても疑問符がつく。小説のネタを仕入れる意味もあって悪所通いをしていた彼は60歳をすぎてから、なんと30歳以上年下の若い妻を迎えるのだし、最晩年にいたっても、執筆の意欲は衰えていなかった。
そのうえこれが代表作である・・・というものがない。すべてがいくらか投げやりな、私生活の報告文にすぎない。
いわばないないづくしなのだけれど、なぜか気になる。手にとってみたくなるのは不可解としかいいようがない。

さきに引用した宇野浩二の「川崎長太郎」は、作家が書いた作家論、人物論として出色の出来である。
わたしは宇野浩二によって、川崎文学への手がかりを得たような気分である。もう一つ理解への手がかりがあったとすれば、それは松岡正剛さんの「つげ義春は川崎長太郎である」という一言。どういうわけか、川崎長太郎とつげ義春への関心が、同時に芽生えた(^^)/

あえて書いておけば、川崎長太郎につながる私小説の系譜は、大正期から昭和にかけての文学のいちばんディープな岸を形づくっているのではないかと、好奇心をそそられているわけである。
十把一絡げにはむろんできはしない。才能がある作家もあれば、ない作家もある。川崎長太郎は才能がない作家の代表格ではないかと、わたしはかんがえる。梶井基次郎や川端康成がおのずからそなえていた抒情性というか、詩的なひらめきも皆無。
したがって、つまらない。

「そうか、つまらないか。まあそういわず、もう少し彼につきあってみたらどう? ほかにはない“味”をひめた稀有な小説書きなのだから」
宇野浩二がわたしにささやく。
この人を経由してから、日本文学は車谷長吉、西村賢太という私小説の書き手を得る。批判をあびて途絶えたと思われたこういう小説が、細々と受けわたされていく。いかにもといった“いま風”の小説には興味はもてないが、私小説は別・・・というところに、いま、さしかかっている。

わたしはここに立ち止まったばかりだ。宇野さんにだまされたつもりで、しばらくはこの岸辺をさまようことにしよう。これまでとは違う景色が、きっと見えてくるだろう。つげ義春もそうだが、天才とは、しばしば途方もない変人なのだから。
そこに「人間のおもしろさ」が、なかば砂にうもれるようにかくれている♪

わたしはいつもなにかを探している。撮影の場合も読書の場合も。
古くさくてもカビくさくてもかまわない。
もしかしたら、川崎長太郎、つげ義春以外に、わたしが真に出会いたいと願っている人がいるのかもしれない。好奇心に行き止まりはない、そういうことなのであろう。
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