ドストエフスキー・ファンにとっては、いま話題の東京外国語大学学長亀山先生の著書。あとがきに最終講義が出発点と書いてある。
「へえ、どんな内容を学生たちに講義なさっていたのか」そんな興味で手にとった。
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」の5大作を俎上にのせて論じているが、それほどの切れ味はないな~というのが第一印象であった。
<人物、時代、作品の謎を通して、現代の猛烈なグローバリゼーションに抗して生きる知恵を見出す>というコピーが、カバーの裏に書いてある。読んでみると、それはいわばマスコミ向けのリップサービスで、残念ながら、彼自身の痛切な時代的考察があるわけではない。わたし自身、現在ドストエフスキー熱にとり憑かれているからたまたま読んだので、そうでなければ、途中で投げ出していたろう。
「罪と罰」を論じようとするなら、これは読んでおかねばと感じて「謎とき『罪と罰』」(江川卓著 新潮選書 1986年刊)も並行して読んでいる。暗く深刻なドストエフスキー解釈をがらりと一変する、新時代のドストエフスキー論かと思って期待を寄せて読みすすめているが、正直にいえば、わたしにはあまりおもしろくない。雑誌「新潮」に連載され、読売文学賞を受賞しているという。江川さんは、つづいて「謎とき『白痴』」「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」を書いていて、ドストエフスキー学者(そんなものがあるとして・・・)には大きな影響を与えたようだ。
本書はそのいわば「成果」を踏まえて書かれている。ミーハーのわたしにしてみれば「なにしろ、驚異の55万部だからな~」と、ややシニカルな反応もある。それにしても・・・。これは「解釈学」以外のなにものでもない。こういった一種のトリビアリズムを喜ぶ人もいるのはわかるが、それがどうしたといってみたくなるのである。「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」との重複も少なくない。自分の思いつきやら連想やらに夢中になってしまわれると、読み手は興趣をそがれることがあるものだが、そういったことが起こっているとわたしは感じた。
たしかに21世紀の現代、この地球上でこれまであまり例のない犯罪やら社会的な事件やらがつぎつぎと起こって、われわれは揺れる価値基準に翻弄され、不安に巻き込まれている。「これはドストエフスキーの時代の新たなはじまりではないか」とだれかが発言したとしても、少しも不思議ではない。むりに文学の過去にある種の教訓のごときものを求めるとするなら、わたしも漠然とながら、そんな感じがつきまとう。テロと宗教復活の時代であり、残虐な犯罪多発の社会が、それを考察の対象にしようとしたとき、ドストエフスキーを思い出すということはありうることである。たしかに、たとえば「悪霊」の重要性は、少なくともわが日本では、二十世紀も後半に入ってから、とりざたされるようになった問題である。21世紀はドストエフスキーの時代ですよ、という表現は、たしかにある真実を含んでいるからこそ、キャッチコピーになるのだろう。
とはいえ、「いまはニーチェの時代だ、いまはドストエフスキーの時代だ。いまこそ読まれなければならない」と、何度耳にしてきたことか。小林秀雄ではないが、わが日本は、ドストエフスキーにからかわれている人が、他の国より多いのかも知れない。
読み終えて最初に浮かぶ感想は、江川さんが、いくらか反省をこめて書いていたはずだが「よくもこういった重箱のすみをつつくような問題に一喜一憂していられるなあ~」であった。亀山先生が仮にそうだとして、学究の徒は「新説を発見する、なければ、むりやりにでも、だれもいわなかったことをいってやる」という思いにかられるのだろうか?
亀山郁夫「ドストエフスキー謎とちから」文春新書>☆☆★
「へえ、どんな内容を学生たちに講義なさっていたのか」そんな興味で手にとった。
「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」の5大作を俎上にのせて論じているが、それほどの切れ味はないな~というのが第一印象であった。
<人物、時代、作品の謎を通して、現代の猛烈なグローバリゼーションに抗して生きる知恵を見出す>というコピーが、カバーの裏に書いてある。読んでみると、それはいわばマスコミ向けのリップサービスで、残念ながら、彼自身の痛切な時代的考察があるわけではない。わたし自身、現在ドストエフスキー熱にとり憑かれているからたまたま読んだので、そうでなければ、途中で投げ出していたろう。
「罪と罰」を論じようとするなら、これは読んでおかねばと感じて「謎とき『罪と罰』」(江川卓著 新潮選書 1986年刊)も並行して読んでいる。暗く深刻なドストエフスキー解釈をがらりと一変する、新時代のドストエフスキー論かと思って期待を寄せて読みすすめているが、正直にいえば、わたしにはあまりおもしろくない。雑誌「新潮」に連載され、読売文学賞を受賞しているという。江川さんは、つづいて「謎とき『白痴』」「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」を書いていて、ドストエフスキー学者(そんなものがあるとして・・・)には大きな影響を与えたようだ。
本書はそのいわば「成果」を踏まえて書かれている。ミーハーのわたしにしてみれば「なにしろ、驚異の55万部だからな~」と、ややシニカルな反応もある。それにしても・・・。これは「解釈学」以外のなにものでもない。こういった一種のトリビアリズムを喜ぶ人もいるのはわかるが、それがどうしたといってみたくなるのである。「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」との重複も少なくない。自分の思いつきやら連想やらに夢中になってしまわれると、読み手は興趣をそがれることがあるものだが、そういったことが起こっているとわたしは感じた。
たしかに21世紀の現代、この地球上でこれまであまり例のない犯罪やら社会的な事件やらがつぎつぎと起こって、われわれは揺れる価値基準に翻弄され、不安に巻き込まれている。「これはドストエフスキーの時代の新たなはじまりではないか」とだれかが発言したとしても、少しも不思議ではない。むりに文学の過去にある種の教訓のごときものを求めるとするなら、わたしも漠然とながら、そんな感じがつきまとう。テロと宗教復活の時代であり、残虐な犯罪多発の社会が、それを考察の対象にしようとしたとき、ドストエフスキーを思い出すということはありうることである。たしかに、たとえば「悪霊」の重要性は、少なくともわが日本では、二十世紀も後半に入ってから、とりざたされるようになった問題である。21世紀はドストエフスキーの時代ですよ、という表現は、たしかにある真実を含んでいるからこそ、キャッチコピーになるのだろう。
とはいえ、「いまはニーチェの時代だ、いまはドストエフスキーの時代だ。いまこそ読まれなければならない」と、何度耳にしてきたことか。小林秀雄ではないが、わが日本は、ドストエフスキーにからかわれている人が、他の国より多いのかも知れない。
読み終えて最初に浮かぶ感想は、江川さんが、いくらか反省をこめて書いていたはずだが「よくもこういった重箱のすみをつつくような問題に一喜一憂していられるなあ~」であった。亀山先生が仮にそうだとして、学究の徒は「新説を発見する、なければ、むりやりにでも、だれもいわなかったことをいってやる」という思いにかられるのだろうか?
亀山郁夫「ドストエフスキー謎とちから」文春新書>☆☆★