二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

戦後詩の到達点 ~詩人石原吉郎の巻(後編)

2016年09月22日 | 俳句・短歌・詩集
わたしが手に入れた「サンチョ・パンサの帰郷」は、2016年2月に、思潮社ライブラリー・名著名詩選の一冊(2400円+税)。

要するにリメイクされた詩集だけれど、初版の造本・装丁を忠実に再現してある。
オビにはつぎのような紹介文が掲載されている。

《思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発してきたのかを

過酷なラーゲリ体験を経て帰国した詩人が、失語と沈黙のはざまで書き記しえたもの・・・。名編ぞろいの第1詩集が、1963年初版時の体裁でよみがえる。未来へ継ぐ、復刻版》

石原吉郎はシベリア帰りなのである。
スターリンによる強制収容所から生還を果たし得た、ごく少数の中のお一人であった。
短いがたいへん有名になったあとがきから、書き出しを引用させていただく。
《<すなわち最もよき人びとは帰ってはこなかった。><夜と霧>の冒頭へさし挿んだこの言葉を、かつて疼くような思いで読んだ。あるいは、こういうこともできるであろう。<最もよき私自身も帰ってはこなかった>と。今なお私が、異常なまでにシベリアに執着する理由は、ただひとつそのことによる。》

こういう詩人である。10代20代の若僧にわからないのは当たり前。
「いいね!」といっても、ことば面だけで、少し共鳴しているにすぎない。
年譜を見ていくと、1938年、23歳でキリスト教の洗礼を受けている。

『1945年(昭和20年)ソ連対日宣戦布告、終戦。密告によりソ連内務省によってシベリア抑留。1946年(昭和21年)ソ連 カザフ共和国アルマ・アタ第三分所のラーゲリに収監。』

文字で書けば数行にすぎないが、石原吉郎が特赦によって強制収容所から釈放され、帰国を果たしたのは1953年(昭和28年)のこと。
なんと8年間、シベリアに抑留されていたわけである。こういう過酷な体験が、彼の後半生を決定したことは、数々のエッセイに語られている(現在でも、「望郷と海」「石原吉郎詩文集」などは容易に手に入る)。

それらすべてに眼を通したうえで、石原吉郎を語ることは、わたしの手にあまる作業である。痛哭と断念と、人間に対する、あるいは戦争に対する絶望的ともいえる不信感。
彼は1977年(昭和52年)に急死する。行年62、はやすぎる死であったが、僚友粕谷榮一さんが語ることろでは、老いるにつれ、酒に溺れていったようである。推測されるのは、「うつ」との闘い、精神的、身体的に、かなり参っていただろう、ということ。
第二詩集「いちまいの上衣のうた」までは、読者をハッとさせるような鋭利な問いかけやリズム感覚にささえられた抒情がムリなく流露している。
「生涯」「オズワルドの葬儀」「風琴と朝」「決着」「鍋」「橋を渡るフランソワ」「死んだ男へ」あたりは、すぐれた強い訴求力を持っている。
しかし第三詩集「禮節」あたりから、彼のメタファーが徐々に、いや急速にやせ細っていったのはどういうことであろう?

だから、石原吉郎は、「サンチョ・パンサの帰郷」・・・この一冊だけでいいと、つい、いいたくなる。この一冊が彼のすべてを語りつくしてあますところがないと信じている。
あまたある戦後詩における、最高の達成! 100年後、200年後、この詩集を手に取る、あるいは手に取って読んでみたいという読者は跡を絶たないだろう。
その詩集から何編か引用させていただく。



■酒がのみたい夜(全編)

酒がのみたい夜は
酒だけでない
未来へも罪障へも
口をつけたいのだ
日のあけくれへ
うずくまる腰や
夕ぐれとともにしずむ肩
酒がのみたいやつを
しっかりと砲座に据え
行動をその片側へ
たきぎのように一挙に積みあげる
夜がこないと
いうことの意味だ
酒がのみたい夜はそれだけでも
時刻は巨きな
枡のようだ
血の出るほど打たれた頬が
そこでも ここでも
まだほてっているのに
林立するうなじばかりが
まっさおな夜明けを
まちのぞむのだ
酒がのみたい夜は
青銅の指がたまねぎを剥き
着物のように着る夜も
ぬぐ夜も
工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を堀りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ

本書の中には、傑作・秀作がじつにたくさん存在する。
ざっと見渡しただけでも「葬式列車」「デメトリアーデは死んだが」「その朝サマルカンドでは」「脱走」「ヤンカ・ヨジェフの朝」「耳鳴りの歌」「さびしいと いま」などがある。「いや、最高作はこれでしょう」といって違った作品を挙げる読者もあるだろう。
わたしはこの「酒がのみたい夜」をピックアップしておく。

工兵のようにふしあわせに
真夜中の大地を堀りかえして
夜明けは だれの
ぶどうのひとふさだ

このラスト数行に、涙をにじませたことが、わたしにはあった。石原さんの絶唱として本編を推薦する人は、きっとたくさんいるに違いない。
ことばが(母国語たる日本語が)彼を呼び寄せたのだろう。一足ひとあし重い足取りで前へすすんでいく詩人の後姿が、行の運びから幻となって浮かんでくる。
「悲哀」の情が、ある沸点に達していると、わたしには思える。


■自転車にのるクラリモンド(全編)

自転車にのるクラリモンドよ
目をつぶれ
自転車にのるクラリモンドの
肩にのる白い記憶よ
目をつぶれ
クラリモンドの肩のうえの
記憶のなかのクラリモンドよ
目をつぶれ

 目をつぶれ
 シャワーのような
 記憶のなかの
 赤とみどりの
 とんぼがえり
 顔には耳が
 手には指が
 町には記憶が
 ママレードには愛が
 
そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
 
 自転車にのるクラリモンドの
 自転車のうえのクラリモンド
 幸福なクラリモンドの
 幸福のなかのクラリモンド

そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
町には空が
空にはリボンが
リボンの下には
クラリモンドが


こちらは明るいノンシャランな気分が満ち渡っている。この種の「うた」が、書けた人でもあった。「酒がのみたい夜」とは対照的な秀作・・・まるで鼻歌まじりの陽気な酔っ払い・・・恋でもしていたのかな?
いずれにしろ、これが彼の「もう一つの貌」であることはたしかだ。

最後に付け加えておくと、「サンチョ・パンサの帰郷」を読むにあたって、わたしは必ずしも、彼のシベリア体験を深く知る必要はないとかんがえている。知らないより知っていた方が望ましいとはいえる。
しかし、ウィキベディアの「履歴書」程度の知識でも十分。
作者である詩人の手をはなれてしまえば、作品はそれ自体の運命をひとり歩きしていくのだから(^^♪



※石原さんのフォトはつぎのページからお借りしました。
産経WEST
http://www.sankei.com/west/photos/150207/wst1502070002-p1.html

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