昨年7月16日付で10年間勤め上げた長野日大高校野球部監督を勇退された、名将中原英孝監督。
( 『名将 中原英孝監督、長野日大高野球部 を退任』 2014年07月19日 | スポーツ カテゴリー参照 )
約半年に渡る休養期間を経てその進退が注目されていたが、
このたび 「日本ウェルネス高校筑北(ちくほく)キャンパス」※(注) の野球部監督への就任が決まった。
( 写真左、「スポーツニッポン」4/25付記事 写真右は同、5/1付最終面 <信州版> 記事 )
同校の大きな特色は “通信制の高校” である点で、学校法人タイケン国際学園が運営、愛知県に本部を置き、東京、九州、松本など全国5か所にキャンパスをもっているが、
この9月に、新たに信州筑北村に 「筑北キャンパス」 を開校することになり、その野球部監督として招かれることとなった。
筑北キャンパスは、過疎化に悩む筑北村を知名度を上げ活性化させたいと、村を挙げて誘致、開校に取り組んでおり、日大勇退後複数の誘いがあった中原だが、自分の出身地である池田町の隣村からの熱心な誘いに、強く心を動かされたのだという。
通信制の高校である点や、自身初となる創部からの立ち上げに、未知数の大変さも感じているようだが、
日大が最後かな、と思うこともあったのに、この年で、まだ監督として誘いがあることの幸せを感じ、
何より野球が好きで、もっと長野県の野球を強くしたい、体はどこも悪くなくて元気だから、
という3つの理由により、自身の集大成と位置付ける覚悟で3度目のユニホームに袖を通す。
この、3つの理由が、いかにも中原監督らしくてなんとも嬉しい限りだが、
中でも 「野球が好きだから」 という言葉が最初に出てくるところに、この人の本質を見る思いである。
また、同紙で語っていた、 「この年代でも頑張れることを示していきたい」 との言葉に胸を打たれた。
高校野球-生徒はみな平成生まれで、自分の孫のような世代。
1991年に長野県じゅうを興奮と感動の渦に巻き込んだ、松商野球部の甲子園での活躍は生れる前の大昔のことだし、後任の長野日大での活躍 (2008年春の選抜でベスト8、2009年夏の甲子園でベスト16) でさえ、当時小学生で記憶にあるかどうか、という子ども達である。
自分でも児童文学の世界に身を置いているのでよく思うことなのだが、
情熱とは裏腹に、対象物である子ども達(生徒) との年齢的な距離は離れていく一方である。
だが、そこを超える何かが、名監督中原英孝にはきっとあるのだ、と私は信じている。
長きにわたる母校松商学園での名将ぶりと、創部歴の若干若い就任当時は無名に近かった長野日大野球部を甲子園に連れて行ったことからも、その力は実証済み。
スポーツに力を入れている、 “スポーツをするための” 通信教育制度である、というのが学校が大きく掲げているコンセプトのひとつであるようだが、
「通信教育」 = 何らかの理由で、通常の高校に行かずに選んだ学びの形に、
私は 「野球人」 というより、まず 「人間力」 を育てていくことになるのではないかという気がしないでもない。
ともあれ、村を挙げて活性化を目指す築北村と、野球部の名を上げたい学園側が、壮烈なラブコールを送って実現した名将の就任は、その先に野球部の甲子園での活躍を当然視野に入れてのこと。
明言は避けたものの、自分には 「3年に一度」 というスパンがあるので、3年で一定のものは出したいと中原自身も語っているので、
今後の動向、活躍から目が離せない。
過去には、同じ長野県から 「地球環境高校」 が、2012年の第84回選抜高等学校野球大会に、同校及び通信制高校としては初となる甲子園出場を決めているので、
ひょっとするとひょっとするかもしれませんよ。
いずれにせよ、中原の熱血漢あふれる指導、采配がグラウンドを暴れまわる日が再びやってくるのかと思うと、わくわくするのである。
中原英孝監督、このたびは新天地での監督再開、本当におめでとうございました。
今年1月の初めに、このたび2006年に出した自拙著書 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 を電子書籍にしたいので、つきましては、あれから既に9年がたち、選手たちのその後について一言でも触れたいので、監督さんともぜひ近々お会いしてお話をお聞きしたいのだと勇気を奮って電話してみた。
幸い監督からは快諾を得たものの、その矢先に母の骨折が判明、緊急手術入院してしまったので、落ち着くまで少し待っていてくださいと再び電話を入れたのだが、回復が長引き、再手術、長期入院とそれどころではなかったので、監督にも連絡を入れていた一部選手にも、その後電話を入れる余裕がなかった。
やっと先週退院できたので、心に若干のゆとりはできたものの、身体的にも家を空けられないのと、精神的にも電書に取り組む余裕がないので、落ち着くまで、夏ころまで待ってはいただけないかと、つい先ごろになってやっと連絡を入れることができた。
中原監督は、終始快活でお元気なお声で、そして変わらぬ気さくさ、腰の低さで私ごとき者にまで気持ちよく接してくださり、恐縮するとともに、日頃の不義理からくる不安を払しょくさせるかのようなお人柄に、本当に涙が出るほどに嬉しく、心底ほっとしたものである。
母の入院に関してもお気づかいをいただき、待ってくださるとおっしゃっていただき、
その時は正式発表前だったからか、監督の去就について、新聞に載っていたのに母のことで余裕がなく、うっかり気づかないでいた私であったが、
監督は自身のことはご自分からは何もおっしゃらなかったのです。
今思うと本当にお恥ずかしい限りであるが、遅ればせながらこちらに載せますので、それでひとまずは許していただきたいかと存じます。 翌日監督には、お詫びとお祝いのお電話を入れさせていただきました。
と同時に、今この時期に中原監督の新天地就任が決まったことに、何か運命のようなものを感じる私。
上記自拙著書を出すにあたり、前年の暮れに91年に甲子園旋風を巻き起こした自称 “H3(エイチスリー)チーム” を含む 「3学年合同忘年会」 に取材にお邪魔した際、たまたま、同じように91年の活躍の、15年後の選手たちを追ったドキュメンタリー番組の製作を計画していた 「テレビ信州取材班」 と同席することとなり、地元でもないのに15年もしつこくその姿を追っている私の活動に興味を持ってくださったらしく、わざわざKまで来てくれて、私自身のことを取材し、番組に取り上げてくださった。
それが縁で松本匡礼(まさひろ)くん (元信濃グランセローズ2009~2012) のお母上であらせられる、松本久美子さん (実は高校の同級生) との縁が復活し、中原監督とその後幾度か会えるきっかけとなったものだったが、
( 「『白球の青春、夢に向かって』 中原英孝監督・講演会・in K (2月19日)」 2011年02月20日 | 松商、中原監督 関連 カテゴリー、
「がんばれ!松本君」2009年02月12日 | 松商、中原監督 関連 カテゴリー 参照 )
「TV見ました!」 と本を買ってくださった方がいらっしゃったかどうかは定かではないが、確実に宣伝効果があったのでは? と思えるので (夫の勤務する隣村の焼き肉店は、2度TVで紹介されたが、放送直後の効果は絶大であったという) 全くの偶然に、自分はなんてツイているのだろう! と思ったものである。
中原監督のウェルネス高監督就任のニュースは、明らかに自分にとっても追い風、
「この年代でも頑張れることを示したい 」 との監督の言葉は、
母の骨折、手術、入院と、退院してからも日々の生活に追われたり仕事の大変さなどですっかり疲れ切って、ヤル気と元気の余裕がなくなり、時に気弱になったりもしていた自分に、勇気と力を与えてくれました。
監督、並びにH3の選手の皆さま、
母の体調と身の回りが落ち着くまで、まだ少しの間取り掛かることはできませんが、必ずあの時の本を電子書籍にしますので、もう少し待っていてくださいね。
そしてその際には、ぜひのご協力をお願い致します。
それを目指して、日々を頑張って乗り切っていきたいです。
【 各新聞記事 】
中原監督、ウェルネス高野球部監督決定に関する記事 (4月25日)
写真上 『市民タイムス』 下 『信濃毎日新聞』
就任会見 (5月1日) の記事
写真上 『朝日新聞・長野中南信版』 下 『市民タイムス』
『信濃毎日新聞』 は、スポーツ面と総合面の2か所で取り上げてくださいました。
“長野県内でその名を知らないものはいない” (関川筑北村村長談) という名将の去就への関心の高さがうかがえます。
※注
▼『日本ウェルネス高校信州筑北(ちくほく)キャンパス』
スポーツに打ち込みながら高校を卒業することを目的にした高校で、学校法人タイケン学園 (理事長:柴岡三千夫 ) の、1998年に開校した 「日本ウェルネススポーツ専門学校」 が母体。 その後、専門学校、大学、高校と多数展開、多くのスポーツ選手、スポーツ指導者等を輩出している。
従来の、添削指導、スクーリングなどを得て所定の年数以上在籍し、所定の単位を習得すれば、学校に通わなくても 「高校卒業資格」 が得られる 『通信高校制度』 とは異なり、スポーツコース在籍者は週5日の登校を義務付けられている。
信州筑北キャンパスは、村内でこの3月で廃校となった小学校校舎を利用し、スポーツ、理美容師養成、ドッグトリーマー、総合の4つのコースを設け最大240人が学び、うちスポーツコースの生徒が全体の8割を占める見込みで、今年9月に開校予定。
野球部に中原英孝さんを監督に迎えたほか、蹴球部 (サッカー、フットサル) に元J1のFC東京、元フットサル日本代表でFリーグ大分監督経験を持つ伊藤雅範氏を同時に監督に迎えることとなった。
野球部は、練習拠点を 「村営グランド」 とし、選手は寮生活、来春4月の新入生を対象に部員を募り、まずは来春の県高野連加盟と公式戦出場を目指すという。
▼『中原英孝』(なかはら・ひでたか)
1945年5月30日生まれの69歳。(今年の誕生日が来て古希を迎える)
長野県池田町(いけだまち)生まれ。
現役時代は内野手として甲子園に出場、卒業後は明大に進み副主将を務める。主将は同期の高田繁 (現DeNA・GM) 、一期下には星野仙一 (元楽天監督) がいる。
卒業と同時に母校松商学園野球部の監督に就任、翌年には最年少監督としてチームを甲子園へ連れて行く。
一端退いた後に再び監督に就任、松商学園高校で2期22年、長野日大高で10年間硬式野球部監督を務め、春3度(うち松商で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たした。
県内の高校野球指導者としては、歴代最多の甲子園通算14勝(うち松商で10勝)をあげているほか、上田佳範 (現中日コーチ) ら多数のプロ野球選手を育てている。 ( 「ありがとうの気持ちを直接伝えたい!」上田佳範感謝の集い 2009年01月19日 | スポーツ カテゴリー参照 )
松本市在住。
特に、1991年には上田佳範をエースとした松商学園野球部として、春の選抜準優勝、夏の甲子園ベスト8、国体優勝などの活躍を見せた最強チームを創りあげた名指導者として我々の記憶に長く残り続けている。
前出の自拙著書 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 は、この年のチームの活躍がもとになっている。
(2006年3月 郷土出版社刊、絶版 ← ゆえに電子書籍化を目指しています。)
また、当時野球部の寮の壁に
「報われない努力はない。努力すれば必ず報われる。報われないのはまだ努力が足らないからだ。」
という中原監督自身が紙に書いて貼ってあった言葉は、僭越ながらも私の座右の銘の一つとさせていただいております!!
( 自身のHP、プロフィール欄にも明記 )
※ おまけ・・・
ぎゃー、ソ、ソラチ・・・
監督の写真記事の上になんてのっかったら、ダメよー ダメダメっ
か、かわいーんだけどね
こーゆートコに無造作に置いとく私も悪いのか・・・。
いろんなものが置いてあって、クソもミソも一緒 の、
ぢつは キッチンカウンター