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猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

信州・松本と中村勘三郎さんとのご縁 ・・・ まつもと市民芸術館にて

2012年12月20日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)




「レ・フレール」 のコンサートを聞きに行った日、会場となったまつもと市民芸術館2階シアターパークに設置された、

今月5日に亡くなった 歌舞伎俳優・中村勘三郎さんの遺影に、献花と記帳をさせていただきました。



同会場にて、献花、記帳を期間を決めずに当分の間受け付けている、というのは新聞やニュース等で知っていたので、もしかしたら16日に行くときに、まだあるかもしれない、と思いながら出かけて行ったのだが、果たして、ありました。

開演前は時間がなかったので、終演後にさせていただきましたが、コンサートの前にも後にも、献花や記帳に、その日コンサートに来た人が主だと思いますが、人の波が途切れることはありませんでした。

まず、手前の記帳台にて記帳したのち、左手脇に設置されたお花を置く台から、白いカーネーションを一本いただいて、遺影の前に設置された献花台に置きます。

壁に貼られた、中村座の定式(じょうしき)幕に飾られたお写真では、勘三郎さんが、訪れる人たちに 「ようこそいらっしゃいました」 とでも言いたげな、満面の笑顔で語りかけてくれています。

静かに手を合わせ、周りに飾られたパネルなどを見ていると、コンサートの幸せ気分もしぼんでしまうほどに、なんだか悲しい気持ちになってきました。

本当に、松本で、平成中村座のお芝居を見ておきたかった。

そして、なんで、こんなに早くお亡くなりになってしまったのかなぁ、という寂しい気持ち。





中村勘三郎さんが、初めて芝居で松本を訪れたのは、2008年7月5日~13日まで、まつもと市民芸術館で全12公演を行った 信州まつもと大歌舞伎・平成中村座 『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわはなかがみ)』 の上演のとき。


この年の6月、東京のシアターコクーン(コクーン歌舞伎の名称)を皮切りに、ドイツ、ルーマニアで公演を行った後、その、ツアーの締めくくりとして松本にやってきたもので、

最大の呼び物は、この歌舞伎の上演に先立って 「市民サポーター」(公演を応援し、スタッフとして手伝うメンバー) を募り、300人以上が参加したこと。
また、松本独自の取り組みとして、市民キャストを起用。100人を超えるメンバーが、夏祭りのシーンに登場、にぎやかに踊りまくって舞台を盛り上げました。

舞台がはねた後には、市街地を通って松本城まで向かう、役者たちの登城行列(お練り)を行い、人力車に乗った、勘三郎さんや当劇場芸術監督の串田和美さんらを一目見たいと集まった市民で大変なにぎわいを見せたそうです。

先日も書いたが、私はまつもと市民芸術館のDM会員なので、この時の公演のことはよく覚えていて、
今度、当劇場で中村勘三郎さん率いる 「平成中村座」 のお芝居を上演すること、
そのための市民サポーターや市民キャストを募集すること、なども知った。
芸術館便りには、串田館長と勘三郎さんとの、この公演に関する意気込みなどを語った対談も載っていたと思う。


このとき、市民キャストはともかく、市民サポーターには、ちょっと心惹かれるものはあったのだが、
夜遅くまで仕事があること、土日にも休めないこと、また、遠方であることなどから、まあ、参加は無理だわな、とすぐに思った。

何より、この頃は、例の体調を崩している真っ最中の、一番サイアクだった年(2007~8年)なので、生きていくのに精いっぱい、公演案内やサポーター、キャスト募集のチラシはさらりと目を通し、串田・勘三郎対談など難しくて長いものを読むのはしんどくて、多分読んでない。( それでもチラシや対談集は、多分、取っておいてあるはずだが、整理が悪いため、現段階では行方不明・笑 )

つまり、その時の私は実のところ、あんなに大好きだった芝居などの公演にでさえ、心を配るという余裕がなかった。
何より、どこかへ出かけて行ったり、何かをする意欲もなかったし、それ以上に、人と交わりたくなかった。

それでも、串田さんと勘三郎さんのやることなので、心惹かれるものと、体調の悪さに無理だろうという、両方の気持ちの間で揺れていた。




次に 「信州まつもと大歌舞伎」 が上演されたのは、2年後の2010年。演目は 『佐倉義民傳(さくらぎみんでん)』。
このときも まつもと市民芸術館で、7月2日~8日まで、全11公演が行われ、前回同様70人もの市民キャストが参加、300人以上の市民サポーターが登録されたといいます。
また、前回と同じような、終演後の お練りも行われました。


このころの私はというと、2009年の正月ころから体調が少しずつ良くなってきていて、秋には薬と病院通いからおさらばできたので、嬉しくって、
2010年はまさにゼッコーチョー!!、 2年目となった 「スポット」 の取材に飛び回ったり、気持ちの赴くままに毎月のように東京に行ったりなんかして、精力的に活動 & 遊びまわっていたため、なんか今となっては、色んな事をあまりよく覚えていない。  (逆ハイとでもいおうか・(^^;)ゞ)
一つには、地元で行われる公演より、やっぱ東京での公演が一番よ、などと思っていた節も、無きにしも非ず。( しーません )

なので、二度目の 「信州まつもと大歌舞伎」 も、送られてきたDMで目にするも、あまり気に留めていなかったやも知れぬ。




開けた2011年1月、中村勘三郎さんは、体調不良のために2月の舞台を降板、
2月に入ってから、「突発性難聴」 であることを明かし、5末までの休養を発表する。

約半年間の休養ののち、勘三郎が 「心のふるさと」 として、全国に先駆けて 「復帰公演地」 として選んでくれたのが、松本であった。

※ 7月23、24日と、まつもと市民芸術館で行われた 「中村勘三郎特別公演」 と銘打たれたもので、勘三郎は 『身替座禅』 にフル出演。
終演後の舞台挨拶では、「まだ完璧ではないですが、これからもよろしくお願いします。」 と号泣したという。

そのまま退場する予定であったらしいが、約1400人もの観客が 「中村屋!」 「お帰りなさい」 などと叫びながらスタンディングオベーション。割れんばかりの拍手に、1、2歩前に出ると、
「本当にありがとうございます。こんなによくしてくださって…」と、両手で顔を覆って号泣。
「本当に完璧ではないんですが…こんな病気なので長くかかるとは思います…。でも、応援してくださってありがとう。これからもよろしくお願いいたします」と声を絞り出し、正座して深々と頭を下げた。 

それに先立ち、今回の復帰公演にむけて、町を挙げて応援の意を表した松本は、
JR松本駅構内に 「おかえりなさい、勘三郎さん」の横断幕を用意。
楽屋には、400人以上の市民が寄せ書きした1・5メートル四方の布12枚を届けた。
22日に劇場入りした勘三郎は、壁に貼られた激励メッセージを目にして、涙を流したという逸話もある。 ※

( 以上、「スポニチ・アネックス」 より、一部を掲載、または抜粋 )





翌、2012年の初夏。

2011年11月から2012年5月にかけ、長男:中村勘太郎の六代目勘九郎襲名披露舞台を含む、7か月にも及ぶ 「平成中村座ロングラン公演」 を成功させ、まだ病気が完治していないうちに走り出し、正直、7か月も持つかと思ったがやり遂げることができたと、打ち上げの席で嬉しそうに語った勘三郎。
数日後の5月30日は、自身の57歳の誕生日だったので、本人いわく 「バースデー・ケーキにダイビングしたりしてどんちゃん騒ぎをした」、翌々日の6月1日に受けた健康診断で、初期の食道癌と判明。まさに青天の霹靂だったことと思うが、初期だということで覚悟を決め、年内の活動を停止して療養に専念することを、6月18日に発表した。

しかし、その後リンパ節へ転移していることがわかったため、手術が延期されることとなり、事態は、急激に暗転する。
いったん自宅に戻り、抗がん剤治療を受けながら、手術するか否かをずいぶんと悩んだらしい。

このあたりのことは、12月7日に早くも放送された、フジテレビ 金曜プレステージ・緊急特別追悼番組 『さようなら勘三郎さん 独占密着…最期の日々』 に詳しいが、

初期の食道がんと判明されてから、2004年からの同テレビ「番付記者」 を自宅に呼び、事実を話し、自身の姿を撮っておいてくれ、と頼み込んで、偽らざる胸中を語る姿には、胸を打つ。 

なんという役者魂、そして生き様であろうか。

不安もあったであろうに、そのようなことを微塵も見せず、淡々と心中を語り、ときに冗談で笑わせたり、回りを気遣うような姿すら見せる。



おりしも、信州・まつもと大歌舞伎 『天日坊(てんにちぼう)』 が、その年の7月12日から18日までの予定(全9回公演・まつもと市民芸術館)で、長男中村官九郎主演、弟の七之助や中村獅童らの出演で、上演されていた。 ( この公演のことももちろん知っていたが、私は7/28のアルフィー夏イベにかけていたので、見に行けなかった。)

千秋楽となった7月18日、舞台クライマックスにて、木曽義仲の役で、ごく一部の関係者以外のだれにも(息子たち出演者さえも)内緒で、突然舞台に立った勘三郎は、カーテンコールで、息子の官九郎に呼ばれるままに姿を現した。
そして、思いがけないサプライズに湧き上がる観客の 「勘三郎さん、がんばって。」 という声援に応えて「必ずや松本(の舞台)に帰って来てみせます」と挨拶した。

盛り上がった出演者たちが、客席に降りてサービスする姿を、まるでいとおしいものを見るかのように、舞台上で感慨深げに見つめていた勘三郎の胸の中には、どんな思いが去来していたのだろうか。

これが、歌舞伎役者中村勘三郎の、事実上最後の舞台出演であり、公の場での最後の姿となった。



7月27日に食道がん摘出手術を実施することになったその3日前、親しい仲間を集めて、「ノリアキ(勘三郎の本名)癌晴れコンペ」 という名のゴルフコンぺを行い、見事準優勝をさらい、元気ぶりをアピールして心配をかけまいとする心くばりを見せた (一方では、もしものことを考え、親しい仲間と楽しい時を過ごしておきたかったと取れなくもないが) というのも、いかにも勘三郎らしいエピソードであるが、

そのときに、フジテレビ記者を呼んで語った、実質最後となったインタビューでは、

「(親友の)笹野高史らが呼び掛けて、玉三郎さんのファンとか、そんな人たちまでが40何人かで、中村屋の定式幕の色で、千羽鶴を折ってくれたんだよ。嬉しくて、病室に持っていこうと思ってるんだけど、

松本の人たちなんて、こんなに(と、手で3、40㎝くらいの高さを示して) 葉書かいてくれてさぁ、全部読んだけど、泣けたよ。」

と、嬉しそうに、話してくれた。




一時は病棟内を歩行できるまでに回復したというが、肺炎を起こし、4か月の闘病ののち、12月5日、ついに、本人いわく 「癌を晴らす」 ことなく、旅立たれてしまった。




本当に残念であるが、2008年以来、舞台公演を通してたびたび訪れ、市民との触れ合いに心を許してくれた勘三郎さんは、松本が大のお気に入りだったようで、温泉や酒などを楽しみに、プライベートでも時折訪れるほどであったといい、


2011年の復帰公演として松本の地を選んでくれたり、また、事実上最後となった舞台も松本であったというのは、大変感慨深く、地元民としては、とても誇りに思える話だと思う。


願わくば、中村勘三郎を感激させてやまなかった松本市民たち (サポーターや観劇者) の、その、一員の中に、自分も入れていたらなぁー、と、今となってはかなわぬ思いが、ほんの少し、胸に去来するのみである。



情に厚く、人間味あふれるチャーミングな勘三郎さんは、お弟子さんやスタッフなどの心配りにも長けていて、周囲の誰からも愛されたという。

中村勘三郎さん、松本を愛してくれてありがとう。

改めて、心より、ご冥福をお祈りいたします。




《 新聞記事より、地元関係分を中心として 》


12月6日付 『市民タイムス』 より。 
写真左:最後の舞台となった 『天日坊』 にて、挨拶をする勘三郎さん。
写真右:舞台写真は、初めての信州まつもと大歌舞伎 2008年7月8日 『夏祭浪花鑑』 でのもの。 
ほか3枚は、左上から2010年の、「お練り」、左下「串田和美館長と千秋楽でのあいさつ」、右下「笹野高史さんと松本市民手打ちのそばを食べる」、などの写真。



12月6日 『朝日新聞』 長野・中部版  より。
写真上:2010年お練りと、下は最後となった舞台。


『朝日新聞』 12月11日付 「論説」
勘三郎さんと親交の深かった、まつもと市民芸術館館長・芸術監督で、演出家・劇作家 串田和美さんの 「芝居の神様の子ども-中村勘三郎さんを悼む-」 と、

下は、同じ年で20年来の親友という 演出家・劇作家 野田秀樹 さんの寄せたコメント 「ただの損失ではすまない」。
野田は毎日のように勘三郎を見舞い、最後まで付き添った。一説によると、勘三郎は、「このたびの闘病の様子を芝居にしてほしい」 と野田に頼み、その他にも、来年以降の新作の歌舞伎台本を野田に依頼して、病院でもその構想を熱く語り、役者復帰のためのリハビリに精を出していたという。


お二人の舞台をつい最近見ただけに、自分の好きな人たちが繋がっているということに、何か感慨深いものを覚える私。





まつもと市民芸術館に設けられた 「献花台」 の左わきには、「信州まつもと大歌舞伎」 の公演ポスター。 


右わきには、「天日坊」 などのはっぴや、勘三郎さん思い出の、舞台やお練り、市民との触れ合いなどの写真パネルが飾られており、献花に訪れた皆さんが、食い入るように見つめていらっしゃいました。




( ※ 文中、特に注意書きのない部分も、登場するテレビ番組、上記(他にスポーツニッポン)新聞記事、等を参考にさせていただきました。 )



 

『 K.ファウスト 』 ・・・ 10/20 松本市民芸術館 (特設会場)

2012年10月22日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)


えへへ、また2、おでかけしちゃぃまシタ。 (^^;)ゞ



串田和美(かずよし)さん、作、演出、美術の 『K.ファウスト』 。

例のごとく、TVCMを見ておもしろそうだなー、と思いつつチケットを取りそびれていたら、(^^;)ゞ

たまたま新聞で紹介されていて、すごく見たくなったのと、東京のパブリックシアターと、まつもと市民芸術館でしかやらない! 

とわかったので、ならば、絶対に行かなくては!! と思い、急ぎネット予約したものです。

( 前にも書きましたが、串田さんは2003年4月から 「まつもと市民芸術館」の館長、兼芸術監督さん を務められています。  )






会場は、まつもと市民劇場、実験劇場の中に作られた、半円形の 「特設会場」。

その半円形の舞台をとり囲むように、前から7,8列くらいが座椅子のあつらえられた半円形の客席があり、
前2列は段差もなく(座りにくそうでしたが(^^;))、30㎝ほどの非常に低い舞台との距離が、まさに至近。

私は、3つあるブロックのうち「右ブロック」の、それでも中央寄りを選んだつもりだっが、
正面の奥のほう (幕の向こう側) にも、実はもう一つの舞台がある、という設定でたびたび使用されたのだが、
たまに見えない時もあったのが、ちょっと残念ではあった。 

それでも、座椅子席の中では最後列で、一番高いところという優越感(?)と(それより後ろの席は、普通の固定椅子で、端のほうは低くて見にくそうだった)、舞台にはものすごく近い(段差もあったので座りやすかったし)、という 「自分的」 には、かなりゴキゲンな席 、 でした。 

この、半円形の至近距離な舞台と客席、に、まず感心、感激し、 

次に、天井に組まれた、円形の銀色の鉄骨と、二つの階段がそれを支えるように舞台から伸びていることから、
ここをはしごのように使うのだろうな、と想像もでき、その、巨大装置に驚きながら、期待感が高まる。 

音楽は、世界的に有名なアコーディニスト、Coba さん (高橋大輔のバンクーバー五輪銅メダルにもなったショート曲の作、奏者) で、
始まる前から流れるアコーディオンのメロディーに、自然と足が小刻みにリズムを刻み、幕が上がるのを、わくわくした気分で待ち焦がれる。 




お話は、ゲーテの 『ファウスト』 に魅せられた串田和美が、
現代社会にも合う、自分なりの 「ファウスト」 の世界を作り上げた、ということで 『K.ファウスト』(串田のK)。


はて、聞いたことくらいはあるが、 『ファウスト』 って、どんなお話だったかしら? 自分の知識のなさに不安を抱いていると、 

開演前に目を通したプログラムに、 「予備知識が逆に視野を狭めることもあるから、ゲーテの戯曲なんて、むしろ、知らなくてもいい。」

と串田さんが書いてくれたあったので、ほっとする。 




そして、幕が上がる。 

簡単に言うと、悪魔 「メフィスト」(串田和美) に魂を売った 「ファウスト」(笹野高史) が、その引き換えに、若返り、時空を自由に操って飛び回り、富と名声を得て享楽をし尽くし、自らの欲望を満たし、楽しく暮らすのだが、

結局、最後には 自分が一生懸命に勉強をして考え、掴み取ろうとしていた 「宇宙の真理」 はついに解ることがなく、

ほかの人間たちと同じように、避けられない 「死」 というものを迎え入れる。

というストーリーの中に、人間のとどまるところを知らない欲深さや、愚かさを 悪魔「メフィスト」 の存在と視線を通して、滑稽に描いている、のだと思うが、

内容が難解で、このお芝居は、結局何が言いたいのかしら? 

という問いかけが、絶えず頭の中を駆け巡る。 



ところが、そんな心配をまるであざ笑うかのように、舞台上では、時に、村人たちの華やかで楽しい宴 (サーカス、大道芸、踊りや音楽など) が繰り広げられ、

なかでも、鍛え抜かれた 「サーカス・アーティスト」 たちによる、本物の 「空中ブランコ」 や 「ロープ芸」 などが、あの鉄骨装置を使って繰り広げられる様には、度肝を抜かれ、ハラハラドキドキした。  


その、 「楽しさ」 に惹き込まれる。       



Cobaさん率いる音楽隊も、村人たちと一緒になって踊りながら、時に 「狂言回し」的な役割も担う。

うわぁ~、ホンモノの、Cobaさんだぁ~ 、 と思うと、大衆の中にその姿ばかりを追ってしまうのだったが、

そういう意味では、実に贅沢なつくりだと思った。



もちろん、笹野高史さん (味わいとペーソスがありけっこう好き。かわいい(^^)・先日見た『天地明察』でも好演してました) は、いつものごとく、とてもいい味を出していたし、
役者としての串田和美さんもなかなかよかった。



舞台終盤、死を迎え入れるファウストに、常に彼の 「欲望と享楽の旅」 に同行し続けたメフィストが 

「あんたが死ぬときは、俺も一緒に消えるのさ。」

という言葉を投げかける。

なぜだか、そこで、悪魔と死への恐怖に取りつかれていた ファウスト(観客たち) は、一瞬、安堵の表情を浮かべ、

出演者全員の、大饗宴が繰り広げられる。   


この時、舞台から下ってきた串田さんが、私の席のブロックのすぐ脇にいらして、合図の笛を時折吹いていたのが、格好良くて、ちょっとドキドキした。(私は端から2番目だったので)

その笛の音に導かれ、大砲が鳴り、人々は音楽に合わせて踊りまわる。    



所詮、この世はサーカスなのだ。



そう思うと、ファウストのように、小難しいことを考えたり、あれこれとちっぽけなことで思い悩むのがばかばかしい気持ちになった。



終わりよければ、全てよし。



そんな言葉が、実に似つかわしいような、楽しく、華やかなフィナーレ!!         


何度目かのカーテンコールでは、私も立ち上がって、笹野さんと串田さんに、大きな拍手を送った。  



もともと近い距離の舞台なのだが、役者さんたちが観客に話しかけたり、客席を駆け回ったりしたのも面白かったし、

こういう、 「演じるものと見る者との一体感」 が、 たまらない舞台の魅力 、なのだ。



そういえば、第二幕の最初に、ほんの短い時間だったが、Cobaさんの独奏と音楽隊の演奏を聴けたのが、体が震えて涙が出そうなくらい感動した。  

Cobaさんは今までも串田さんの舞台で組まれたことがあったようで、自分の舞台上での、音楽隊としての役者的な役割、を、もちろん楽しんでおられたように見えたし、それがまたいい存在感を放っていたのだが、

贅沢すぎてもったいない感、も否めなかったので、これで 「演奏家としてのCobaファン」 も納得したのではないかと思う。

Cobaさん、すごい、カッコよかった。 いつか絶対にソロ演奏会を見てみたいと思った。



会場を後にするとき、私は幸せに包まれ、心の中を、感動の涙が激しく降り注ぐのを止めることができなかった。   



「 自分自身の思っていることや忘れていた感覚が動き出したらすごく楽しいでしょ?
  演劇って本来そういうものでしょ? 」


プログラムの最後を、串田さんは、こんな言葉で飾っている。





ファウスト、悪魔の顔。  これは、プログラムのカバーになっていて、裏表に描かれているのが、帰ってから気づき、驚かされた。


出演者全員が、 Soo very good !! でした。   
以下、公演プログラムより、


左から、串田和美、笹野高史(たかし)、雛形あきこ、道化師 「パウエル」 役を好演した 小日向文世(こひなたふみよ…2008年フジTV系『あしたの、喜多善男 - 世界一不運な男の、奇跡の11日間 - 』で主演を務め、一躍脚光を浴びる。)


村人、大道芸、踊り、打楽器、役者など、なんでも、何役でもこなす、キャストの方々


Cobaさん(中央)と、音楽隊の方々


世界各国からオーディションによって選ばれた、最高峰レベルの 「サーカス・アーティスト」 の方々。

日本ではまだなじみが少ないが、串田舞台には、いち早くサーカスが取り入れられ、その特色の一つとなっているという。

大変驚かされたし、楽しかったです。



こういう、芝居だったら 「お芝居だけ」、に留まらず、色んなものの良さが合わさって世界観を作り上げるような、

総合芸術 は、大好き  です。





註:串田和美・・・1942年東京生まれ。日大芸術学部中退、俳優座養成所卒。文学座を経て、1966年 佐藤信、斉藤憐、吉田日出子らとともに 「自由劇場」 を設立。六本木の 「アンダーグランド自由劇場」 を本拠地とする。1972年、 自由劇場解散を経て、同劇場で演劇活動を再開する頃から、演出、美術を手掛けるようになる。75年、「オンシアター自由劇場」 と改名したのち、 『上海バンスキング』(79年)、『もっと泣いてよフラッパー』(77年)、 『クスコ』などのヒット作を生み出す。劇団解散の1996年まで、演劇界を中心に精力的に活動する。
1985年~1996年、シアターコクーン芸術監督。 コクーン歌舞伎、平成中村座などの演出も手がけ、多方面で活躍中。
2000年~日大芸術学部教授。 2003年4月より、まつもと市民芸術館館長兼芸術監督。   父は詩人、哲学者、随筆家である串田 孫一( まごいち)。祖父は三菱銀行初代会長。

今回、『K.ファウスト』 に出演した、、笹野高史と小日向文世も、元自由劇場メンバー。

ネコタが80年代に通っていたユニーク・バレエ・シアターは、六本木駅から西麻布の交差点へ向かうその先にあったのだが、途中右手に 「オンシアター自由劇場」 の劇場が立っていた。 イズミ・ミュージック・アカデミーのあったビル、 「アトリエ・フォンテーヌ」 と同じで、当時はやりの 「アングラ」 らしい、真っ黒な外装で、ここがうわさの自由劇場かぁ~   と思ったものだが、入ってみたことはなかったように思う。 
そういえば、堀内完先生の主催されるユニーク・バレエ・シアターも、外装は白っぽかったけれど、時に発表の場ともなった稽古場は、やはり 「地下」 にあって、内装も 「黒一色」 であった。 おそらく自由劇場も地下に…。

ちなみに、六本木は、イズミとユニークと、そして当時後援会に入って、ほとんどすべての上演作品を見ていた、大好きで憧れの 「劇団俳優座」 の劇場もあって、夜な夜な通っていた (レッスンや観劇に・笑 (^^:)) 場所です。
遊び人の街というイメージですが、私にとっては青春時代を過ごした、大好きな思い出の場所。12月に入ると途端に、駅近くの待ち合わせの名所 「アマンド」 店頭あたりにたむろする華やかな人たちを尻目に (さすがに、雰囲気がちょっとコワかったですが (^^;) )、ひたすら重くて大きなレッスンバックを担いでは、レッスンに通っていました。 
なので、約9年近く通い詰めた?わけですが(笑)、六本木を本来の街のコンセプト?である 「遊び」 に利用したことはほぼなくて、当時は時間もお金もなかったから、イズミ側、ユニーク側にあった、それぞれの 「マック 」 がもっぱらの行きつけ。 年一、二度ほど、その辺の居酒屋で 「打ち上げ」 もしくは少人数で軽く飲む程度、をしたくらいだったけど、好きなことをしていたので、それも楽しかった思い出です。


《 私的な余談・笑 》


1983年1月、下北沢にできた 「本多劇場」 の杮落し第三弾として上演された 『イカルガの祭り』(斉藤憐、作、演出。写真右) には、大変感動した。  

この時、主演とヒロインだった、草野大悟(残念ながら、91年没)と 吉田日出子 の演技が素晴らしかった。   プログラムを見ると、小日向文世も出演していた。

この 『イカルガの祭り』 と、のち1988年に、同作者の俳優座公演 『赤き心もて飛鳥』 も見て感動し、斉藤憐さんの 「脚本」 に興味を持ったため、たぶん見てはないが購入したと思われる 『クスコ・愛の叛乱(はんらん)』(吉田日出子主演) の脚本。 (写真左)
大好きな 「飛鳥時代」 がテーマだったせいも、多分にあるかもしれないが… (^^;)ゞ


『イカルガの祭り』 に感動して購入した 、 流行っていたことは知っていたが見てなかった 『上海バンスキング』 のLP。(歌、吉田日出子、演奏、自由劇場団員)


この時、LP裏ジャケットには、若かりし日の 小日向文世(左、オレンジの囲み)と 串田和美(右、青い囲み) も、写っている。 (二人とも男前)  その下の女性が、主演であり、同劇団看板女優の 吉田日出子。
はじめ同劇団スタッフとして入った笹野高史は、その後夢だった役者に転向、この作品で人気を得たらしいが、ここには映っていないか、あるいは、小日向の上に顔半分だけ出している(見にくいが黄色の矢印) 人が、ひょっとしたら、そうかも。 (^^;) ← それっぽい人物が、他に見当たらず。

串田はこの頃、役者もしていたが、劇団設立者として、演出家として、同劇団主要人物なだけでなく、演劇界ですでに重要人物だったので、このLPの折込リーフレットにもたくさん写っているし、上記の 『イカルガの祭り』 上演プログラムにも、文章を寄せている。



 ネコタは、当時、いろんな舞台を見まくっており (本家HP 『やっぱり、舞台が好き』 及び、そのページ右上の 「バレエファンへの100の質問 」参照)、 記録もつけていなかったため、その多くが記憶の彼方に忘れ去られていた  が、 今回これを書くにあたってようやくいろんなことを少しずつ思い出しては、ああ、こんなこともあったんだ、とびっくりしている・笑。 

『イカルガの祭り』 は、大学4年の終わりに、当時日本児童文学の自主ゼミのメンバーだった友人と見に行って、終演後、二人して、顔を見合わせては、ただニコニコと微笑みあうだけで、全てが分かりあえた(この舞台に大変感動し、言葉がいらないほど幸せな気持ちでいっぱいであること)、意見が違うと面白くないから、なるべく舞台は 「一人で行く派」 の私にしては珍しく、感動を友と分かち合うことによってより幸せになれた、数少ない観劇作品のうちの一つである。


余談ついでに、昨年上半期に愛観していた、NHKの朝ドラ 『おひさま』 で、一番地元の方言が近かったのが、上記経歴により、松本にたびたび来ている串田和美さんであった。
ブログにはUPしそびれたが、昨年12月には、同じくまつもと市民芸術館にて上演された、松本幸四郎主演の 『AMADEUS-アマデウス』(83年5月の再演を東京サンシャイン劇場にて見ているが、その時同様、サリエリを演じた幸四郎はもちろんのこと、アマデウス役の武田真治が中々よかった) をK子ちゃんと見に行った私は、終演後に、後方の客席で見ていらした 串田さんを発見  昔から演劇界の大物であったことはよく覚えていたので、大変感激したが 、 何を言っていいものかもわからず(80年代に感銘を受けた芝居のことなど忘れていたし  ) 恥ずかしくて、声もかけられなかった。
素顔の串田さんは、気軽に松本市内を自転車で移動するような (K子ちゃんの知り合いが見たらしい!)、『おひさま』 での、 「丸山のお父さん」 そのままのような、暖かくて気さくな人らしい。   
ああ、惜しいことをした・笑。 






『 天地明察 』

2012年09月25日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)


松本市郊外にある、大好きなショッピングモール内にある映画館 (長いな・汗  ) が、毎週火曜日はレディースディで1000円   なので、たまたま他の急用もあったので、昨晩、突如行くことに決めて、見てきました。 (  おや!? また、お出かけですかい? ) (^^;)ゞ

そして、珍しく、即日UPです!! 



『 天地明察 』 (てんちめいさつ)。

時は天下泰平の江戸幕府、第四代将軍徳川家綱の世に、会津藩主の命を受け、日本初の 「暦(こよみ)」 作りに生涯を賭けた男、 安井算哲(さんてつ) の物語です。

もともとは、深夜、TVにて、この映画の特番 (宣伝) を見て、絶対に見に行こう! と決めました・笑。 → またですかい? 単純なヤツめ・笑。 (^^;)ゞ

大好きな岡田准一君が主演  で、ヒロインはとってもかわいくて、やっぱり大好きな宮崎あおいちゃん  (この映画では紅一点)。 脇も男性ばかりで (変な意味ではなく男たちの壮大なドラマって、いいじゃないですか。好きだわぁ~ )、 豪華、個性派ぞろいだし、なにより、話が面白そうだったから。  



そして、やっぱり、面白かった!! 

天文学者で、算術や囲碁も得意とする、多才だが純粋で一途、かつ朴訥だが情熱的な男、算哲を 岡田准一が好演。
彼を陰で支える 村瀬えん (宮崎あおい) も、けなげで愛くるしい中に芯の強さを秘め、物語の重要な役割を担いつつ、華を添える。 

また、その人柄や才能をかって、算哲をものすごくかわいがる、周りの大人 (偉い人) たちや、良きライバルたちが、それぞれ、実にいい味を出していて、感動や涙を与えてくれる。    ( もう、登場人物の全てがいいので、いちいち書ききれません ! )

公家が握っている 「旧式の暦作り」 の誤算を正し、実権を覆すために、美しくも未知なる宇宙へ挑み、緻密な計算や実験に命を燃やす男たちの、これは、壮大なロマンである。

いつの時代にも、何かに賭け、夢中になる男たちの姿って、ほんとうに、いいな。     

かわいくもあり、輝いていて、こちらもなんだか、わくわくしてくる。  



算術や天文学に詳しくなくても、充分楽しめます。 

物語は、最後までハラハラ、ドキドキ。   
約2時間半もの長時間を、飽きさせることはありません。

そして、ハンカチのご用意は、絶対にお忘れなく・笑。 



詳しい内容は、行ってからの、お・楽・し・み!!  

9月15日に公開されたばかりですので、皆さまも、よろしかったらぜひ、劇場に足をお運びくださいね。 





アトリエ・フォンテーヌ Close公演 『 歌のことづて 』 6/21

2012年06月22日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)


1976年に、作曲家いずみたくが、日本の創作ミュージカルの制作・上演、俳優育成のために、その拠点として六本木に建てた 『アトリエ・フォンテーヌ』 が、このたび36年の歴史に幕を下ろすというので、その、Close公演に行ってきた。

かつて、青春の一時期( 80年代初め )を、「問題児ばかり」と呼ばれた(笑)アカデミー10期生としてこの地で学び、仲間と共にすごし、苦楽までをも共にした思い出の場所がなくなるというのは、ちょっと寂しい。 

ここに、泊ったりしたこともあったんだよね。  



内容は、脚本( 一期下の高橋亜子・演出も一期下の本堂起久子 )がとてもよく書けていて、非常に面白かったし、出演者全員が、とても歌がうまい! ← ここ、大事なトコです。当たり前のように思うかもしれないが、そうでもない現状があるので、言うんですよ。

全曲、いずみたく作品なのだが、今聞いても、いい歌がたくさんあり、好きな曲も多い。


彼が、その生涯を費やし、私財を投げ打って情熱を燃やし続けた、純日本製の創作ミュージカル。

時代の流れ、とくくってしまうのは、非常に惜しいと思う。

ただ、今のTVとかの “流行りもん” と比べると、和製ミュージカルは、どちらかというと地味だと思う。
そして、舞台役者の生活は、見た目の華やかさと違って、けっこう過酷である。


それなのに、この世界を、この、いずみたくの作った劇団を、選んでくれた若者がいる。

大変嬉しくて、「ありがとう!」という気持ちでいっぱいになる。


正直言って、今、シメ切り間近でテンパッテいるので、迷ったが、これはぜひ行かなくては、と日帰りで上京予定を組んだ。



そして、この時期にこの舞台を見たのには、何かあるのだろう、と強く思った。

それほど力強くて、希望のわく、素晴らしい舞台だった。

( 劇中のある場面ではそっと涙を流し 、 エンディングでは不覚にも号泣しそうになった。  100席ほどでものすごく近いので、それこそ舞台から見えそうで、超ハズイから、必死にこらえましたが・笑。  )


和製ミュージカル( イッツ・フォーリーズ=いずみたく作品 )の持つ、明るさや希望、ひたむきな情熱や、人間のまじめさが好きだ。 

あの、舞台一杯に埋め尽くされた歌声には、本当にゾクゾクする。( 『帰らざる日のために』のハモリは、『ハレルヤ』に匹敵するくらい、サイコー!! 大好き  )


彼は地上からいなくなっても( 92年没 )、彼の曲は歌い継がれ、生き続ける。

もしも名前が残らなくても、歌は残る。

そして、それこそが、作曲家いずみたくの望んでいたことである。  



今日の日を与えてくれた神様と、仲間達に、感謝。 


公演はマチネで、同期の松澤尚美と一緒に見て、ソワレを見に行くことになっている鈴木智子と、学校時代よく寄ったマック( 様相は変わっていたが、まだありました! )にて落ち合い、お茶をし、楽しく過ごせたのもよかった。

先日行った、かつて住んでいた相模大野は、都市計画により、全く昔の面影が消失していて大ショックだったが、六本木は変わっていないところもところどころあって、懐かしく、嬉しかった。  
目をつぶってでも行けると豪語?した学校への道は、やはりというべきか、予想外にも、忘れてて、迷いましたが・笑。  ( 早めについて悠長にあちこち写真を撮り、図書館や十番商店街へも足を伸ばすつもりが、途中で全くわからなくなって、仕方ない、駅前の交番まで戻るか、あ~ん、でも時間にゃいカモ、 と半泣きになっているところに、向こうからやってきたナオミに遭遇。まさに、地獄にホトケとはこのことよ。今度はうれし泣きであった。 学校は5丁目の方で、近道の裏道を通ると、大使館や某有名女子短大などが今でもあって、表の喧騒とは違い静かです。ゴリラが窓辺にへばりついていた「 Rock Cafe 」もまだありました。←もちろん、入ったことはにゃぃ。 )

しかし、学校付近に東京タワーや高速道路が見えていたことを、全く覚えていなかった私。「 東京タワー、夜だったから見えなかったんだね。(夜間学校だった) 当時はライトアップしてなかったんでしょ。」 と言ったら呆れられた。  


やっている当時は、辛いと思うことの方が多かった気もするが、今思い返すと、夢のように楽しく、幸せな日々だったと思う。この先も、ずっと付き合っていきそうな、沢山の素敵な方々と出会えたのが、一番の財産。( 数ある養成所の中から、その年のここ、を選んだわけは、長くなるのでまた別の機会に )



書きたいことは山ほどあるが、時間がないので、また、改めて機会がありましたら。

( なお、公演は24日までてすので、お時間とご興味のある方は、ぜひご覧になってみてください。  http://www.allstaff.co.jp/ticket1.html



アトリエは、当時流行りの 「地下」。( やはり当時流行りの舞台形態(思想)としての 『アンダー・グランド(通称アングラ)』 ともかけていたのだと思う )
内装は黒一色。普段はフラットなフロアに公演時は舞台や客席を組み立てて作るのだが、舞台空間としても中二階や階段、壁のやぐらなどがあり、面白い、よくできたつくりになっていると思う。( 今回は中二階にピアノを置き、生演奏だった。贅沢ですよね。(^^)v ) 

ビル上層部に、音楽事務所、稽古場等がある。


公演プログラムより、看板部分とビル全景。 「フォンテーヌ」とは 『泉』 のことです。



帰りに、昔のLPレコードの「大切にしてくださる方へご自由にお持ち帰りください」というサービスコーナーがあって、選べたので、私は喜んで、こちらをいただきました。

全曲いずみたくで、私が本科のオーディション( 学内試験のようなもの )で選んだ、思い出の曲 『希望』 が入っています。後で見たら、知っている曲は半分くらいでしたが、昔児文研時代によく歌った曲が多いです。

終わったら、ゆっくり聞いてみたいです。  



野田秀樹の 『 THE BEE 』 ・・・6/17(日)  まつもと市民芸術館

2012年06月18日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)


松本在住の従姉妹のK子ちゃんと、お芝居を見てきました。  

野田秀樹 演出、脚本(コリン・ティーバンとの共著 原作:筒井康隆「毟(むし)りあい」より)、主演の 『 THE BEE 』 です。



まつもと市民劇場の実験劇場で、この日の昼が 「千秋楽」 でした。



出演者はこの4人のみで、野田さん(左端)以外の3人は、一人で何役もを演じ分けます。

殺人犯に家に立てこもられ、妻と子どもを人質にとられた主人公(野田)が、いつのまにか、自らが銃を手に、殺人犯の妻(宮沢りえ)と子どもを人質にして立てこもる、という、シュールで、かなりコワイお話。   

日常生活の中に潜む 「悪と狂喜」 を、野田が好演。 

善良な人にも悪が潜んでいると言いたいのか、善良な人も切羽詰ると狂喜の沙汰になってしまうのか、それともあるいは、善良な人ほど、より狂喜を持ち合わせていたりするのか、

その、全部なのか。

さしたる大道具はなく、舞台上の巨大スクリーン (茶色の模造紙) を広げたり、破いたり、窓や扉に見立てたり、あるいはくしゃくしゃにしたりして、不思議な舞台空間を作り上げている。
演出の小道具として、ロープやクリップなどをうまく利用しているのも興味深い。

その、空間造りの面白さと、

野田がその小柄な身体を駆使して、56歳とは思えぬほど、実に軽快、かつしなやかに飛んだり跳ねたり、踊ったり、あるいはマイムを演じたりして、観客を飽きさせない。

台詞回しも非常に早く、野田秀樹という人物の、超人的な頭の構造と回転の速さ、緻密さ、演技力の確かさと身体能力の高さをうかがわせる。( これは、文句なく、絶賛!! ← 皆さんも機会があったら、彼の演技を、ぜひご覧になってみてください。 )

そうして、楽しく笑っているうちに、観客はとてつもない恐怖へといざなわれてゆく。

きゃぁ~~~!!!  

コワイ、コワイ・・・   


「お芝居」というものを久しぶりに見たが、やっぱ内容が重過ぎて、今の私には、ちと疲れるワ・笑。     

いえね、若いときは、理屈っぽくて小難しいの、大好きでしたけど・・・笑。 

( もちろん、お芝居自体はとてもおもしろかったし、演じられたみなさん、とても素晴らしかったですよ。   )


 
表題の 『BEE』 とは、たぶんミツバチの羽音のことで( パンフレットやポスターのデザインもミツバチで、人間の「二面性」を現していると思う )、この羽音が聞こえると、主人公の「井戸」は、気が動転しておかしくなる、という設定。出演者が実際に「ビー」という音声で模写している点もおもしろい。

最後は、ミツバチが舞台を埋め尽くして、衝撃的に幕を下ろす。


劇中で、ピアノなどでは速弾、超絶技巧の曲とされるハチャトゥリアンの『剣の舞』に、内容はしっかりと判明できなかったが歌詞をつけたもの(歌詞をつけると、原曲とかなり違う曲に聞こえる点も面白い)を、舞台テーマのように、効果的に導入しているのも興味深かった。




野田秀樹さんのお芝居、一度見てみたかったけど、それほどファンというわけではない(失礼)ので、中々(東京時代も)機会がなくて、(Kに戻ってから)松本に来たので、やっと見れた。と、従姉妹もいってました。

ニューヨーク、ロンドン、香港と海外を回り、東京、大阪、北九州を経て、最後から2番目が松本での4公演。この後、静岡( 6/22~24 )へと行くらしい。

やはり、まつもと市民芸術館、串田和美(かずよし)さんが芸術監督だから、いいのが来ますね。  


そのあと、2人でお茶して、焼肉やさんで食べて飲んで、楽しく帰ってきました。( 去年も、別のお芝居を二人で見ました。  )

K子ちゃんは舞台 (芝居とミュージカル) と絵画の鑑賞、あと福山雅治さんのライブなどが趣味なので、とても気が合います。 

また行こうね、と言って別れました。


電車で午前中について、待ち合わせまでに色々お買い物もできたし、いい、息抜きになりました。  

そうそう、スタバの 『コーヒージェリー・フラペチーノ』 は、コーヒー、コーヒーゼリー、フラッペに、生クリームも入れると、なんと4つの味が楽しめて、欲張りさんには、サイコーのお飲み物 、 ですね。(^_-)☆   ( 欲を言えば、生クリームがバニラアイスだとなおベストなのだが・笑。  )

夏の必須アイテム・笑。  大好き!!  ( ただし、Kには、ない・笑。  )




さぁて!! 

気分を入れ替えて、

続きをガンバラナクッチャ。  


( ほんの少しですが、先日ここに書いたときより、行く先が見えてきたカモ?  ってカンジです。でも、ここで安心しちゃぁいけねぇよっと・笑。  
油断大敵、なのだ。    )






「おひさま」

2011年04月28日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)



みなさん、4月から新しく始まった、NHKの朝の連続TV小説

『おひさま』

ご覧になってますか?


信州、安曇野(のちには松本も)が舞台、なんですよ。



雪を抱いた、壮大な北アルプス、

清らかな水の流れ、

一面に広がる、そば畑・・・



本当に美しくて、心が洗われるような風景が、広がっています。




主人公は須藤陽子(井上真央)。

10歳のとき(昭和7年)、病気の母の療養のため、二人の兄と共に、一家5人で、東京から安曇野の地に、引っ越してくる。

第一週目は、陽子の少女時代で、美しい安曇野の風景と、病気の母を支える3人の子ども達が健気で、涙をそそる。

やがて母(原田知世)は死に行くのだが、「陽子の陽は太陽の陽。女の子は太陽だから、つらいときこそ、笑うの。」という言葉を、陽子に残す。
そしてその言葉は、ずっと陽子の生きる支えとなる。


成績も優秀で勉強好き、将来は学校の先生になりたいという、仲良しで陽子の憧れのクラスメート、田中ユキが、貧しさゆえにその夢をあきらめ、小学校も途中でやめて名古屋に奉公に行くという事件を通して、陽子は始めて社会の中にある不条理を知るのだが、のちにユキの夢を自分が叶えたい、という思いに変わっていく。

そして、教師をする傍ら、松本の老舗そば店に嫁ぎ・・・、という人生を歩むようなのだが、新しい時代を切り開いていく、たくましい女性像や、次第に戦争へと突入していく社会背景などが描かれていく。




その時間、ギリギリ起きてはいるのだが、先にどらちやソラシロの世話をしないといけないため、実は「録画」で見ているのだが(昼の再放送もうっかり忘れるし)、めずらしく夫も興味を持って二人で見ていて、撮りだめしていたのをまとめて見たりして、やっと毎日の放送日に追いついた感じである。

最初の方などは、主人公の陽子と、やたらとうちの母の人生とダブる部分があった。



母は大正15年(昭和元年)生まれなので、大正11年生まれの陽子より4つ下である。

母はKで生まれたので、自身は引越しや転校の経験はないのだが、前にも書いたように、大正10年に、祖父母は長姉を伴い、鎌倉からKに引っ越してきた。

ここでちょっと説明すると、祖父は松本の造り酒屋に生まれたが、「次男坊」だったため、親せきを頼り上京。その親せきの営む貿易関係の仕事をしていたという。
一説によると、貿易船のコックをしていてハワイまで行ったが、立場上上陸はしなかった。が、浜で泳いで遊んだという。
大正時代のことなので、ほんとなら、けっこうすごい。

で、どのように地元育ちの祖母と知り合ったかは知らないが、仕事の関係上で鎌倉に居を構えていて、俳人の高浜虚子の家の近くであったという。

それが、実家の母親が次男坊かわいくて「店を持たせてやるから帰って来い」というので、帰る準備をしていたのだが、その間になんと実家の母親は亡くなってしまう。
約束が立ち消えて途方にくれているときに、だれかが、「酒屋をやるならKにいくといい。Kの衆(しゅう。人々、という意味の信州弁)は酒が好きだで、Kで酒屋をやったらいいワ。」といったので、それで祖父も、もちろん祖母も知らないKの土地に移り住んできたというわけだ。


とゆーわけで、わたしゃ酒屋をやるんならKがいいぞ、と勧めた人を怨むぞぃ。

そこから猫田一族の、Kでの奮戦記がスタートするのである。



なにしろ、今と違って、「よそ者」を受け入れない時代である。
祖父母も、母たち姉妹も、そのことで色々と苦労したようである。(詳細は話からそれるので、今は書かないが)

なので、『おひさま』での「よそ者」の陽子たちがとっても受け入れられてる感じにはちょっと「うそでぇー」と思うが、
そこは、まあ、ドラマなので・・・


それでもって、3人兄弟の末っ子の陽子(兄が二人。母も3人姉妹の末っ子)が、その後女学校を出て、のちには先生になるべく、「師範学校」というのを出るのだが、陽子の亡き母は、「これからの女性は強くならなければいけない。“女のくせに”という人にはケンカをしても向かっていっていい。お母さんが許す。」と陽子に言っていた。

ウチの母も、小学校の頃成績が優秀で、担任に勧められたというせいもあったらしいのだが(当時は、小学校を終えると、まだ女学校に進むものも少なく、たいていは高等小学校というのを2年行くくらいであった)、3人目になり、Kに越してきてだいぶたち、経済的にもゆとりが出てきたので、上の姉二人は誰も行っていないのに、一人だけ女学校に進んだのである。
そのとき祖父は、「これからの女性は、学問を身につけないといかんでな」と言ったらしい。

当時、女性が社会進出をするとしたら教師くらいしかなかったので、地元のK高等女学校(のちに私も出ることになるKH高という女子高=当時、の前身)を出たあと、松本女子師範学校に進むのであるが、
あの時代は、小学校以上の教育は男女が別々だったので、女子は4年生の高等女学校、男子は5年生の中学校。
師範学校だと、長野県は、男子が長野師範学校、女子は松本女子師範しかなかったので、ドラマ中の陽子が進んだのも、おそらく松本女子師範に違いない。と思うと、なんか嬉しいものがあるのだが、



が、しかぁしっ!!!

あの制服はモダンすぎて変だよ~。
母によると、女学校のセーラー服は当時からそうだったが、「白い襟」というのはなかったらしいし、学校帰りに毎日のように「飴や」に寄るというのも、TV中で簡単なことではない、とは前置きしているものの、1銭(100銭で1円)あれば飴玉が10個買えるという、甘いお菓子でさえ珍しい時代に、「不良」はもとい、飴屋に寄る経済的ゆとりと社会的背景はありえないだろうと思われる。

なので、時代考証は母の世代より若い方が担当しておられるようだが(NHKのドラマストーリー参照。が、考証人の年齢の表示はないため、「見た目」からした憶測。)、ちょっとアヤシイ。


あと、農家の子で陽子に片思い中のタケオがあまりにもデフォルメされた田舎の人になってるとか、幼少時代の長兄春樹(中川大志)は、成績優秀で優等生な雰囲気がよく出ていて、おまけにまじめな感じのハンサムで好感が持てるが、中学卒業後に旧制松本高校(作家、北杜夫も出たところ、ですな)に進んでからの春樹(田中圭)は、ちょぃ3枚目入ってて、陽子の親友の一人である、同じ女学校の真知子が一目ぼれするようにはあまり思えなくて、ミスキャストだよなー、とか。
小さい頃はわんぱくで一人だけ田舎の子どもみたいだった次兄茂樹(渡邉甚平)のが、地元農学校に進んでからの方が(永山絢斗)カッコいいぞ、とか、色々あるけど、



まぁ、とにかく、オモシロイのなんのって。(脚本:岡田恵和(よしかず)が、いいのか?)

毎日、笑い転げている。

(こんなきゃぴきゃぴした女学生のお話、おもしろいかしら?と思って時おり夫の方を見ると、敵もニコニコと楽しそうに見ているのでびっくりだ。ま、昔の古いお話とか、歴史モノは二人とも好きですからね。)


井上真央ちゃんが、目がくりっくりしていて表情豊かで、とにかく、かわいい。

親友の、当時としてはススンデル女、の筒井育子(満島(みつしま)ひかり)、地元のお嬢でしとやかな美女、相馬真知子(マイコ)との3人の掛け合いも、楽しいし、かわいいし、明るい。


ドラマは、春樹の松高時代の友人の川原功一(金子ノブアキ)に、陽子が淡い初恋の想いを抱いたり、真知子が親が決めて会ったこともないとはいえ、いいなずけがいるにもかかわらず、春樹兄さんに惹かれてしまうなどの、恋のオハナシもありーの、

笑い転げながら、時おり、ホロリとさせられるような「ええ話し」もありーの、


今週なんて、いよいよ出生のヒミツが明らかに・・・

ぢゃぁ、なくって

母と父の秘められた恋と、よく知らなかった母の身元が明らかになるという、

またまたオモシロイ展開に。



私の注目株は、陽子が想いを寄せる川原を演じている金子ノブアキですな。

子役からロックバンドのドラマーを経て、最近また役者としても活躍中というが、若いのに、戦争に対する考え方とかがしっかりしていて、役者としても骨太、芯がある感じ。(前出、ドラマストーリー参照。大河ドラマと朝ドラは、気に入って見出すと、たいていドラマストーリーを買い、人物相関図とか出演者の詳細、スタッフの制作秘話、などを見るの、大好き
春樹曰くボンボンなのに「不良」という役どころと、イケメン風なのもちょっといいし、満州に渡って挫折して帰国、という、役柄の設定も見どころ。
陽子とは、どうなるの?という、今後の展開にも注目、です。



あと、安曇野、松本の自然にも注目、ですよ。



ドラマでは、東京在住のちょっと日常生活に疲れている主婦、原口房子(斉藤由貴)が、車を運転中に、ふと流れてきたカーラジオの、

「安曇野では今、真っ白なそばの花が一面に咲いていて、それはそれは美しい光景です。なんだか、人生っていいなぁという気持ちになります。」

というお便りを聞いて、ふと思い立ち、そのまま安曇野まで行ってしまい、そこでふらりと立ち寄った「お蕎麦屋さん」←見た目は全然喫茶店の女主人(現在の須藤陽子で若尾文子)で、手打ちそばに舌鼓を打ちながら、女主人の昔話(幼き日の陽子の思い出)を聞く、という方法で展開するのだが、


まあ、この、春先の安曇野の美しいことといったら!!!


昔、東京にいるとき、やっぱり安曇野を舞台にしたTVドラマ『あの日の僕をさがして』を見ていて、ドラマのラストに映し出される、雪を抱いた北アルプスと安曇野の風景をバックに流れる、ギルバート・オサリバンの「TOMOORROW,TODAY」を聞いては、泣きたいほどの郷愁に浸っていた思い出がある。

ドラマは1992年の4月から6月に放映されていたもので、その年の年末に私は帰郷するので(このドラマを見て郷愁に駆られたから、ではないですよ。全く別の理由です)、帰郷直前に見ていたわけなのだが、しかし、なぜかドラマの内容は、ヒロインが惹かれる昔の恋人で主演が織田雄二だったことも含めて全く覚えていないのだが。(仙道敦子と現在の恋人の大鶴義丹の記憶しか(^^;))


他にも、1996年には松本の高校を舞台にした青春群像『白線流し』とかね(←見てないけど、なんと、私の本の舞台でもある松商学園高校がロケ地だったんですよ(^^)v)、ご記憶にある方もいらっしゃるかも、ですが。


とにかく、美しいですよ。

柔らかな5月の風の中、目に映る緑色に芽吹く木々を背景に、はるか向こうの山々は、まだ雪を抱いているさまは、

心がふわぁーっと解放されて、

美しすぎて、涙、でます。

まだ帰った頃で一人のとき、今夫になっている、当時はまだ東京にいた人物に、ああ見せてあげたいな!と思ったもん。

↑ ↑

お・おーーーっ!!!

今じゃコケ生えちゃってますが、まだ初々しかった頃のこと、ですな。




ま、そりはともかく、ですが(^^;)ゞ



信州の自然は、いいですよ。


癒されます。

ぜひ、皆さんも(都会に住んでいる人もいない人も)、

生活にちょっと疲れたな、と思ったら、

信州の壮大な、あるいは素朴な自然に触れに、


車を飛ばして、あるいは電車やバスに揺られて、



おいでませ、信州!!!  (^_-)☆




(関東、関西、両方面からのアクセスが可能な立地条件だから、来易いと思いますよ。(^^)v)


 信州では今、「がんばろう日本!信州元気宣言」を発表! 


長野県各地の旅館やホテルに宿泊すると、宿泊料の一部が、義援金として、被災地の復興支援に寄付されます。


詳しくは「がんばろう日本!信州元気宣言」(口コミ情報)

または、

「がんばろう日本!信州元気宣言」(長野県公式ホームページ) へ、どうぞ。





文化・芸術のチカラ 2

2011年04月05日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)
3月29日に、以前通っていたダンススタジオ(ユニーク・バレエシアター)の、雲の上の大先輩であり、27年来の大ファン(あら、アルフィーと同じフィン歴だワ!)でもある堀内充(じゅう)さんの出演される舞台があって、S席の、ものすごくいい場所がとれたので、楽しみにしていたのだが、見に行かれなくなってしまった。


O.F.C(旧オルフ祝唱祭典)という団体の、

合唱舞踊劇『カルミナ・ブラーナ』と、『陽の中の対話』。

会場は、東京文化会館である。



O.F.Cは、ダンス、合唱、オーケストラの融合を目指した舞台を多く制作していて、私も堀内さんの舞台がらみで、過去に何度か見に行ったことがあるのだが、もしも東京に住んでいたら、合唱部隊として出てみたいな(一般から募集した歌うだけの合唱隊と、簡単な振りのついた「コロス」というのがある。もち、コロスのほうね)、と、真剣に思ったことがあるほど、素晴らしく、これぞ私の求めていた、まさに形態、という感じなのだ。


充さんは、私より4つ下なので、既に46歳。

この年齢で、舞台に立ち続けておられるのは、ファルフ・ルジマトフに次いで驚異であるが、

今のうちに見ておかなければ!! と思ったせいもある。



が、この度の震災の影響で、どうにも、東京まで行く気力、元気がわかない。


世界フィギュアも、一端中止になったので、O.F.C事務局に電話で問い合わせてみる。

すると、上演予定だ、というではないか。

演目の『カルミナ・ブラーナ』(カール・オルフ作曲のカンタータ)は、生きる喜びを歌ったものであり、いま、震災で沈んでいるときだからこそ、上演する意味と必要性があると信じている。

といっていた。

後日、O.F.CのHPに行ってみたら、「上演に当たって」という宣言が書かれており、感動して涙が出た。



ところが、やはりどうしても、行く気力がわかないのだ。

大好きな東京の、しかも大好きなダンサーの、とても楽しみにしていた舞台を見に行くのに、どうしても行く気力がわかないというのは、やはり、よほどのことなのだ。

それほど、震災のショックが、自分なりに大きかったといえる。

あと、こんなことを書くと怒られそうだが、特に住んでおられる方にはまことに失礼ながら、東京は長野県よりも福島第一原発に近いため、放射能汚染が怖かったのと(ブログでエラそうなこといっといて、ほんと、すんません。風評に惑わされているのは、当の私です。m(_ _)m)、そのための計画停電で、電車が減ったり、混んだり、色々と都内が大変そうだったので、この時期に、わざわざ「疲れに行く」元気もなかったのである。
めずらしく母も、行くのやめたら?とか言うし、全く自信がなくなっていった。



それで、もう一度O.F.Cに、しつこいが、震災に伴う理由でいかれないとしても、そちらの都合でなく、こちらの都合で行けないのだから、チケットの払い戻しはできないのですよね? と聞いてみる。


事務局の人は、「その場合は、ちょっと無理ですねぇ」と言いながらも、とてもていねいに、私の気持ちや、素朴な疑問などに答えてくれ、「自分で言うのもなんですが、昨日もリハーサルを見たら、とても素晴らしかったんですよ。だからこそ、よけいに見てほしいんですよね。」とまで言ってくれた。


「ぜひ、いらしてください。」と言われて電話を切った。



その後も、なんとか行きたいと思い、様子を見て、ギリギリまで迷ったが、あのころはまだ、どう振り絞ろうとしても、気力(体力)が、遠方の舞台を見に行くのに耐えられなかったので、ここは無理しないで、あきらめて、


せめて友人に代わりに見に行ってもらえないかと思って、チケットを安値で譲った。
(行かない決断というのも、けっこうしんどいものである。)



忙しい人なので、本人が行かれるか、そのまた知人に譲るのかもわからずにいたが、なんとか万障繰り合わせて、本人が見に行ってくれたようで、後日以下のような、メールが届いた。(掲載許可済み)






節電のため、上野の公園口も普段より遥かに暗い感じ。
東京文化会館のロビーもいつもより照明を落としていました。
ロビーには義援金ボックス。


開演前に、主催者が「からだを動かす者はからだを動かして初めて
貢献できる」といった震災を意識した挨拶を5分ほど。


でもお客様はほぼ満杯で、ダンサー達は集中力をもって、とても
良い作品に仕上げていました。合唱団にもフリがついていたのですが、
その一般の人たちもよく練習していて素晴らしかった。楽団も良かった。
こんな作品をオルフさんは望んでいたんだろうな、と思った。


充くんは、やはりいちばん目をひきました。(注1)
近くに女の子とお母さんがいて、「あのオジサン、小さいけど、
一番ジャンプしてすごいよね」と言っているのを聞いて、笑いました。(注2)
そういえば、ほかの男性達は若かったな。



良い体験でした。ありがとう!





やはり、彼女に見てもらってよかったな、チケットも、喜んでいるだろう、と心の底から思った。



後日、O.F.CのHPでは、

非常に難しい状況での、上演という選択だったが、「カルミナ・ブラーナ」という音楽の持つ強大なエネルギーに支えられ、客席からも暖かなエネルギーをいただき、無事に閉幕を迎えることができたこと、私たちが「カルミナ・ブラーナ」から、そしてお客様から力をいただいたように、この舞台が少しでもお客様に元気をお届け出来ればと願っております。(筆者、要約)


として、出演者、スタッフ、観客から集まった義捐金420,835円は、日本赤十字社を通じて被災地に寄付させていただきます、と結ばれていた。




やはり、芸術の持つチカラって、すごいんだな、と、見に行ってないなりに、改めて実感。すごく、感動した。




堀内充さん、ほんとうに、今回はごめんなさい。

10月1,2日に、すみだトリフォニーホールで上演される『ヨハネ受難曲』は、今度こそ、必ず見に行きますから。

今度はもちろん、S席にしますよ。(前回2009年に見たときは2Fだったので。)




みなさんも、よろしかったら、ぜひ、いらしてくださいね。

充さんが、イエス(主役)で、素晴らしいんですよ!!!



「カルミナ」は、軽快な天使役、


「ヨハネ」は、立っているだけで肉体が語る、


重厚な作品を、見事、演じ分けられているんです。

(詳しくは2009年7/25「にゃー語」参照)



必見です!!




(注1)堀内さんは主役級ダンサーの一人で、けっこう目立つ役どころなのです。ネコタは2000年に一度、この舞台を見ている。

(注2)堀内充さん、とても素敵で、若々しい方なんですよ。でも、子供から見たらあの年齢はオジサンになりますよね、たぶん。
あと、小さいというのは身長が160センチ代で、双子の兄(堀内元=元バレエダンサー、現セントルイスバレエ団芸術監督)ともども小柄で、二人ともその小柄な身長を生かして、ジャンプや軽快な踊りを得意としている。




文化・芸術のチカラ

2011年04月01日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)

S子さんとは、イズミ・ミュージカル・アカデミーの、本科で一緒だった。

音大の卒業生で、さすがに歌がうまかった。美しいソプラノだった。


彼女のことでよく覚えているのは、毎年アカデミー生が、本科と専門部合同で開いていた、お客様を招いてもてなすための「クリスマス・パーティー」で、近藤浩章さん(いずみ先生の弟子の一人で作曲家・現オーグメント社長)編曲の、『第九』(ベートーベン作曲)を歌うのだが、私などはポップス調で中々いい曲だと思ったのだが、彼女は「神を冒涜している」といったので、さすがクラッシック畑の人は違うものだ、と感心したものである。


彼女は卒業公演で、ミュージカル・メドレー・ナンバーのラストを飾った「イルマ・ラ・ドゥース」の主要部分を歌った(主役級ということ)のだが、にもかかわらず、専門部には進まなかったので、やはり、音大卒の人は考え方が違うんだな、と妙に納得した。



その彼女とは、始めはどんなご縁だったか忘れたのだが、卒業後も交流があり、今では年賀状のやり取りをしている。

当時の一時期、新宿文化センターで仕事をしていたことがあって、彼女の文化に対する考え方など、色々とさすがと思わせるものがあった。考え方もしっかりとしていて、在学中から、一目置いている散在なのである。


そのS子さんが、昨年、私の年賀状にHPのアドレスが書いてあったので尋ねてみたところ、病気や出版のことなど、色々知らないことばかりで驚いたといいながらも、ねぎらったり祝福してくれたり、色んな感想などを書いたメールをくれた。
まじめな彼女らしい思いやりが、嬉しかった。

その後、当時上演されていた、藤原紀香主演のミュージカル『キャバレー』を見に行ったら、同期の香取新一が出ていて、好演していたのでびっくりした、という内容のメールもくれた。その他のキャストについては、やはり歌を専門に勉強してきただけあっての、やや辛口の評が続き、さすがだと思ったものだが(元光ゲンジの諸星君は意外とよかったらしいです)、何かにかまけているうちに、返事を出しそびれてしまった。



それで、先日ここに書いたように、『We are the world』の楽譜がほしいなと思ったので、それを歌った専門部の楽譜は別の人に、本科の楽譜はS子さんにコピーさせてもらえないかと、最近お願いしたばかりだった。(それぞれ、物持ちや整理の良さそうな人に頼んだのだ)

そうしたら、完全に忘れていたのだが、ずーっと以前に、私が、同じくクリスマスで歌った『ジングルベル・ロック』の楽譜のコピーを、S子さんに頼まれて送っていた、というではないか。ママさんコーラスをやっている彼女は、「いろんなシーンで歌わせていただいておりました。ありがとうございます。」とまで言ってくれた。

↑ と、ゆーことは、そんときは私、楽譜持ってたのよね?
いったい、いつ紛失してしまったのかしら・・・。(``?)



そのときやり取りしたメールの中に、以下のことが書いてあった。

今度の震災について、また、震災後の、自分の色んな考えがまとまらずに苦しんでいたときだったので、胸に沁み、思わず涙が出た。


以下、ご本人の承諾を得て、一部を掲載させていただく。(彼女は東京在住)



計画停電では、ろうそくと懐中電灯の生活を楽しんでいます。
ローソクのときにマシュマロを食べようと買っていたのですが、娘が待ちきれなくて食べてしまい、改めて買いにいったら、すでに売り切れだったようです。 同じことを考えてる人がいるんですね。(中略)

それから、文化・芸術の力です!!!。・・・・政治・経済では、各国と険悪状態で不安を感じていましたが、今回の震災で文化・芸術・コミュニティーでのつながりで世界中の人たちからお見舞いとか援助があり、本音と建前(政治・経済)を感じました。
世界中の人といろんな形で友情を作っていると戦争にはならないな!と
改めて感じ、確信できました。

それからもうひとつ、昨今『無縁社会』が、問題になっていましたが、今回の震災によってコミュニティーの大切さ、必要性を真正面から突きつけられて
いい方向に向かうような気がします。
いい時代にしたいですね。 何ができるかわかりませんが、これからもっと、友達付き合い・近所付き合い・地域活動など、大切にしていこうと思います。



このメールを、自分のブログに掲載させてもらえないかと打診したところ、以下のような返事が来た。



今回の震災で思ったこと、なかなか言葉が見つからなくてうまくかけなかったのですが、(載せるのは)どうぞ!

ひとつ付け加えたいところがあります。
無縁社会のところですが、真正面から突きつけられたというより、豊かで自由な生活に慣れてしまって忘れ去られていた
日本人の美しい心がこの震災によって呼び覚まされたという気がします。
今のこの見えないけれど日本を復活させようと全国・全世界の人たちの心がつながっている気がします。



ほんとうに、まじめなS子さんらしい、だが、確かな考え方に、勇気付けられた。
(加えて、普通なら不満を言いそうな、停電をも楽しんでいるという、おおらかさが、すごくうらやましいし、微笑ましい。マシュマロって、ろうそくの火であぶって食べるなんて、知らなかったよ・・・



仲間って、いいな。


やはり、人間、一人じゃないんだな、

沢山の人たちに、自分は生かされているんだな、

と思ったら、ふっと心が温かくなった。




なので、それを今度は、

このブログをのぞきに来てくださっている、みなさんと、ぜひ、共有したいな、と思いました。



ハナミズキ

2010年09月14日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)


さて、錦糸町オリナスで見た映画は、『ハナミズキ』。
10年ものの、純愛ドラマです。
これは、どーも?と思う箇所もなくもなかったが、全体的に見たら、せつないまでの純愛が美しく、ときに胸を締めつけ、キュンとさせ、泣けるっす。



透明感あふれる新垣結衣(あらがき ゆい)ちゃんと、ひたむきで、ちょっと朴訥な生田斗真(いくた とうま)くんが好演していて、なかなかよかったです。
意外によかったのは、康平の恋敵?、カメラマンの向井理(おさむ)。さわやかで魅力的だった。
北海道やカナダの自然も美しく、象徴的なハナミズキと、一青(ひとと)いよ(←漢字、出ず)の唄が、また、ものすごく、いいっす。

みなさんも、よかったらぜひ、ご覧になってみてくださいね。


(若い子の、ひたむきな純愛っていいな~♪ いつか書いてみたいな。) 


PS.
パクちゃん、元気ですか?
ちょっとお聞きしたいことあり、もしもこれを読んでいたら、個人宛メールほしいのですけど、よろしくお願いします。m(_ _)m(本家HP、メールのところから入れます。)

今度は眠狂四郎!!  ←また2、どぇりゃぁ長いぞぉ~(^^;)ゞ カクゴ!

2010年06月08日 | その他芸術(舞台、映画、TV等)



だいぶUPがおそくなっちゃぃまシタが・・・(^^;)
5月27日(木)に、日生劇場で大好きなGACKT(ガクト・Gackt改め)主演の『眠狂四郎無頼控』(ねむりきょうしろう・ぶらいひかえ)をやったので見に行ってきた。


もともとはミュージシャンで、たぶんそれが一番比重が大きいのだと思うけど、GACKTは自らを『表現者』と呼び、従来の枠にとらわれることなく、色んな仕事を手がけている。
2003年、自ら脚本を手がけた映画『MOON CHILD(ムーン・チャイルド)』にて主演。2007年にはNHK大河ドラマ『風林火山』にて上杉謙信役をみごと好演し、話題になったので、記憶されている方も多いかもしれない。

今回の『眠狂四郎無頼控』は、彼にとって初めての舞台出演となり、役者としての作品は3作目。
GACKTは、自分が本当に納得したものでないと仕事を請けない、と明言しており、今回の舞台でも、製作発表(2009年11月)にて、「舞台のある来年(2010年)で僕も37歳になり、くしくも市川雷蔵(1960年代、映画で『眠狂四郎シリーズ』を演じた往年のビッグ映画スター)の没年齢と同じになる。何か不思議な縁を感じる。」と述べ、あと5キロ減量して望む、と意気込みを語っていた。


そして、その発言の通り、彼の眠狂四郎は素晴らしかった。

なんといっても、立ち姿がいい。
転びバテレンが武家の娘に産ませた子、という出生の苦悩から来る虚無感やニヒリズム、ダンディズムとエロティシズムを漂わせる眠狂四郎に、GACKTのもつ強烈なカリスマ性とオーラが、まさに適役であるといっても過言ではない。

とにかく、立っているだけで美しく、独特の存在感がある。

そして、所作(しょさ)、立ち振る舞いも、非常に美しい。
特に圧巻は、手の動きの美しさ。
眠を父の仇と勘違いしてあだ討ちをしようともくろむ石動一馬(いするぎかずま)の妹・彩乃(眠やその想い人、美保代を擁護する武部仙十郎の屋敷に、敵情視察のため送り込まれている)が、アザミのトゲを指に刺してしまい、それを眠が抜いて手当てをしてやるシーンは、息を呑むほどに美しい。
場所が指先であるため、非常に繊細な動きを必要とするのだが、CACKTの指先のふるまいは、手をとる、ハンカチを裂いて指に巻く、の、どれをとってもため息が出るほど優雅である。その、一連の動作に、当の彩乃ではないが、ドキドキしながら見入ってしまう。
他にも、武部亭での月見の宴に、眠と美保代が二人きりで酒を酌み交わすシーンがあるのだが、こちらも胸の高鳴りを抑えることができない。

例えば、抱擁する、とか、愛情を表現する手っ取り早い手段はいくらでもあるが、そういうことをせずに「見せる」というのは、逆に想像力をかきたて、見ているものをいっそうドキドキさせる。
キスや抱擁、さらにはもっと進んだシーンで愛情を表現できる昨今において、この、何もしないことで逆にドキドキさせる、という時代劇のつつましく、おくゆかしいラブ・シーンは、例えようもなく美しく、胸に沁みた。


そして、もうひとつの見所は、殺陣(たて)。
石動の父を切り殺したのは、実は眠ではなく、眠を目の上のたんこぶのように疎ましむ、密貿易によって私服を肥やしている米問屋、備前屋与兵衛と、取引相手の老中の側用人、土方縫殿助がやとった、三雲迅雷(みくもじんらい)という流れ者の剣客なのである。
その事実を理解した眠が、いよいよ三雲との勝負を挑むことになるのだが、三雲との一騎打ちにたどり着くまでに、三雲の大勢からなる手下どもが、次々に眠に切りつける。

人、ひとりの命はとても大切で大きいものだから、私は殺し合いのシーンは好きではない。
が、ここはそんなことを考えていたら見ていられないので、シーンとしての殺陣の迫力と醍醐味を楽しむことにした。
前宙、バック宙、横っとびの宙返りなど、豪快なアクションを交えながらの殺陣は、迫力満点。切っても切っても、うじ虫のようにわいて出てくる剣客たちを、二本の刀を使って縦横無尽に切りつけ、次々に退治する眠狂四郎は、本当に美しくて、格好がよかった。
SUGIZOの音楽と、バックスクリーンに映し出される、キラリと光る映像効果でも、乱闘シーンを美しく演出して見せる。

「ならば この世の見納めに、円月殺法をご覧入れよう。」
三雲迅雷と会いまみえた眠のうしろで、三雲は立ったまま、微動だにしなかった。
「(相打ちは)楽しかったなぁ。」
というセリフを残して、三雲は力尽きる。眠に、切られていたのだ。
このセリフが、身の毛もよだつほどのにっくき悪人、三雲迅雷にとって、唯一の救いとなる人間味あふれるシーンである。


最後は、父の仇と誤解していた石動一馬が眠に詫びを入れ、宗門改め役だった父のように、自分も立派にお役目を果たします、と誓うのだった。
「もしかして、本当の仇は別にいる、それを自分で気づくようにと、眠さまは考えてこのような行動をわざととられたのですか?」
石動の問いかけに、
「あいにく、そのような技量は持ち合わせてないんでね。」
とかいって立ち去る、最後のキメ台詞が、眠狂四郎の持つ、ニヒリズムとダンディズムを最適にあらわしていて、タメイキが出る。


この、芝居のカーテンコールで、笑顔で手を振るGACKTに非常に興味があり、とても楽しみにしていたのだったが、役者が全員舞台に姿を現してのカーテンコールというものはなく、代わりに、スクリーンにそれぞれの役者が映し出されて、紹介された。

我々は、スクリーンに向かって拍手するだけである。
うーん、残念。
でも、まぁ、こういう演出もアリか、と思うことにする。
シャイな眠狂四郎らしいや・笑。

大迫力の音楽に身をゆだねながら、映し出される膨大なスタッフ、協力者達の名前を見ながら、ああ、こんなにも大勢の人たちの手によって、舞台が作られたんだな、と胸が熱くなる。

若いときは、半分勉強だと思ってたので、けっこう辛口に見てる部分もあったのだけど、最近ではどんな舞台でもドラマでも、私はたいていすんなりとその世界に入り込み、割合いつも素直に、好意的に見るので、よほどのことがなければ見ていていやな気分になるとか、辛口の評さえもない。
従来の自分の知っている感じとちょっと違っても、こんなのもアリだなぁーと見ることにしている。

なので、映像の使い方とか、スクリーンでの見せ方とか、時代劇、として見たときどうかとか、そんなことは別にどうでもよくって、とにかくGACKTがあまりにも美しくて、カッコよかったから、いーんです!!・笑。

あと、善玉と悪玉がはっきりしている、勧善懲悪モノって、わかりやすくて大好き。今回、下調べもできず、事前にプログラムを買ったものの、客席は上演前でも演出効果で薄暗い上に、黒を基調としたページで、字が、字が読めにゃぃ・・・涙2、でしたが、すごくわかりやすいストーリーだったので、全然OKでした。
善良な町民が、一人も死ななかったのもよかったし。
まさに、メデタシ、メデタシで、幸せな、楽しい気分になれました♪♪


        
          * * * * * *


GACKTの最も惹かれるところは、その、たぐい稀なる美しい容姿と、彼だけが持つ独特の雰囲気なのであるが、こと容姿に至っては、彼が日常より非常なストイックさを持って食事制限など自分を律し、毎日欠かさないという5時間ものトレーニングによって鍛え上げ、作り上げた肉体である、というところに、私は畏敬の念すら抱いている。

今回の公演について特集された雑誌(『Cool-up・vol29』)のインタビューでも、「僕は、自分に才能があるわけじゃないから、毎日必死になってやっている。努力でカバーするんだ。僕は天才なんかじゃない。」「できないことは何も無い。でも、最初からできることも何も無い。だから、死ぬほどやる。命懸けてやる。(中略)努力するってそういうことでしょ?」といっていて、天才肌のクールなイメージを持っていただけに、非常に興味深い。
「(減量やトレーニングは)スタイルをよくしようということじゃなくて、侍に心を近づけていくため。(中略)侍ってどういう感じの精神状態なんだろうって考えながら、節制したり、好きなもの、肉とか魚とか酒とか全部やめていったりすると、心に重みを感じてくる。自分の身体の中のストレスをエネルギーとして出していけるようになる。」とも。

また、『幕末と戦国・このとき義を貫いた』(AEREMooK)によれば、自身の演じた上杉謙信について、「興味のある戦国武将はたくさんいるけれど、生き方が自分に一番「合う」と思えるのはやはり謙信。」
「何かを得るためには、何かを捨てなければならない。」
謙信は、女性に対する欲を捨てた。(か、どうかまでは定かでありませんが・笑、生涯独身であったのは事実)僕もソロ活動を始めるにあたり、絶対に成功させなければならない。そのためには何かを犠牲にしなければならないと思って「食」に対する欲を絶とうと決めた。実際に、米は十何年口にしていない。
と、語っている。
さらにGACKTは、本当は大食漢だし、食べることも大好き、と、眠のプログラムで田中健(眠を擁護する武部仙十郎役)との対談で語っているので、そのなみなみならぬ決意の高さと実行力のすごさに、私は驚きを隠せない。


我々凡人は、GACKTのようにまで自分を律して追い込むことなど不可能であるが、

「何かを得るためには、何かを捨てなければならない。」のではないか、

というのは、私もかねてから思っているところなので、とても共感できる。



さてさて、『眠狂四郎無頼控』は翌28日に千秋楽を迎え、夏のGACKTコンサートツアー期間をはさんで、今9月から来年の一月にかけて全国を回るので、興味のある方はぜひご覧になってみてください。ただし、もんのすごっく、お高いのでお覚悟を。  ←なんとか、ならんかい? 公演期間長いし、グッズも売ってるから相当な興行収入では?とか思っちゃいまス。
とはいえ、最近席運のないワタシだけに、ええいっ、ままよっ!!! 
清水の舞台から飛び降りちゃぃまシタ。ひょ・え~~~!!!    
そんでもって、昼公演があったので、今回も日帰りでがんばりましたよ。



★ゲットしたグッズの数々。



左より、「眠カステラ焼き」(広島名物「もみじまんじゅう」のようなので美味。他に「塩煎餅」も売っていた)、ポストカード(全種買うと2,200円!! だそうで、そんなカネはにゃいので一枚だけ)、クリアファイル(2種類あってひとつだけ)、刀のストラップ(これも2種類のうちのひとつ。ほかにも色々売ってたよ~)



公演プログラム(で、でかいっ・汗)とストラップのアップ



プログラム中のGACKT。う、うつくしい・・・
今回は着物デザイナー・斉藤上太郎氏の考案した衣装ということで、モダンな柄、生地を使っており、GACKTの美しい立ち振る舞いをいっそう引き立たせて見えた。



キッチンカウンターの棚の一角に作った「GACKTコーナー」。

左から、眠・刀ストラップと、上杉謙信の出陣旗「毘」、謙信フィギュア、そのうしろに紙袋に入った「毘」の勝ち守り(昨年、謙信ゆかりの上越・林泉寺で買った例のヤツね)

ねこの置物(100円ショップ)、キャンドル台、福集めポスト(願いがかなう水晶玉?つき)など、お気に入りグッズと一緒に♪



追記

『眠狂四郎・TVシリーズ』(1972~73年。90年代にスペシャルドラマ数回)にて眠を演じた往年の二枚目俳優、田村正和さんも私の大好きな人。何しろ、原作者の柴田錬三郎が、「(それまでも何人かの役者が演じてきたが)市川雷蔵亡きあと、『最高の狂四郎役者』」と絶賛したらしい。
田村正和主演のドラマは、数多く録画してコレクションしているが、「眠狂四郎SP」も一本だけ持ってます。

私の三大好きな、ビッグ・アーティスト、高見沢俊彦(THE ALFEE)、GACKT、田村正和。
彼らに共通しているのは、ものすごい美形で、なおかつ誰にも真似の出来ない雰囲気とオーラ、カリスマ性を持っていること。生活感がなく、私生活がナゾめいていること。
加えて、素顔は以外におちゃめで(かわゆいが、こと、たかみーに限ってはおちゃめを通り越してかなり天然入ってまス。(^^;)でも、そこがファンにはたまらない魅力♪)、なおかつもっと意外なことに、ものすごい努力家らしい、ところです。
最近ここに、私の中で人気急上昇中のフィギュアスケートの高橋大輔も加わりまシタ。