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雪の朝ぼくは突然歌いたくなった
2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。
110414 日々歌ふ
2011-04-14 19:33:47
|
日々歌ふ
フクシマの核にまみれしふるさとに今を盛りと花の咲くらむ
フクシマが世界に記憶さるる日の来るぞ悲しきわが故郷よ
*
ウワサの
斉藤和義「ずっと嘘だった」
をやっと聴いて、感動した。
これはホンモノだと思う。
日本の若者よ、斉藤和義に続いてほしい。
#短歌
コメント (24)
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曽祖父の壮大な夢が跡に…
(
髭彦
)
2011-05-03 23:59:28
ふるさとはなってしまいました。
どうしてそうなってしまったのか、僕たちはそれをこれから深く考えてゆかなければならないのでしょう。
返信する
清壽の当時「地場産業」という言葉があったかは
(
Fou
)
2011-05-01 22:51:09
知らないけれど、清壽が考えていたのはそういうことだと思います。
12人という子沢山(しかも曾祖母一人で生み続けた!!)の清壽はそれぞれの子に何らかの事業に関わることを求めたようです。
長男(銀砂工場)、次男(農園)、三男(採砂業?)、四男(石材業)、五男(英文科)、六男(窯業)、長女(造園師の妻に)、次女(郵便局主の妻に)、三女(酒造業主の妻に)、四女(大学教育を)。
一人は夭折、一人は幼少の頃の大ヤケドによるPTSDが原因か「お祭まッちゃん」といわれていましたが、ヴァイオリンを弾きながらあの祭りこの祭と出かける気随な生活をしていましたが、私が子供の頃に没。
その夢は戦争もあったし、諸般の事情から多くは実現・継続という事にはならなかったとはいえ。
農園経営のために次男を農業専門学校(現東北大農学部)、六男(窯業)を東工大の前身校の窯業科、四男(石材業)を大谷石の現地に修行に行かせて、それぞれ専門の勉強をさせたようです。清壽は壮大な夢を描いたのでしょうね。
五男を除いては皆最終的には地元で生きた人たちでしたから、今、F120km圏内から私が知る限り50人もの親族がそれぞれ一家散り散りの避難生活をしていることに。
返信する
曽祖父が夢見ていたのは…
(
髭彦
)
2011-05-01 15:36:41
関東、西日本の植民地的な東北を脱するために、いわば<地場産業>としての自立的な工業を東北に興すことだったのだと思います。
原発をはじめとする現在の東北の工業の多くは、残念ながらそうした<地場産業>ではなく、安い土地と水、労働力、そして危険回避などを求めた、外来巨大資本と国策によるいわば<植民地的な工業>だったのではないでしょうか。
南相馬市長はよく頑張っていますが、その彼も「<脱>でも<アンチ>でもなく、原発<克服>の産業」をなどと、意味不明で危うい発言をしています。
東北にどのような未来がありえるのかは、それこそ原発危機が収束し、放射能汚染が安全水準にまで戻らない限り、つまり原発推進派に抗して(アンチ)、「脱」原発をしない限り、少なくとも福島県については考えられないでしょう。
もし、その日が来れば、工業だけでなく、農業、漁業、商業、観光業すべてを含めて、より自立的で自然との共存をめざす産業を興さなければいけないと思います。
今回の悲劇が、結局は僕たちの故郷の浜通りが首都圏の<エネルギー植民地>であったがゆえだったとすれば、僕たちが曽祖父から受け継ぐべきはなによりも東北の自立です。
その日が来ることを祈ります。
返信する
この間のニュースをみていると
(
Fou
)
2011-04-30 15:52:52
東北地方には原発をはじめ、電子産業、精密機械などの先進技術が根付いていたのですね。前にも書いたかと思いますが、著書『東北の将来』において、清壽は寒冷地の東北を稲作を主とする農業生産地とする政策はふさわしいとはいえない、むしろ北欧のように工業を興すべきだと説いています。
六郎は晩年、東北に遷都を、と自分で小冊子を作って説いていましたネ。
昨今、首都圏直下型地震に備えて、遷都や首都機能の分散が賑々しく論じ始められていますので、六郎はどこかで「ほッほー」とにんまりしているかもね。
「夜の森」という古い地名からはうっそうと茂る森がかつてはあったのかもしれませんが、清壽が乞われて土地を買って2,3人の同志と共に開墾を始めた当初には一面の原野だったと。
夜の森は高台の地で海までは3km以上?離れていますが、当初、太平洋の波頭が遠くに見渡せたそうです。
次男の六郎は農業専門学校を卒業すると父が開いた梨園を任せられて農耕に汗を流す生活をした。
清壽は国会議員として、六郎は壮年期には証券マンとして首都の暮らしを経験して、首都と東北の格差を厭というほど実感したことが、二人に「東北の開発」という使命をいだかせたのでしょう。六郎は松尾芭蕉を「芭蕉の野郎」などと言ってましたが、それは東北がいつまでも「奥の細道」と言われることに対するささやかな、だが強い抵抗の意志の表明だったのでしょう。
今度の大災害の復興には東北を一番よく知っている、東北で生きてきた人々にイニシアティヴを取ってもらいたいと思います。
あらゆる必要な知識と技術、叡智、資金を結集して、その実現に寄与することを強く望みます。
返信する
現下の「福島県富岡町夜の森」の…
(
髭彦
)
2011-04-30 11:06:08
瀕死の歴史と、僕たちの個人史を重ね合わせて見ると、意外に大きなものが見えてくるかもしれません。
曽祖父半谷清寿に関しても、これまでの高橋富雄さんなどによる<東北開発論の先駆者>という評価を超えた再評価が必要だと思います。
いずれにしても、祖父母や母などからの<オーラル・ヒストリー>をぜひ詳細に記録して置いてください。
返信する
「大八車に荷物を載せて
(
Fou
)
2011-04-29 19:08:59
それを牽いて故郷の小高の家に帰ってきた」と祖母がよく話してくれました。当時、既に姉が結婚して生家に暮らしていたので、「家督」を姉の連れ合いに譲って自分は「平民」という身分を選んで実業家になったのだと。
相馬藩の郷士のその古い家も津波で失われてしまった由です。
明治20か21年生れ、旧小高町で育った祖母が目にしたことのようですが、「お妙見様(神社)の近くにおじいさん(清壽)の米蔵が何十もあった」のだと言ってましたから、2年間の教員の給料を貯めたお金を元手に瞬く間に事業を大きくしたのでしょうね。衆議院議員だった時期を詳しくは知りませんが、明治36年だったかの国会の議事録中の清壽の発言を何かで読んだ記憶があります。清壽の被選挙権は「高額納税者」という事だった由ですから、実業家としてのすぐれた資質があったのでしょうね。子孫はひとりもそのDNA を受け継いでいないようですが。
野馬追は開催を決めかねているようですね。野馬追の東京デモンストレーションのことですが、祖父は「中学」の頃だったと言っていましたから、明治22年生れの祖父が14歳頃とすると明治36年あたりのことではないかしら。暇があったら当時の新聞記事を国会図書館で漁ってみては。旧制の中学生の年齢は何歳から?
ちなみに、桜並木の植樹は「13の時、親父に手伝った」と祖父が言ってました。祖父は4月19日生まれ(死んだのも同日)。当時は数え年ですから実際には満10歳から11歳の時期かと思います。
これらは個人史に関わることですが、この際、「福島県富岡町夜の森」の現在の基礎を築いた清壽、戦後全国でもいち早く「都市計画」を町政に組み入れた六郎の父子が深く愛して「農荘」と看板を掲げて生涯の大半を暮らして死んだ片田舎の「まち」が誕生から150年にも満たない時に瀕死の苦しみにあるのをあなたと苦痛を分け合うことができる場とさせて下さい。
このブログに立ち寄られる方々に、改めておゆるしを請います。
返信する
曽祖父は…
(
髭彦
)
2011-04-24 15:24:00
三春の師範学校を出て、2年の義務年限だけ二本松で小学校教員をしてから、さっさと小高に戻って実業家の道を歩み始めたということですが、地図で見ると二本松から小高に帰る道筋に川俣や飯舘があったのですね。
返信する
飯舘村は地図を見ると
(
Fou
)
2011-04-23 17:58:52
原町の西部の向こうになるようですね。今回、小高の人たちは最初にこの村の避難所に避難した人もあったようです。
川俣町は古くから養蚕の盛んなところだったようですね。清壽は小高をはじめ浜通りの方にも養蚕業を興そうと試みたようです。川俣はもとより、安曇野の養蚕を学ぼうとして、相馬愛蔵さんとの交友が始まったようですね。
百科辞典を見てみると、各地で蚕の飼育法にいろいろな改良の歴史があったようですから。
安曇野の山荘のある林は古くは天蚕の飼育のためのクヌギ林だったそうです。今もクヌギの木がかなりありますので、天蚕の黄緑色の大きな繭がクヌギの木や家の軒下についていることがあります。
返信する
知らなかった
(
髭彦
)
2011-04-23 16:05:28
内橋克人さんのはいつも読んでいるのですが、これは見落としてしまったようです。
「まてい」という祖母のことばは、知りませんでした。
飯舘村は小高の隣り!?
祖父の話も聴いたことがありません。
川俣は、曽祖父が養蚕を学びに行ったところではないかと思います。
返信する
「までいライフ」
(
Fou
)
2011-04-23 03:08:07
21日東京新聞夕刊、「紙つぶて」欄を読みましたか。
飯舘村の基本理念「までいライフ」。
<「までい」とは「丁寧に」「じっくりと」「手間暇惜しまずに」の意であるという。>と。
その理念を掲げて「日本で最も美しい村」連合の支え手ともなった村民たちが放射能に追い立てられていることに内橋克人氏が痛む心で書いています。
小高育ちの祖母がよく使っていた言葉「まていに」「まていだ」を思い出しました。飯舘村は小高の隣の村だと思います。
「おかあちゃまの仕事はまていだから」と祖母はよく言ってました。針仕事は職人並みの腕前だった?祖母の娘である私たちの母は針仕事は「からきしだめ」でしたが、祖母は母の足袋繕いを高く評価していました。母の繕った足袋は「まていだから」とても丈夫な仕上がりだったと。
何かにつけ、「まていにしなさい」と言われました。
そして、飯舘村。祖父が「昔、親父に連れられて飯舘村に行ったことがあるが、農家の6畳間ほどの部屋に天井まで剥いた栗が積みあがっていた!」と。飯舘村の農業の豊かさに驚いたことを栗好きの祖父は目を輝かせてそのときの感動を語っていました。
忘れていた村の名前をこの間に思い出すことになりました。
川俣町、祖父の墓石は川俣町のすぐ手前にある石材置き場で見つけた阿武隈の石です。
返信する
その浪江も小高も…
(
髭彦
)
2011-04-20 07:41:45
津波に加え、第1原発事故の核汚染で遺体捜索すらままならぬ事態に。
これから、久しぶりに旅友の誘いで彼の秩父にある山荘に1泊で出かけます。
明日の夕方には帰るので、聴けたらね。
返信する
小高町と浪江町の町民は賢明にも
(
Fou
)
2011-04-20 00:31:06
東電第3原発の誘致に対して用地売却に応じず、という戦いを継続して第三を阻止、東電は諦めきれずに第一に7,8号機を。
その浪江と小高は津波の被害甚大、20km圏内で退去。小高は多分、20km圏内きっての米どころ、浪江町の太平洋岸の請戸地区は請戸川(?)を挟む広い平野地区。川は毎年大量の鮭が遡上するあの辺り随一の鮭の魚場でもありましたね。
小さき兄はこの海岸沿いの道を車で走行中におぼれそうになっている人影が目に入り、海に跳び込んで救出。「どうやって俺だとわかったのかなあ。警察から感謝状をもらっちゃったよ。」と言っていましたが。あの人の視力は野生の動物並み、何キロも先の看板の文字まで読めるんだから。
明日(20日)18時、NHK・FM横浜を聴く時間があったら聴いてみて。「ちぐさ」の仲間が今回の津波で被災したジャズ喫茶の支援の試みをする話題でTaがライヴの電話取材に応じます。
返信する
地方を犠牲にした…
(
髭彦
)
2011-04-19 21:52:40
日本の経済発展の最も大きな歪の耕造が、原発立地・行政にあったということですね。
交付金が打ち切られ、法人税も激減し、作ったハコモノの維持費で赤字に転落し、そこにつけ込まれて計画されたのが、7・8号機の新設だったはずです。
「大野の病院」と「オフサイトセンター」、「双葉病院」との関係は、ぜひ記録して置いてください。
林町の記憶も、4歳年下の僕には理解できていなかったものがかなりありそうです。
こちらも記録をぜひ。
返信する
福島議員の質疑応答から
(
Fou
)
2011-04-19 18:59:57
知っただけでしたが。
最後の質問者である議員は冒頭で小中学生に出した首相と文科大臣(省?)のメッセージに子供たちへの謝罪の言葉がなかったことを告発して、子供たちに嘘を教えたことを謝罪してくれと迫りました、原発安全神話教本をかざしながら。
私はそのような教材があることすら知らずに過してしまったのです。
地元の成人たちはさらに行政からもそういう市民教育を受けていたのでしょうね。
地元で、終始反原発、脱原発運動を粘り強くしていた人たちは「白眼視」されていたようです。
原発立地の自治体には巨額の「給付金」があったことを知っていましたが、どの町にも過大で立派な体育館ができ、新しい道路が造成され、決して豊かな生産地とは言い難い町々なのに急速に地方色が失われたことを目にするにつけ、複雑な心境でした。今回知ったことはこの給付金はそういうものにと用途が指定されていたのだと。維持費はすべて各自治体もち、おかげで自治体の財政を脅かす結果となり、維持費への補助を要請して、多少の給付が得られるようにはなった、と。
双葉町の県立大野病院は中学生の私が1年間入院したところですが、東電の事故時のための「オフサイト・センター」とするために移転させられたとのことですが、F1から5kmの位置にあり、今回の事故発生と同時にこの「オフサイトセンター」は福島市内にお引越し。本来のセンターでは緊急時には内閣府、東電本社、県庁、各市町村の緊急対策本部とF1とがテレビ会議ができるようになっていて、定期的に訓練も行われていたのに、今回は使われることもなかったようです。地元では当初、5kmの位置ではなく、もっと遠距離にセンターを設置すべきとの意見もあったけれど、無視されたと。
病院の敷地は広く、小川の流れが取り囲み敷地の外には梨畑が広がり、その向こうに遠く阿武隈山脈の山並が見え、夏にはカッコウの鳴き声が響き渡りました。駅からは5分とかからない距離。新病院はどうやら駅からはもう少し遠いところに移されたようです。
この話を聞いて、戦後の占領軍の都内の施設・家屋の「接収」を思い起こしました。
文京区の私たちの家の向い側の徳川邸の木立の中の洋館、林町小の通りの右奥の北欧風の洋館には黄色のスクールバスで通学するアメリカンスクールの傍若無人な態度の生徒達が昭和20年代後半までいましたね。
その一方で、家の2階から見える大きな家(能楽堂だと父が言ってました)には徳川家の縁者と思われる人たちが大勢で住んでいましたね。
空襲で「焼け出された」人たちだったのでしょう。焼け出された、という語もいまや死語?
返信する
正確には、<修正再提出>を命じたらしい
(
髭彦
)
2011-04-19 16:47:20
「東電は3月30日、福島第一原発の7、8号機の新設を保安院に申請。保安院に聞くと、11日の事故を考慮していないので、作り直せと指示し、受理しなかったとのこと。事故があってもそのまま書類を出す東電も東電。保安院は作り直せではなく、作るなと言うべき」(社民党福島みずほのtwitter4/15)。
正論でしょう。
東電は度し難いし、保安院も「不」安院と言われるだけの相も変わらぬ応対振りです。
返信する
今日の予算委員会の中継を見て
(
Fou
)
2011-04-19 01:11:36
たまげた!ことには、3月31日に東電は福島第一原発に7,8号機を新設する申請書を政府に提出した、と議員からの質問に社長が答弁。
受理された様子。
これこそ「自粛」をうながして不受理とする場合じゃないのかしらね。
返信する
現在、欧米では…
(
髭彦
)
2011-04-18 12:58:21
日本で言う「核兵器」「核武装」「核テロ」などの「核」と「原発」の「原子力」は、ほぼ“nuclerar”“nuke”に統一されているようです。
日本ではこれが意図的に訳し分けられて来たと、どこかで指摘されていました。
その可能性、大だと思います。
<公式>には最近「東日本大震災」に呼称が統一されましたが、僕は「東日本原発大震災」と呼ぶべきだと思っています。
地震学者の石橋克彦さん(『大地動乱の時代―地震学者は警告する』岩波新書、1994)が「原発震災」という概念をいち早く提唱し、警告を発していたのを受けたものです。
返信する
鈍感に過してしまったものよ!
(
Fou
)
2011-04-18 04:09:20
<nucléaire>の語義をLarousse社の『大百科辞典』GDEL(1984年版)で見ると:
原子核の、
原子核から生じるエネルギーの、
このエネルギーを利用する諸技術の
とあります。
平凡社『大百科辞典』(1984年版)では:
【核 nuclear】
a) 核燃料、核爆発、核燃料、核反応、核分裂、核融合、核力
b) 核戦略、核兵器、核実験、核保有国、核戦争
【原子力】核反応に伴って発生するエネルギーを原子核エネルギー(核エネルギー)nuclear energy あるいは原子エネルギー atomic energyという、そして、その利用に重点をおいてよぶ場合、一般に原子力 atomic power という。
原子炉nuclear reactor, 原子力船 nuclear ship,
原子力発電、原子力産業(共に英語表記なし)
原子力利用国際会議 ICPUAE (...Peaceful Uses of Atomic Energy)。
各項目の執筆者は「原子ー」に関してはみな別人。
言葉の使い分けがなぜ起こるのか、意図があるのか、いい加減なのかはわからないけれど、社会が共通の認識・理解を持つ用語とすることが大切ですね。今回の地震の呼称も当初から不統一になっていますね。政府は二日目だったと思いますが、「東北地方太平洋沖を震源とする地震」の名称とすると発表しましたが、これは地震名。この大災害の呼称ではないですね。一般に「東日本大震災」と呼ばれていますが、原発事故を脱落させてはならないと思います。「スリーマイル」、「チェルノブイリ」についで「フクシマ」を歴史に残すことは身を切られる思いですが、日本の義務です。
「東北関東太平洋岸地震津波・福島原発事故大災害」、じゅげむのようでも仕方なし。
阪神大震災も淡路を加えなければと「阪神淡路大震災」と改めたと記憶しています。
返信する
“nuclear”を…
(
髭彦
)
2011-04-17 23:18:54
「核」(=軍事利用)と「原子力」(=平和利用)とに訳し分け、僕たちを洗脳してきた者たちがいるのですね。
その連中が国内で「原子力(核)村・マフィア」を形成してきたのでしょうが、その「村・マフィア」の背後にはアメリカをはじめとする国際的な「原子力(核)村・マフィア」もあるはずです。
<チェルノブイリ>に続く<フクシマ>の悲劇は、そうした国内外の「原子力(核)村・マフィア」に対する人類史的な抗議とオルタナティブ選択への、決定的な契機になりうるし、またならなければならないのだと思います。
返信する
F1事故で今度こそ
(
Fou
)
2011-04-17 01:15:19
原発は途轍もなく高くつく、ということがよーく解ったでしょうから、ゆくゆくは脱原発社会となることに希望を託して、後代が安全な生活を享受できるように祈ります。
今回の震災にF1事故が加わったことで、まさにglobalな社会になったことを実感しました。
湯川秀樹は平和運動を進める中で「世界連邦」を提唱していたと思いますが、そうなれば、例えば日本はGlobeの中の「日本村」というようになる、と言っていました。
F1の事故処理の支援のために各国の巨額の国費が使われているのですから、2010年1月1日の全世界の原発は432基、今後このような事故が何回も起きれば原発所有各国の財政には過大な負担となることでしょう。地球のものである空気、水、土に放射能が撒き散らされる危険にさらされたら、協同でその危険を排除せざるを得ないのですから。
ちょっととりとめがなくなったようですね。
返信する
そう言えば…
(
髭彦
)
2011-04-16 16:35:29
僕もかつて『世界』1988年5月号の小出論文を読んだのでした。
鋭い警告だとは思いましたが、どこかでまさかそこまで現実に起きるのだろうかという気持ちがあったように思います。
僕も高校時代、物理は苦手中の苦手でしたから。
小出さんたちのようなまじめな専門家・研究者の警告の声が、僕たちのような無知な国民の心に届くには、『世界』のような雑誌だけでなく、一般の新聞・TV・ラジオ・週刊誌などにそうした批判的な警告が常に載っていなければいけなかったのです。
それゆえに、官産学の<原子力ムラ><原子力マフィア>は権力と金で、そうした声が国民に届かぬよう、ありとあらゆる手段を系統的に使って排除し、「安全神話」で国民を洗脳してきたのでしょう。
今回、インターネットがあったからこそ、初めて小出さんたちの批判的分析が僕たちにダイレクトに届き、彼らの警告が悲劇的な現実の前では誇張でもなんでもなかったことが、ようやく広く国民の中に浸透し始めたのです。
政府からは未だに小出さんたちには何の相談もないそうですし、マスコミもNHKやサンケイなどは依然として小出さんたちの批判的分析を報道せず、原発推進派のエセ学者・専門家の分析を垂れ流し続けています。
したがって、高齢者の多くは「直ちに危険はありません」式の報道をまだ真に受けているかもしれませんが、若者たちの間ではそうは行きません。
ネット情報にも極端なものがゴマンとありますが、どういう専門家の分析が信用できるかという、情報リテラシーが若者たちの中に次第に育って来ていると思います。
そこに期待するしかありません。
返信する
この喪失感は
(
Foou
)
2011-04-16 00:14:10
なぜなのか、考えているのですが、闇の中。
小高から久ノ浜に暮らしていた私が知る50人程の親族の置かれている状況を思うと胸が張裂けそう。
「世界」1988年5月号と本年の5月号を読んでいますが、田中三彦論文は88年の告発的不安が現実となろうとしていることを愁うる「原子炉設計技術者」の告発として重い発言だと思います。
88年5月号の京大・小出論文の警告がどれほど現実的なものであったかを理解できなかったことが悔やまれます。
高校で「物理」を習った程度で止まってしまった私には超高度な原子物理学の知識を要する「原発」の危険性も安全性も、ともに判断基準を持つことができませんでした。
返信する
今朝の日テレ「スッキリ」という…
(
髭彦
)
2011-04-15 16:45:24
番組で、一昨日の夜ノ森の満開の桜を映していたそうです。
見たかったような、見たくなかったような、複雑な思いです。
菅は「20キロ以内は10年か20年かは人が住めない」という発言をあわてて否定していますが、政府や東電の認識はそうなのでしょう。
それほど、事故と放射能汚染は深刻だということです。
しかも、事故はまだ進行形のまま。
避難している故郷の人たちは、むろん故郷に帰りたいわけですが、もうムリだろうという声も広がっているそうです。
返信する
今年は花を見ることできなかった
(
Fou
)
2011-04-15 09:29:29
近所の桜にも目を上げることできなかった。
今年こそ、あなたを車に押し込んででも一緒に夜の森の花を見に行こうと昨年から決めていたのですが。
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どうしてそうなってしまったのか、僕たちはそれをこれから深く考えてゆかなければならないのでしょう。
12人という子沢山(しかも曾祖母一人で生み続けた!!)の清壽はそれぞれの子に何らかの事業に関わることを求めたようです。
長男(銀砂工場)、次男(農園)、三男(採砂業?)、四男(石材業)、五男(英文科)、六男(窯業)、長女(造園師の妻に)、次女(郵便局主の妻に)、三女(酒造業主の妻に)、四女(大学教育を)。
一人は夭折、一人は幼少の頃の大ヤケドによるPTSDが原因か「お祭まッちゃん」といわれていましたが、ヴァイオリンを弾きながらあの祭りこの祭と出かける気随な生活をしていましたが、私が子供の頃に没。
その夢は戦争もあったし、諸般の事情から多くは実現・継続という事にはならなかったとはいえ。
農園経営のために次男を農業専門学校(現東北大農学部)、六男(窯業)を東工大の前身校の窯業科、四男(石材業)を大谷石の現地に修行に行かせて、それぞれ専門の勉強をさせたようです。清壽は壮大な夢を描いたのでしょうね。
五男を除いては皆最終的には地元で生きた人たちでしたから、今、F120km圏内から私が知る限り50人もの親族がそれぞれ一家散り散りの避難生活をしていることに。
原発をはじめとする現在の東北の工業の多くは、残念ながらそうした<地場産業>ではなく、安い土地と水、労働力、そして危険回避などを求めた、外来巨大資本と国策によるいわば<植民地的な工業>だったのではないでしょうか。
南相馬市長はよく頑張っていますが、その彼も「<脱>でも<アンチ>でもなく、原発<克服>の産業」をなどと、意味不明で危うい発言をしています。
東北にどのような未来がありえるのかは、それこそ原発危機が収束し、放射能汚染が安全水準にまで戻らない限り、つまり原発推進派に抗して(アンチ)、「脱」原発をしない限り、少なくとも福島県については考えられないでしょう。
もし、その日が来れば、工業だけでなく、農業、漁業、商業、観光業すべてを含めて、より自立的で自然との共存をめざす産業を興さなければいけないと思います。
今回の悲劇が、結局は僕たちの故郷の浜通りが首都圏の<エネルギー植民地>であったがゆえだったとすれば、僕たちが曽祖父から受け継ぐべきはなによりも東北の自立です。
その日が来ることを祈ります。
六郎は晩年、東北に遷都を、と自分で小冊子を作って説いていましたネ。
昨今、首都圏直下型地震に備えて、遷都や首都機能の分散が賑々しく論じ始められていますので、六郎はどこかで「ほッほー」とにんまりしているかもね。
「夜の森」という古い地名からはうっそうと茂る森がかつてはあったのかもしれませんが、清壽が乞われて土地を買って2,3人の同志と共に開墾を始めた当初には一面の原野だったと。
夜の森は高台の地で海までは3km以上?離れていますが、当初、太平洋の波頭が遠くに見渡せたそうです。
次男の六郎は農業専門学校を卒業すると父が開いた梨園を任せられて農耕に汗を流す生活をした。
清壽は国会議員として、六郎は壮年期には証券マンとして首都の暮らしを経験して、首都と東北の格差を厭というほど実感したことが、二人に「東北の開発」という使命をいだかせたのでしょう。六郎は松尾芭蕉を「芭蕉の野郎」などと言ってましたが、それは東北がいつまでも「奥の細道」と言われることに対するささやかな、だが強い抵抗の意志の表明だったのでしょう。
今度の大災害の復興には東北を一番よく知っている、東北で生きてきた人々にイニシアティヴを取ってもらいたいと思います。
あらゆる必要な知識と技術、叡智、資金を結集して、その実現に寄与することを強く望みます。
曽祖父半谷清寿に関しても、これまでの高橋富雄さんなどによる<東北開発論の先駆者>という評価を超えた再評価が必要だと思います。
いずれにしても、祖父母や母などからの<オーラル・ヒストリー>をぜひ詳細に記録して置いてください。
相馬藩の郷士のその古い家も津波で失われてしまった由です。
明治20か21年生れ、旧小高町で育った祖母が目にしたことのようですが、「お妙見様(神社)の近くにおじいさん(清壽)の米蔵が何十もあった」のだと言ってましたから、2年間の教員の給料を貯めたお金を元手に瞬く間に事業を大きくしたのでしょうね。衆議院議員だった時期を詳しくは知りませんが、明治36年だったかの国会の議事録中の清壽の発言を何かで読んだ記憶があります。清壽の被選挙権は「高額納税者」という事だった由ですから、実業家としてのすぐれた資質があったのでしょうね。子孫はひとりもそのDNA を受け継いでいないようですが。
野馬追は開催を決めかねているようですね。野馬追の東京デモンストレーションのことですが、祖父は「中学」の頃だったと言っていましたから、明治22年生れの祖父が14歳頃とすると明治36年あたりのことではないかしら。暇があったら当時の新聞記事を国会図書館で漁ってみては。旧制の中学生の年齢は何歳から?
ちなみに、桜並木の植樹は「13の時、親父に手伝った」と祖父が言ってました。祖父は4月19日生まれ(死んだのも同日)。当時は数え年ですから実際には満10歳から11歳の時期かと思います。
これらは個人史に関わることですが、この際、「福島県富岡町夜の森」の現在の基礎を築いた清壽、戦後全国でもいち早く「都市計画」を町政に組み入れた六郎の父子が深く愛して「農荘」と看板を掲げて生涯の大半を暮らして死んだ片田舎の「まち」が誕生から150年にも満たない時に瀕死の苦しみにあるのをあなたと苦痛を分け合うことができる場とさせて下さい。
このブログに立ち寄られる方々に、改めておゆるしを請います。
川俣町は古くから養蚕の盛んなところだったようですね。清壽は小高をはじめ浜通りの方にも養蚕業を興そうと試みたようです。川俣はもとより、安曇野の養蚕を学ぼうとして、相馬愛蔵さんとの交友が始まったようですね。
百科辞典を見てみると、各地で蚕の飼育法にいろいろな改良の歴史があったようですから。
安曇野の山荘のある林は古くは天蚕の飼育のためのクヌギ林だったそうです。今もクヌギの木がかなりありますので、天蚕の黄緑色の大きな繭がクヌギの木や家の軒下についていることがあります。
「まてい」という祖母のことばは、知りませんでした。
飯舘村は小高の隣り!?
祖父の話も聴いたことがありません。
川俣は、曽祖父が養蚕を学びに行ったところではないかと思います。
飯舘村の基本理念「までいライフ」。
<「までい」とは「丁寧に」「じっくりと」「手間暇惜しまずに」の意であるという。>と。
その理念を掲げて「日本で最も美しい村」連合の支え手ともなった村民たちが放射能に追い立てられていることに内橋克人氏が痛む心で書いています。
小高育ちの祖母がよく使っていた言葉「まていに」「まていだ」を思い出しました。飯舘村は小高の隣の村だと思います。
「おかあちゃまの仕事はまていだから」と祖母はよく言ってました。針仕事は職人並みの腕前だった?祖母の娘である私たちの母は針仕事は「からきしだめ」でしたが、祖母は母の足袋繕いを高く評価していました。母の繕った足袋は「まていだから」とても丈夫な仕上がりだったと。
何かにつけ、「まていにしなさい」と言われました。
そして、飯舘村。祖父が「昔、親父に連れられて飯舘村に行ったことがあるが、農家の6畳間ほどの部屋に天井まで剥いた栗が積みあがっていた!」と。飯舘村の農業の豊かさに驚いたことを栗好きの祖父は目を輝かせてそのときの感動を語っていました。
忘れていた村の名前をこの間に思い出すことになりました。
川俣町、祖父の墓石は川俣町のすぐ手前にある石材置き場で見つけた阿武隈の石です。
これから、久しぶりに旅友の誘いで彼の秩父にある山荘に1泊で出かけます。
明日の夕方には帰るので、聴けたらね。
その浪江と小高は津波の被害甚大、20km圏内で退去。小高は多分、20km圏内きっての米どころ、浪江町の太平洋岸の請戸地区は請戸川(?)を挟む広い平野地区。川は毎年大量の鮭が遡上するあの辺り随一の鮭の魚場でもありましたね。
小さき兄はこの海岸沿いの道を車で走行中におぼれそうになっている人影が目に入り、海に跳び込んで救出。「どうやって俺だとわかったのかなあ。警察から感謝状をもらっちゃったよ。」と言っていましたが。あの人の視力は野生の動物並み、何キロも先の看板の文字まで読めるんだから。
明日(20日)18時、NHK・FM横浜を聴く時間があったら聴いてみて。「ちぐさ」の仲間が今回の津波で被災したジャズ喫茶の支援の試みをする話題でTaがライヴの電話取材に応じます。
交付金が打ち切られ、法人税も激減し、作ったハコモノの維持費で赤字に転落し、そこにつけ込まれて計画されたのが、7・8号機の新設だったはずです。
「大野の病院」と「オフサイトセンター」、「双葉病院」との関係は、ぜひ記録して置いてください。
林町の記憶も、4歳年下の僕には理解できていなかったものがかなりありそうです。
こちらも記録をぜひ。
最後の質問者である議員は冒頭で小中学生に出した首相と文科大臣(省?)のメッセージに子供たちへの謝罪の言葉がなかったことを告発して、子供たちに嘘を教えたことを謝罪してくれと迫りました、原発安全神話教本をかざしながら。
私はそのような教材があることすら知らずに過してしまったのです。
地元の成人たちはさらに行政からもそういう市民教育を受けていたのでしょうね。
地元で、終始反原発、脱原発運動を粘り強くしていた人たちは「白眼視」されていたようです。
原発立地の自治体には巨額の「給付金」があったことを知っていましたが、どの町にも過大で立派な体育館ができ、新しい道路が造成され、決して豊かな生産地とは言い難い町々なのに急速に地方色が失われたことを目にするにつけ、複雑な心境でした。今回知ったことはこの給付金はそういうものにと用途が指定されていたのだと。維持費はすべて各自治体もち、おかげで自治体の財政を脅かす結果となり、維持費への補助を要請して、多少の給付が得られるようにはなった、と。
双葉町の県立大野病院は中学生の私が1年間入院したところですが、東電の事故時のための「オフサイト・センター」とするために移転させられたとのことですが、F1から5kmの位置にあり、今回の事故発生と同時にこの「オフサイトセンター」は福島市内にお引越し。本来のセンターでは緊急時には内閣府、東電本社、県庁、各市町村の緊急対策本部とF1とがテレビ会議ができるようになっていて、定期的に訓練も行われていたのに、今回は使われることもなかったようです。地元では当初、5kmの位置ではなく、もっと遠距離にセンターを設置すべきとの意見もあったけれど、無視されたと。
病院の敷地は広く、小川の流れが取り囲み敷地の外には梨畑が広がり、その向こうに遠く阿武隈山脈の山並が見え、夏にはカッコウの鳴き声が響き渡りました。駅からは5分とかからない距離。新病院はどうやら駅からはもう少し遠いところに移されたようです。
この話を聞いて、戦後の占領軍の都内の施設・家屋の「接収」を思い起こしました。
文京区の私たちの家の向い側の徳川邸の木立の中の洋館、林町小の通りの右奥の北欧風の洋館には黄色のスクールバスで通学するアメリカンスクールの傍若無人な態度の生徒達が昭和20年代後半までいましたね。
その一方で、家の2階から見える大きな家(能楽堂だと父が言ってました)には徳川家の縁者と思われる人たちが大勢で住んでいましたね。
空襲で「焼け出された」人たちだったのでしょう。焼け出された、という語もいまや死語?
正論でしょう。
東電は度し難いし、保安院も「不」安院と言われるだけの相も変わらぬ応対振りです。
受理された様子。
これこそ「自粛」をうながして不受理とする場合じゃないのかしらね。
日本ではこれが意図的に訳し分けられて来たと、どこかで指摘されていました。
その可能性、大だと思います。
<公式>には最近「東日本大震災」に呼称が統一されましたが、僕は「東日本原発大震災」と呼ぶべきだと思っています。
地震学者の石橋克彦さん(『大地動乱の時代―地震学者は警告する』岩波新書、1994)が「原発震災」という概念をいち早く提唱し、警告を発していたのを受けたものです。
原子核の、
原子核から生じるエネルギーの、
このエネルギーを利用する諸技術の
とあります。
平凡社『大百科辞典』(1984年版)では:
【核 nuclear】
a) 核燃料、核爆発、核燃料、核反応、核分裂、核融合、核力
b) 核戦略、核兵器、核実験、核保有国、核戦争
【原子力】核反応に伴って発生するエネルギーを原子核エネルギー(核エネルギー)nuclear energy あるいは原子エネルギー atomic energyという、そして、その利用に重点をおいてよぶ場合、一般に原子力 atomic power という。
原子炉nuclear reactor, 原子力船 nuclear ship,
原子力発電、原子力産業(共に英語表記なし)
原子力利用国際会議 ICPUAE (...Peaceful Uses of Atomic Energy)。
各項目の執筆者は「原子ー」に関してはみな別人。
言葉の使い分けがなぜ起こるのか、意図があるのか、いい加減なのかはわからないけれど、社会が共通の認識・理解を持つ用語とすることが大切ですね。今回の地震の呼称も当初から不統一になっていますね。政府は二日目だったと思いますが、「東北地方太平洋沖を震源とする地震」の名称とすると発表しましたが、これは地震名。この大災害の呼称ではないですね。一般に「東日本大震災」と呼ばれていますが、原発事故を脱落させてはならないと思います。「スリーマイル」、「チェルノブイリ」についで「フクシマ」を歴史に残すことは身を切られる思いですが、日本の義務です。
「東北関東太平洋岸地震津波・福島原発事故大災害」、じゅげむのようでも仕方なし。
阪神大震災も淡路を加えなければと「阪神淡路大震災」と改めたと記憶しています。
その連中が国内で「原子力(核)村・マフィア」を形成してきたのでしょうが、その「村・マフィア」の背後にはアメリカをはじめとする国際的な「原子力(核)村・マフィア」もあるはずです。
<チェルノブイリ>に続く<フクシマ>の悲劇は、そうした国内外の「原子力(核)村・マフィア」に対する人類史的な抗議とオルタナティブ選択への、決定的な契機になりうるし、またならなければならないのだと思います。
今回の震災にF1事故が加わったことで、まさにglobalな社会になったことを実感しました。
湯川秀樹は平和運動を進める中で「世界連邦」を提唱していたと思いますが、そうなれば、例えば日本はGlobeの中の「日本村」というようになる、と言っていました。
F1の事故処理の支援のために各国の巨額の国費が使われているのですから、2010年1月1日の全世界の原発は432基、今後このような事故が何回も起きれば原発所有各国の財政には過大な負担となることでしょう。地球のものである空気、水、土に放射能が撒き散らされる危険にさらされたら、協同でその危険を排除せざるを得ないのですから。
ちょっととりとめがなくなったようですね。
鋭い警告だとは思いましたが、どこかでまさかそこまで現実に起きるのだろうかという気持ちがあったように思います。
僕も高校時代、物理は苦手中の苦手でしたから。
小出さんたちのようなまじめな専門家・研究者の警告の声が、僕たちのような無知な国民の心に届くには、『世界』のような雑誌だけでなく、一般の新聞・TV・ラジオ・週刊誌などにそうした批判的な警告が常に載っていなければいけなかったのです。
それゆえに、官産学の<原子力ムラ><原子力マフィア>は権力と金で、そうした声が国民に届かぬよう、ありとあらゆる手段を系統的に使って排除し、「安全神話」で国民を洗脳してきたのでしょう。
今回、インターネットがあったからこそ、初めて小出さんたちの批判的分析が僕たちにダイレクトに届き、彼らの警告が悲劇的な現実の前では誇張でもなんでもなかったことが、ようやく広く国民の中に浸透し始めたのです。
政府からは未だに小出さんたちには何の相談もないそうですし、マスコミもNHKやサンケイなどは依然として小出さんたちの批判的分析を報道せず、原発推進派のエセ学者・専門家の分析を垂れ流し続けています。
したがって、高齢者の多くは「直ちに危険はありません」式の報道をまだ真に受けているかもしれませんが、若者たちの間ではそうは行きません。
ネット情報にも極端なものがゴマンとありますが、どういう専門家の分析が信用できるかという、情報リテラシーが若者たちの中に次第に育って来ていると思います。
そこに期待するしかありません。
小高から久ノ浜に暮らしていた私が知る50人程の親族の置かれている状況を思うと胸が張裂けそう。
「世界」1988年5月号と本年の5月号を読んでいますが、田中三彦論文は88年の告発的不安が現実となろうとしていることを愁うる「原子炉設計技術者」の告発として重い発言だと思います。
88年5月号の京大・小出論文の警告がどれほど現実的なものであったかを理解できなかったことが悔やまれます。
高校で「物理」を習った程度で止まってしまった私には超高度な原子物理学の知識を要する「原発」の危険性も安全性も、ともに判断基準を持つことができませんでした。
見たかったような、見たくなかったような、複雑な思いです。
菅は「20キロ以内は10年か20年かは人が住めない」という発言をあわてて否定していますが、政府や東電の認識はそうなのでしょう。
それほど、事故と放射能汚染は深刻だということです。
しかも、事故はまだ進行形のまま。
避難している故郷の人たちは、むろん故郷に帰りたいわけですが、もうムリだろうという声も広がっているそうです。
今年こそ、あなたを車に押し込んででも一緒に夜の森の花を見に行こうと昨年から決めていたのですが。