雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話18 一教師として生きて

2009-04-04 15:12:04 | 髭彦閑話

退職に当たって、同窓会の会報に1000字ほどの原稿を書くよう依頼された。
3月17日の職員会議の後、教職員に退任の挨拶をしたので、その内容を圧縮して以下のような文章にまとめた。

                                 *

                           「一教師として生きて」
                                                         目良誠二郎

 40年を過ごした海城を去る日がやってきた。社会学の研究者になるつもりで入った大学で、遍歴の末、教育学の魅力を知り、教育学の研究者になるべく大学院に進んだ。しかし、ちょうどその年に始まった大学闘争の大波に巻き込まれ、最終的には政治と党派の論理に強い挫折と幻滅を味わった。経済的かつ思想的自立を求めて、つてを頼って海城の非常勤講師に雇ってもらった。そこで知り合った目沢民雄先生(英語科)や周東一也先生(社会科)に勧められ、池城安伴校長の許可をいただき、専任となった。大学院は中退し、教育学研究ではなく教育の現場で生きることを決意した。
 以来40年、他の職場は知らない。思いがけないことに、親しくなった先輩・同僚たちはまもなく次々に去っていった。やむをえず、31歳にして組合の委員長になり、17年ほどその職を務めた。組合民主主義を徹底し、「生徒たちには学びやすく、教職員には働きやすい学校・職場を」というスローガンを掲げ、生徒の学ぶ権利と教師の働く権利の統一を一貫してめざした。48歳で社会科主任となった。海城は既に有名私立受験校への道を歩み始めていた。促成栽培の受験秀才ではなく、視野の広い知性とたくましい行動力を兼ね備えた人材をじっくり育てる、一味も二味もちがった受験校にしたい。そう思った。そこで、社会科全体で研究し、議論して導入にこぎ着けたのが、系統学習と結合した問題解決学習型の総合科目であった。導入から17年を経て、生徒たちは自分で問題を立て、文献・資料を集め、インタビュー・フィールドワークをこなし、ITとPCを駆使して、立派なレポート・卒業論文を書けるようになり、今や教育界でも注目されるようになった。
 教師が学び、生徒には自分の頭で考えるように教育する。そのため教師として、いっさいの権威・権力に頼らず、あくまで自分の頭と感性で学習し、判断し、行動していくことに努めてきた。今回、退職に当たって、多くの生徒・卒業生・保護者・同僚たちから身に余る「贈る言葉」をいただいた。それは僕にとってどんな地位・名誉にも勝るものであった。最後まで一教師としての生き方を貫くことができて、本当に良かった。いま、その幸せをしみじみとかみしめている。末尾ではあるが、本校独自の益々の発展を祈る。
Mail: GZA01761@nifty.com
Blog:「雪の朝ぼくは突然歌いたくなった」http://blog.goo.ne.jp/nazohige

                                 *

ここに書いた内容に関連しては、以下のルポや対談がある。

中井浩一「海城学園の奇跡 教育改革現場ルポ 東大合格者数を売りにするだけでは収まらず、改革の道を択んだその理由」(『中央公論』1999年5月号。中井浩一『高校が生まれ変わる : 教育現場からの報告』中央公論新社、2000年、所収)
「中沢正夫のシリーズ対談④本物のリベラリズムとは―中沢正夫+目良誠二郎」(『季刊・高校のひろば』1993年冬号)
「(対談)教育と効率―中沢正夫+丸山重威+藤原真由美+松尾高志+目良誠二郎」(中沢正夫・木村晋介・丸山重威編著『非効率主義宣言』萌文社、2002年、所収)

髭彦閑話17 「最終講義」余話
髭彦閑話16 「最終講義」
髭彦閑話15 小田実と加藤周一を偲んで
著書・論文など(目良誠二郎)
「社会科・高校1年共催 目良教諭最終講義」(『海城プレス』2009年04月03日)



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