夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

『こんな国語辞典は使えない』への反論に反論する

2009年03月06日 | Weblog
 自分の著書を検索してみて、えっ? と思った。『こんな国語辞典は使えない』についての批判である。
 私の攻略法が「ある辞書の説明に納得できないと、他の辞書にあたり、そちらの説明の方が理解しやすければ、先のある辞書の説明を攻撃するというもの」と言うのだが、何を根拠にそう言うのかさっぱり分からない。きちんと読んでいないのでは、と思うしか無い。

 「天下の広辞苑などというが、文学を専攻する者、日本語を扱う職にある者にとっては、広辞苑なんて小さな簡便な辞書に過ぎないというのは常識である」と言う。それは専門家にとってはそうなのかも知れないが、私は普通の一般人の立場では広辞苑は権威あると思われているのだ、と言っている。裁判の判決文では、多くの裁判官が言葉の説明をする際に「広辞苑では」とその説明を引用している。権威あると思われているからこそ使われているのである。そしてテレビではニュースワイドショーのスタジオのコメンテーターの背後に「広辞苑」が置かれていたりして、コメンテーターが話をするたびにそれが画面に入って来る。私たちは広辞苑を使っているんですよ、とのアナウンスではないか。権威の無い物を飾ったって何の役にも立たない。
 批判しているこの人は国語の専門家らしい。小学生から高校生まで教えて来た経験があると言う。私は素人の立場で、日本語で生活している人間としての立場で考えているに過ぎない。専門家がどう言おうと、それが筋が通らなければ納得出来ないと言うのは当たり前ではないか。それとも素人は黙っていろ、とでも言うのか。

 「天地無用」について、私は「天地が要らない」のだから、天地を逆さまにしても構わない、と言う意味にもなるのではないか、と疑問を呈した。「天地がいけない」なら、「天地を守ってはいけない」の意味にもなるのでは、と書いた。それについて、この専門家は「天地す」が「上下する」の意味で使われていた事を調べるべきだった、と非難する。
 そうか、「天地す=上下する」なら「上下する無用」は「上下してはいけない」との意味になるのか。「上下」とはどのような意味なのか。岩波国語辞典では「上下する」は「あがりさがりする・のぼりくだりする」としか説明していない。我々の理解だってこれと同じだ。これがなんで「上下を逆さにしてはいけない」になるのか、それを説明せずに、「天地す=上下する」で万事解決だと思い込んでいるその考えが一般人には通じませんよ、と私は言っているのだ。
 だから『新選国語辞典』のみは「天地」の意味として「上と下をとりかえること」も意味の一つとして挙げているのである。そうしないと、「天地無用」が「上下を逆さまにしてはいけない」にならないと考えたのである。日本語の専門家がそう考えたのである。
 「天地す=上下する」でどうして「天地無用=上下を逆にしてはいけない」の意味になるのかを説明するのが専門家の仕事ではないか。「天地す=上下する=上下を逆にする」のだ、と説明出来るのか。それをせずに文句を言ったって何の説得力も無い。

 「行きませんか?」と言う問い掛けの言葉について、私は否定の言い方がなぜ誘いの言葉になるのか不思議だと書いた。その説明が『大辞泉』にあって、「行きませんか」は「行きませむか」であり、「行きましょうか」の意味だ、と書いてある。私だって「む」が意思を表し、「ん(ぬ)」が否定である事は百も承知である。問題は「意思=む」がどうして「否定=ん」と思われる形になってしまったのか、にある。
 同書はそれに対して明確な説明はしていない。ただ、これは良いヒントになる。だから私はそのヒントで自分なりに考えてみたに過ぎない。説明が無いのだから自分で考えるしか無いではないか。その結果、私は「む」と「ん」は通用すると考えたに過ぎない。
 「む」は非常に弱い発音である。ローマ字にすれば「mu」ではあっても、その「u」は極めて弱いのである。ほとんど「m」としか聞こえない。それなら「n」になったって一向におかしくはない。
 中国語の「馬=むま」は日本語では「んま」となり「うま」となった。同じような物に「梅=むめ→んめ→うめ」もある。大体、意思を表す「む」が弱い発音である事がおかしいのである。だから「蛍の光」では「今こそ別れめ」と歌うのである。「今、別れむ」では弱過ぎるのだ。それに「別れん」とも間違える恐れがある。
 もしかしたら、この批判論者は「u」を殊更強く発音する傾向のある関西人なのか。
 そうした事が明らかに違うと言うのなら、なぜ「む」が「ん」になったのかをきちんと説明すべきである。『大辞泉』の説明が間違いなら、間違いだとはっきり言うべきである。説明をせずに、文法を持ち出してそれは馬鹿馬鹿しい考えだと非難するだけなら、誰だって出来る。私だってこの考えがおかしいと知っている。
 しかし言葉と言うのは理屈ではない。どんなに間違っていると思っても、それで正しいと思われて通用している言葉は少なくない。

 私は国語辞典は日本語の規範であるべきだと考えている。確かにこの人の言うように、「用例の解釈を確認する手段」ではあるが、規範ではないのに、どうして解釈の確認が出来るのか。規範ではないのなら、確認したって、そんなのは単に自己満足に過ぎないじゃないか。単にその辞書と自分の考えが合致しただけに過ぎない。
 「国家が定めたのならいざ知らず、日本では辞書は規範とはなり得ない」と言うが、国家が定めれば、それは規範となるのか。冗談じゃない。国家が定めた常用漢字がどんなに変則的なのか、送り仮名の付け方にどんな無理があるのか、国語の教師なら知っているはずである。そうか、それで良いと思っているのか。

 こうした批判を読んで、なるほど、国語の教師はこう考えるのか、と合点が行った。と言うのは、日本語の専門家グループが『問題な日本語』を書き、全国の高校の教師達の賛同を得たと言うからである。私は同書をじっくりと読み、何て考えの浅い本なのかと呆れた。だからほとんどの項目に反論の原稿を書いた。全国の高校の教師のお墨付きである事がとてもじゃないが、信じられない。
 例えば酒処などで「おビールをお持ち致しました」と「ビール」に「お」を付けるのは、自分を上品に見せたいからだ、と言う。ビールは誰の物でもなく、敬う相手が居ないから、がその理由だ。強いて言うなら自分の物だと言う。あははは。自分のビールなら自分で飲んで自分で金を払うしか無い。それでは商売にはならない。
 結局、様々な言葉を通して、この執筆者達には居る相手が見えていない事が分かる。自分さえ良ければそれで良し、なのである。

 素人が何をほざくか、と言いたければ言うがいい。日本語を生活の道具としているのは我々庶民である。絶対に日本語の専門家ではない。専門家がどう考えようと、文法的にはこうだ、と言おうとも、それで納得出来るかどうかが我々には重要なのである。何よりも言葉としての実感が物を言う。理屈ではない。専門家はどうしたって自分の知識に寄り掛かって考える。それしか頼る物が無い。
 そこに専門家と庶民との間の大きな溝がある。本当はあってはいけない溝がある。その溝を越えられない人間が学校で日本語を教えているのかと思うと、ぞっとする。そんな風に教えられた子供達に同情してしまう。そうか、だから今の子供は言葉を知らず、国語の能力も低いのか。
 こうした反論に更に反論があるなら、上に挙げた疑問に明確に答えて頂きたい。ついでに、現代語の辞典に古語の用例の方が多くて親切(古語には出典があるが、現代語には出典は無い。単に執筆者が考えた用例とも考えられる)なのは、どのような場合に役立つのか、明治・大正の文献を読む高校生にとって、具体的にどのような役に立つのかもお示し頂きたい。
 まあ、私の素人ブログなどお読みになる機会はまず無いでしょうけどね。私がこうした事を書いているのは、他人の本をろくに読みもせずに自分の既成観念だけで物を言い、けなしているそのブログが、検索すると最初の方に出て来て、いつまでも大きな顔をして居座っているのが腹に据えかねるからである。

2 コメント

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すごい! (花怜)
2009-03-21 07:32:30
私がずっと心の中でモヤモヤと思ってた事を、完全なる文章で論じてらっしゃるのに、感銘を受けました


天地無用が引っ掛かり、検索して、ココに辿り着きました


すっきりしました!!ありがとうございました!
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花怜さんへ (夏木広介)
2009-03-21 10:25:08
「すごい!」なんて「すごい」事を言われると,舞い上がってしまうじゃないですか。更には「完全なる文章」などと、もう私はるんるん気分。先日もある人から勇気づけられたのですが、またまた勇気が湧いて来ました。なにしろ、原稿の売り込みをしているものですから。私こそ「ありがとうございました!」
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