夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

正しい日本語表記は国家の品格の必要条件だ

2008年02月25日 | Weblog
 昨日、JR東海の子会社の駅弁事件で、毎日新聞の表記の「他=ほか」について書いた。表記については誰よりもうるさいと自負している。
 私は以前、著書で日本語の表記について述べた事がある。ある人はブログで、表記なんて誰も気になどしていないよ、と言った。またある人は、漢字での書き分けに意味が無いから仮名書きにしている、と言った。
 どちらの御意見も正しい。
 だが、私はそんな分かり切った事をわざわざ言っているのではない。実際に表記を気にしている人は少ない。しかし自分では気が付かないが、表記に囚われているとは考えられないか。
 国語辞典や表記辞典は、「一般に使われているから」と、一つの表記を指示している事が多い。ではその「一般」とはどのような事を指しているのか。

 一般とは我々の事だ。表記などあまり気にしていない我々の事だ。我々は、新聞や書籍がそう表記するから、そうだと思って従っているに過ぎない。これは知らず知らずの内に表記に囚われている事を意味しないだろうか。

 国語辞典や表記辞典がしている表記の指示は、「意味の違いで表記を分ける」である。つまり、知らない内に、様々な辞典が言っている意味の違いを受け入れている事になる。もしそれがいい加減な根拠で言われているとしたら、どうなるか。
 言葉の意味をいい加減に解釈する事になる。その事を私は実際に様々な言葉を調べて実証している。
 実際、辞典類は「言う・いう」の使い分けを明確に指示している。理由は、仮名書きの「いう」には実質的な意味が無いか薄い、である。

 この説明に誰も不審を抱かない。なぜだろう。「無い」と「薄い」は違う。「無い」は「有る」に対しての言い方で、黒か白である。それに対して、「薄い」は程度の問題である。だから程度が「濃い」になるに従って、「有る」に近づく。極端に「薄い」場合には「無い」に近づく。そうした曖昧さが付きまとっている。
 そしてその程度の判断はどのようにするのか。
 そうした明確に違う情況を「無いか薄い」などといい加減に説明しているのに、どうして不審を抱かないのか。

 「という」は実際にとてもよく使われている。便利だから使われているのだ。何が便利か。言い方が自然になる。「平和というものは」などの使い方では「平和は」とは違って含みが感じられる。だが、その含みは何か、と問われて、果たして答えられるだろうか。
 はっきり言えば、「という」は、事を曖昧に処理するのに非常に便利だから使われているのである。「というものは」などとなると、更に効果を発揮する。「もの」が何を指しているのかを、言っている、書いている本人が明確に認識せずに使っているのである。あるいは、明確に言いたくない場合もある。

 いずれにしても、非常に曖昧でいい加減で無責任である。
 そんないい加減さに同調せずに仮名書きで通す、と言うのは一つの見識である。しかし、日本語は仮名書きが多くなると分かりにくくなると言う明確な欠陥を持っている。漢字を頼りにして日本語は発達した事を忘れてはいけない。
 それは漢語ばかりの事ではない。純粋の和語にしても、漢字があるから一つの言い方で足りている場合が少なくない。

 昔は、現在のように音声を遠く離れた人に伝える事は出来なかった。それは文字でしか出来なかった。だから、文字さえ明確なら、発音はあまり考慮されなかったはずだ。そのようにして日本語は発達して来た。
 電話があり、ラジオやテレビがある時代になっても、日本語はその基本的な性格を変える事は出来ない。
 そうした事を全く考えずに、和語だから漢字は要らない、などと短絡的に考える。
 私は現在の表記に対して、国語辞典や、特に表記辞典があまりにもいい加減な指示をしている事を様々に採り上げて、原稿を書いた。
 ある一流出版社の編集部で、その正当性は認めてもらえた。ただ、あまり一般的ではない、との理由で本にはならなかった。
 啓蒙よりも売れ行きが最優先なのである。

 しかし、私はとても心配だ。「という」や「こと」「もの」などが、その指している事を明確にせずに使われ過ぎている事が、我々の考え方を非常に曖昧にしているのではないか、と。
 日本語を文法的に曖昧な言語だとする学説がある。しかし私はそうではないと考えている。我々の考え方が曖昧なだけなのだ。

 曖昧な言葉が曖昧な考えを定着させ、日本を曖昧な国にしている。これは私の持論である。正しい日本語表記は「品格ある日本」の重要な条件である。