夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

ベストセラーと問題な日本語・国家の品格

2008年02月18日 | Weblog
 「品格本」のきっかけとなった『国家の品格』をやっと読んだ。なぜこんなに遅れて読んだのかと言うと、「品格」とはこのような事だ、と私なりに理解しているから、特別に読もうとは思わなかった。大体、想像したような事が書かれているのだと思っていた。が、違っていた。何が違うかと言うと、とにかく私にはとても難しい。
 第1章の「会社は株主のものではない」は本当にそう思う。おっ、いいぞ、と思って第2章に入ると、「最も重要な事は論理では説明出来ない」と書かれており、「駄目だから駄目」も分かるのだが、論理ではなく、社会のルールが守れるのか、と言う事が具体的に分からない。
 なぜ人を殺してはいけないのか、は「駄目だから駄目」としか説明のしようが無いらしいのだが、でも、「なぜ人を殺してはいけないのか」と言う本が現実に売れている。

 あとまだ5章も残っているのだが、自信がなくなって来た。この本を多くの人々が喜んで読んだのに、どうして私には難しいのだろうと、悲しくなる。ただ、私には一つの疑問がある。同じくべトスセラーになったある2冊の本を読んだのだが、それは非常によく分かる。とんでもないと思われてしまいそうだが、言っている事がおかしいと言う事まで分かる。それなのに、誰もそうした事を言わない。

 つまり、これらのベストセラーは本当に読まれているのか、本当に心から理解しているのか、との疑問がある。別の2冊と言うのは、『問題な日本語』と『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』である。
 どちらも、私には幾つもの疑問がある。まず、その疑問点の一つを挙げる。どなたか、私の本の読み方が間違っているかどうかを判定してくれないだろうか。

 前者のトップにある「おビールをお持ちしました」は普通によく聞く言い方だから、我々はおかしいとは思わない。小さな居酒屋などでは「お持ちする」もへったくれもないが、座敷などが幾つかある料理屋などなら、当然の言い方である。
 しかし著者は尊敬するべき相手が居ないのに、こうした言い方はおかしいと言うのである。

 これに対して、「おカバンをお持ちします」と言うのは、例えば相手が先生なら、カバンは先生の持ち物で、だから尊敬して「おカバン」になり、謙譲の意味の「お持ちする」になるのだと説明する。
 これは納得出来る。我々もそうした使い方をしている。
 さて、おビールだが、この場合は尊敬すべき相手が居ないと著者は言う。だからおビールは誰の物でもなく、極端に言えば、運んで来た自分の物だと言うのである。自分の物だから「お」を付けるのは、自分を上品に見せるためで、これを美化語と呼ぶ、と言う。
 では、一体、何のために「おビールをお持ち」したのだろう。お持ちするもしないも無いではないか。そして自分のビールなら自分で飲みなさい。勘定は自分で払いなさい。
 もしこれが店だったら(店でなく、こんな言い方をする人が居たら、それこそ変だが)、その店は早晩潰れる。太鼓判を押す。

 この「おビール」は客が注文したビールである。だから「おビール」になる。店のビールだったのが、注文を受けた段階で、客のビールになったのである。自分のビールを「さあ、おビールを飲もうか」などと言う人が居たら気持悪い。
 客のためのビールを運んで来たのだから「お持ちしました」になる。

 学者って変でしょう?
 自分のビールを「おビール」と言う人が居てもいい。しかしそれは自分を上品に見せるためではない。我々は普通に「お茶を飲もう」などと言う。あまり「茶を飲もう」などとは言わない。それは自分を上品に見せるためではない。「お茶」と言うのが普通だからそう言うだけの話である。「おビール」と言う人は、我々の「お茶」と同じ感覚でそう言っているに過ぎない。それはその人の言葉に対する感覚の問題だから、はたからとやかく言う事でもない。

 もし、著者の言うように、自分を上品に見せるためだとするなら、誰も居ないのに、ちょっとおかしいんじゃない? と思われるだけだ。それともあの白雪姫に出て来る女王のように、毎日鏡に向かって「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」と問いかけずにはいられない心境なのだろう。

 こうした著者の考えには、当然に居るべき人が見えていない欠陥がある。それはほかにも波及する。著者は言う。この「お…する」は多くの人が謙譲語だと考えており、それに異論は無いが、「(私は会社を)お休みする」のような、行為が相手に及ばず謙譲にならない使い方もあり、美化語としか言いようが無い。

 会社を休むのが、相手に行為が及ばないのだと言う。とすると、この人は会社では居ても居なくてもいい人なんだ。休んでも会社に影響を与えないんだから、そうなる。社員が非常に大勢だから一人くらい休んでも影響は無い、とでも言うのだろうか。では、影響が出始めるのは、社員が何人からか。答えられまい。
 休んでも会社に影響を与えないなら、それは一人だけで成り立つ仕事である。休んだ分は残業をしたり休日出勤して穴埋めすれば済むような仕事しかあり得ない。
 しかしそれなら、この人は「私は会社をお休みする」などとは言わない。自分一人で完結する行為でそのような言い方はしない。
 例えば毎日の日課の散歩を休む。その場合、「散歩を休もう」とは思うだろうが、「散歩をお休みしよう」とは思わないはずだ。著者は自分の物について「私はおカバンを買いました」のように言う場合は美化語になる、と常識では考えられない説明をしているが、この「散歩をお休みする」も同じくおかしい。

 稽古事のように、休んでも他人に迷惑は掛からない場合でも、先生に対して無言では失礼になるから、「お休みします」と言うのである。休む行為は相手に及ぶのである。及ばないと考える著者の心の中では、本当に相手などどうでも良いのだろうと思ってしまう。
 面白い話はまだまだたくさんあるので、また別の機会に。そして次回は「さおだけ屋」の不思議について御意見をお聞きしたいと思っている。