夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

広辞苑の嘘・その2

2008年02月10日 | Weblog
 昨日、広辞苑の嘘とのタイトルで書いた。だが本当は「嘘」とは思っていない。単に曖昧だったり、いい加減だったりしているのだと思っている.在原行平の説話の舞台が芦屋ではなく須磨だったとしても、それは嘘と言うのとは少し違う。何しろ50年間も誰も文句を言わず、そのままの記述が通用していたのだ。問題ではない何よりの証拠と言える。
 須磨だと言うのが本当に重要なのは彼を研究している人達なのであって、それならきちんと原典に当たっているから、何も広辞苑で知識を得る必要は無い。一般人にとっては、その地が芦屋であろうと須磨であろうと、全く問題は無い。
 我々にとって重要なのはそのような断片的な知識ではなく、基本的な言葉に対する知識なのだ。例えば「善処」。これを広辞苑は「物事をうまく処置すること」と説明している。この「うまく」が非常に重要になる。普通には「上手に」だが、「巧妙に」でもある。新明解国語辞典は「政治家の用語としては、さし当たってはなんの処置もしないことの表現に用いられる」とまで言う。これが同書のユニークさなのだが、世間ではもっぱらこの意味で使われているはずだ。政治家だけには限らない。大企業だって、善処します、と言って何もしない事が多い。
 期待する側は「うまく」を自分達の希望に沿って、だと考える。しかし期待される側は、期待に沿っているように見せながら自分達に有利な事しか考えない。それを「うまく」と言っている場合がある。はい、うまく処置しましたよ、と言われても文句は言えないのである。
 こうした基本的な言葉の解釈が国語辞典の重要な問題だと私は考えている。そうした意味で、「広辞苑の嘘」ではなく、「広辞苑の曖昧さ、いい加減さ」なのだが、「……の嘘」のネーミングは絶妙で、非常にインパクトが強い。だから私も利用させてもらっている。
 ネーミングの強さでは最近にも良い例がある。「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」である。このタイトルに惹かれて150万人もの人々が同書を買い求めた。全員が読んだ訳でもなかろう。読めばおかしいと思う人がたくさん居るはずだが、そんな声は一向に聞こえて来ない。みなさん、素晴らしいタイトルだと絶賛している。
 しかし、同書の考え方ではさおだけ屋は成立しないのである。本業の金物屋が潰れれば、さおだけ屋はひとたまりもない。本業あってこその副業を、本業とは無関係に成立すると読者に思わせている。
 読者が自分の身に引き替えて考えてみれば、すぐに分かる。サラリーマンは本業を利用した副業は絶対に出来ないのだ。ばれれば、解雇される。退職金だって多分出ないだろう。それなのに、著者は副業を勧めている。本業や趣味に関係の無い副業をしたらストレスだけになると言って、本業に関係のある副業を勧めるのである。
 もし本業を利用した副業がばれて首になった、と訴えたら、著者は損害賠償をしなければならなくなるだろう。
 同書としては、150万人が読む必要は無いのである。150万人が買う事に意義があるのだ。それで立派に商売が成り立っている。悲しいですね。
 この本は、会計学が我々の生活に役に立つとの観点で書かれている。だから会計学を易しい例を挙げて身近な事で説明している。ところが、その例はすべて我々の生活には何の役にも立たない。もし、役に立ったと言う人がいたなら、是非ともその秘訣を教えて頂きたい。
 私は小さな吹かなくても飛んでしまいそうな会社を経営している。だから会計学には一応は馴染みがある。帳簿を付け、決算をし、貸借対照表と損益計算書を作り、税務申告をする。そのすべてを自分一人でやっている。従って、会計学のほんの端っこの方をかじっていると言って良いと思う。
 しかし、その私でも、同書の考え方にはどうにも付いて行けない。我々の生活とは本当に関係が無い事ばかりなのである。なぜなら、会計学とはすべてを金に換えて考えるやり方だ。そこには生の人間の感情など入る余地が無い。すべて勘定だけで考える方式なのである。同書の説明のほとんどを採り上げて、私は反論の原稿を書いた。説得力のある原稿だと自負している。
 話がそれているが、つまり、見せ掛けのタイトルで引きずられるのは危険だと言いたいのである。ただ、それを見せ掛けだと意識しているといないとでは天地雲泥の差がある。私は見せ掛けだときちんととらえて「広辞苑の嘘」と言っているつもりだ。
 例に挙げた「やわらかい」の説明のいい加減さをもう少し述べる。「かたい」の反対語であるこの言い方はこれ一つしか無い。つまり、それで用が足りている。餅がやわらかい、体がやわらかい、頭がやわらかい、話がやわらかい、と言って、誰もがその意味をきちんと理解出来ている。まさか頭がぐにゃぐにゃしてたこのようだ、などと思ってはいまい。
 意味がきちんと分かるからたった一つの「やわらかい」で通用する。それを何も二つの漢字で書き分ける必要は無い。二つの漢字で書き分けると、漢字に合った意味にしなければならない。だが、「やわらかい」の意味は二つとは言えない。もっとたくさんあると言えばあるし、一つだけだ、と言えば一つしか無い。そこに良い意味での意味の曖昧さがある。それをたった二つの漢字で表すのは無理な話なのである。
 漢字が「柔・軟」と二つあるから、その二つの顔を立てて無理に書き分けているに過ぎない。漢字その物の(中国語としての)意味と、現在のように日本語の表記文字になっている場合の意味とでは違いがあって当然である。何も文字に義理立てをする必要は無い。
 単に慣用に従っただけだからおかしな点が多々ある。その典型的なのが、反意語の「かたい」は三つの文字があって、意味に応じて書き分けていると称しているが、2=3が成り立たないのは小学生でも分かる。しかし専門家、それも日本語学者には分からない。
 そして慣用の曖昧さは次のように、広辞苑と大辞泉とで解釈が正反対になる事に明確に現れている。
・広辞苑
 硬い=物の状態や人の態度。
 堅い=人や物の性質。
・大辞泉
 硬い=物の性質。
 堅い=状態・ようす。
 どちらかが間違っているのではない。どちらも自分の考えが慣用だと信じているのである。慣用とはそれほど曖昧なのだ。そんな曖昧な説明をして何の足しになるのだろうか。
 広辞苑には申し訳ないが、まだ少しは、「広辞苑の嘘」のタイトルを使わせて頂く。罪滅ぼしと言ってはなんだが、明日は広辞苑の素晴らしさを、わずか一つだけだが是非御紹介したい。