夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

広辞苑の嘘は今に始まった事ではない

2008年02月09日 | Weblog
 広辞苑第6版が34万部も売れていると岩波の広告にある。決して安くはない大型国語辞典がこんなにも売れている。素晴らしいと同時にとても不思議に思う。そして「広辞苑の嘘」と言う本もまた売れているらしい。私は恥ずかしながら、そうした本が出ている事を知らなかった。それはともかく、本当にどうして広辞苑は売れているのだろう。
 一つには同書を権威づけに使っている人々がいる。「広辞苑がこう言っている」との論調である。特に裁判官は自分の判決で、ある言葉が重要な意味を持つ場合に、必ずと言えるほどに同書を引き、「広辞苑にあるように」と有利な材料に使う。
 一つには盲目的に同書を信頼している人々がいる。あるテレビ番組は「広辞苑」をもじって、芸人の紹介を「広人苑」と称してやっている。
 そんなにも広辞苑は正しく立派だろうか。私は3年前、『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で他の5冊の辞書と共に、同書のいい加減な説明を批判した。朝日新聞が書評欄で小さいながらも採り上げてくれたが、反応は鈍かった。
 そしてどこからも、お前の言う事は間違っているとの批判は聞こえては来なかった。
 国語辞典の意味の説明はそれぞれに個性があり、自由気ままな部分がある。言葉は一つの意味しか持っていないのではないから、それはそれで良いのだが、あまりにも辞書によって意味が違い過ぎる。
 多くの人が同時に何冊もの辞書を並べて調べている訳ではないから、気が付かないだけの話である。ある一つの言葉を選んで比較してみれば、一目瞭然である。どの辞書にも間違いがあったり、何冊もの辞書を総合して、やっと正解に近づける、と言うのが本当の所である。
 ただ、難しい言葉ではどうか、はまだ調べてはいない。なぜなら、難しい言葉の意味は私も分からないので、何とも言えないのだ。しかし易しい、基本的とも言えるような言葉なら多くの人々も分かっているし、私も分かっているつもりである。そこで、今度は7冊の辞書を使って、意識的に言葉を選び、比較検討を徹底的にやった。単行本一冊以上の量の原稿になったが、今はやりの売れ筋ではないので、なかなか本にはならない。
 辞書の曖昧な説明を何とか解釈しての事になるから、話は複雑で難しくなる。それほど辞書の説明は難しい。本当か、と思うなら、自分で何か一つ易しい言葉を選び、2冊とか3冊の辞書を使ってやってみれば分かるはずだ。
 例えば、広辞苑は「やわらかい」の説明で、次のように言う。
 「柔」は「剛」の、また、「軟」は「硬」の、それぞれ対語の意味で使われることが多い。
 同書の「対語」の意味は、一つは「大小」のような対比、「桃李」のような類似、「花鳥」のような接近、などの意味もあるが、一つは明確に「対義語に同じ」と言っている。その「対義語」は明確に「意味の上で互いに反対の関係にある語。反意語」と説明をしている。
 話が複雑になるが、同書はこの反対の意味の語として、「上下」を挙げている。
「対語」では「大小」は「対比」であった。「上下」と「大小」の違いは何だろう。
 結局、同書は「柔」は「剛」の反対語だと言っている。しかし現在、「剛」で表す「かたい」は存在しない。常用漢字ではないからだ。この「剛」の「かたさ」がどのような事か分からなければ、「柔」の「やわらかさ」もまた分からないのである。
 こんなごく単純で誰にでも分かるような事が、広辞苑は分かっていない。それで、権威付けに使われ、信頼されて使われている。
 国語辞典に「鰯の頭も信心から」は通用しない。