夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

割り箸事故・その2

2008年02月14日 | Weblog
 杏林病院の院長が「ご冥福をお祈りする」と話した、と毎日新聞は伝えている。前回の裁判では裁判長が、「本件の語るところを直視し、誰もが二度と悲惨な体験をすることがない糧とすることが隼三への供養となり、鎮魂となるものと考え、あえて付言した次第である」と述べた。

 本件の語るところ、とは幾つもある。
1 患者が危険な状態にあることを必死に訴え続けていたのに、医者はサインを見落とし、真摯な治療を受けさせる機会を奪った。
2 当直医は耳鼻咽喉の専門医で、臨床経験3年程度だったため、他科の専門医に相談する必要を感じなかった。
3 診療科目の豊富さだけでなく、他科との連携により相乗的な専門的治療行為を享受できるところに総合病院の存在意義がある。
4 被害者が遺したものは、「医師には真実の病態を発見する上で必要な情報の取得に努め、専門性にとらわれることなく、患者に適切な医療を受ける機会を提供することが求められている」というごく基本的なことなのである。
 
 こうした不備があったために、隼三君は延命処置を受けられなかった、とはっきり述べている。だから今後はこれを糧とせよ、と言っているのである。
 しかしこうした医療機関の基本的な事柄を守るのは極めて当然の事なのであって、守られていなかった事を本当は糾弾すべきだったのではないのか。
 当然の事をする事がどうして被害者の鎮魂となり、供養となるのか。

 この裁判長の発言は、朝日新聞は「異例の付言」と持ち上げ、供養になるとの発言にも賛同したが、巧妙な言い逃れだと私は思う。こんな事で供養になると思われたのでは、浮かばれない。
 それに「供養」とは何か。死者の冥福を祈る事、とほとんどの辞書が説明している。今までしていなかった当然の事をして、それが冥福を祈る事だと言う。とんでもない言い逃れである。冥福を祈る事は大変な事なのである。簡単に花を捧げたり、手を合わせたりで済む事ではない。

 さて、冥福とは何だろう。辞書は「死後の幸福」と小型辞典の4冊共に、全く同じ説明をしている。何とも能(脳)のない事よ。宗教的な言葉だから分からないのも無理はない。それにしては、我々は安易に「冥福を祈る」と言い過ぎる。冒頭に引用した院長もそうだ。
 そんな曖昧な言葉で済むんなら、警察も裁判所も要らないよ。

 この院長は「冥福を祈る」と言いながら、多分、何もしないであろう。そして我々は死者が幸福になっているかどうかを知る事が出来ない。幸福になった、つまり供養が出来た、と言っているのは宗教家だけである。
 残された者としては、供養にならなければ辛くてしょうがない。だから宗教家の言う事を信じるしかない。

 つまり、供養が必要なのは、本当は残されて生きている我々のためなのではないのか。自分の心の負担を軽くするために死者の供養をしているのではないのか。そんな事言ったって、それよりほかにしようが無いではないか。とおっしゃいますか?
 確かに。だから、安易に供養になるとか、鎮魂になる、冥福を祈る、などとは言わない事ですよ。安易な言葉一つで解決するなんて、とんでもない思い違いである。

 前回、私はこの裁判長と病院長の名前は忘れないと言った。そうしたら、友人からメールが来た。この二人は東大の卒業生だと言う。日本の根幹は東大閥が牛耳っているのだと言う。うーん。そのような事、私は考えた事も無かった。しかし、言われてみると、納得出来る。

 私は今、「騙されないためにホンネを探る」と題する本の原稿を書いている。ほとんど完成しているが、新聞にもテレビにも書籍にも、我々が騙されるホンネが隠されている。この世の中は想像以上に複雑で、まるで伏魔殿みたいだ。我々はお人好しで馬鹿だから、何でも簡単に納得してしまう。

 本当に、もうお人好しを続けるのはよしましょうよ。単に騙している側に喜ばれているだけではありませんか。