壁際椿事の「あるくみるきく」

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『日本語が亡びるとき』を読んだ(2)

2009年08月28日 | 読書
夏目漱石は、イギリスに留学経験もある、日本語と英語の二重言語者。その彼が大学教授の職を辞し、世界の「普遍語」である英語でなく、日本語で小説を書き始めた。時あたかも「現地語」でしかなかった日本語が、書くに値する「国語」に磨き上げられていった時代だった。

時代は下って21世紀。今、仮に漱石ほどの才能が生まれたとして、果たして彼は日本語で書くだろうか? そもそも日本語の同時代の小説を読むだろうか?

『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(水村美苗著、筑摩書房)を読みました。

著者の水村さんは、この仮定に「否」と答えます。「才能がある人ほど、日本語ではなく、英語で書くだろう」と言うのです。明治時代に、「現地語」から「国語」に昇華した日本語は、いままた、「現地語」になり下がった。いま日本で書かれている小説は<現地語小説>に過ぎないというのです。

現在の日本の小説家にとって、とても辛辣な意見です。そういえば、尊敬する先輩は、いま井伏鱒二を読み込んでいます。彼が『日本語が亡びるとき』を読み知り、現代の作家に失望しているとは思えません。本能的、反射的に、現代の小説を遠慮し、古い小説を求めているのだと思います。

水村さんは続けます。文学だけでなく、政治やビジネスを想定しているのでしょうが、今後、日本が世界で伍していくためには、二重言語者養成のエリート教育が必要と言い切ります。

「教育は最終的には時間とエネルギーの配分でしかない」(287ページ)。う~ん、すごく唯物的な見方。だからエリートを選別し、彼らだけにも英語で議論できるレベルになる教育を授けるべきだとするのですが、私は今ひとつ賛成しかねます。

まず選抜システムの問題があります。門閥や経済力でなく、多くの人が納得する公平な基準が必要でしょう。またエリートでなくとも重大な仕事はできます。ジョン万次郎やアメリカ彦蔵のように、武士でなく、正当な教育を受けなくとも、歴史上、重要な役回りを担った人の例は多々あります。

余談ですが、表現では「くり返すが」が多用されていました。くり返すが、著者の意見は、なかなか辛辣で、挑発的な意見ではありました。

そういえば、高校から英語圏への留学を案内する新聞広告をよく見かけます。ハイスクール卒後は、そのまま英語圏の一流大学への入学が想定されています。こうした留学制度の利用者は、東京大にも京都大にも、まして早稲田大や慶応大にも魅力を感じていないんでしょうね。これは、単なる学歴欲しさでなく、かつて日本が、唐や隋にエリートを送り出して文明を学んだような、文化的な大潮流なのかもしれません。

のんきに川柳なんぞ作っている場合でないのかもしれません。