別れは突然に、3月29日夜19時50分に母が長期入院している病院から、呼吸の状態が異常になっていますとの電話が入りました。直ぐに駆けつけると、担当医師が診ており、20時25分に亡くなりましたとの診断を受けました。言葉を交わすこともなく、眠るように母は桜の花が散るように逝ってしまいました。
振り返れば、いろんなことがあって18年前に父母に川崎山手の我が家に来て貰らい、かみさん中心の介護が始まりました。嫌なこと、辛かったこと、・・・たいへんだったこと、いろんなことがありました。父は10年前に92歳1ヶ月で逝き、母も92歳3ヶ月で逝ってしまいました。68年前のセピア色の家族写真(戦争で逝った二人は写っていません)、もう生き残っているのは兄と私の二人だけになりました。

川崎では近くの北部火葬場が改修中で火葬が6日になると言われて別れの時間が長くなりました。葬儀は質素な家族葬で、新しい家族が集まって、私達の菩提寺の高石山法雲寺でとり行いました。1日に納棺して、5日に通夜をして、6日に告別式・初七日そして火葬をしました。自分は何処からきて何処にいくのか、理解できる歳にもなっています。


春の天候が不順です。寺の参道ではちょうど桜の花が散っていました。家の庭ではいろんな花が咲き、もんしろちょうが飛んでいます。

振り返れば、いろんなことがあって18年前に父母に川崎山手の我が家に来て貰らい、かみさん中心の介護が始まりました。嫌なこと、辛かったこと、・・・たいへんだったこと、いろんなことがありました。父は10年前に92歳1ヶ月で逝き、母も92歳3ヶ月で逝ってしまいました。68年前のセピア色の家族写真(戦争で逝った二人は写っていません)、もう生き残っているのは兄と私の二人だけになりました。

川崎では近くの北部火葬場が改修中で火葬が6日になると言われて別れの時間が長くなりました。葬儀は質素な家族葬で、新しい家族が集まって、私達の菩提寺の高石山法雲寺でとり行いました。1日に納棺して、5日に通夜をして、6日に告別式・初七日そして火葬をしました。自分は何処からきて何処にいくのか、理解できる歳にもなっています。


春の天候が不順です。寺の参道ではちょうど桜の花が散っていました。家の庭ではいろんな花が咲き、もんしろちょうが飛んでいます。
