はぐれ雲のつれつ゛れ日記

還暦が過ぎ、そろそろ人生を振り返る歳、日々の出来事や思ったことを、思いつくままに・・・。

熊野古道(内宮~田丸)

2013-06-23 19:29:00 | 熊野古道ウオーク
熊野古道、伊勢路コースをスタートしたのは玉城町(田丸城址)からだった。
昔の道標に「くまのみち」とあるし熊野詣はここが起点だったのかも・・・?
しかし伊勢路コースは内宮までとなっている。
内宮~田丸間はまだ歩いてなかったので、昨日歩いてきた。

田丸城址内の役場に車を止め、JRで伊勢市駅まで行き、そこからバスで内宮までいった。バスはすでにぎゅうぎゅう詰めで外宮前で少し降りるがまた満員に・・・もう始発の宇治山田駅で満員になる。土曜日だったが伊勢神宮の人気はすごい。
内宮へは参拝せずに鳥居前から10時半スタートした。



おはらい町も抜けるとやっと人ごみも少なくなる。


猿田彦神社の横の「牛谷坂」を上り、古市へ・・




途中、「伊藤小坡(しょうは)美術館」に立ち寄り、約10分の紹介ビデオも見せてもらった。



=パンフレットより=
京都画壇の中心として活躍し、明治・大正・昭和を代表する女流日本画家。
明治10年(1877)に猿田彦神社宮司である宇治土公差貞幹の長女として生まれ、18歳で伊勢の磯部百鱗に入門。21歳で京都に出て森川曽文・谷口香嶠に師事し画業にいそしみ、昭和3年には上村松園と同じ竹内栖鳳の門下に。
高齢に至るまで画筆をとりつづけ、多くの名作を残しました。

長峯神社(天鈿女命(芸能の神様)を祀ってある)のところにあった神宮奉納白石


桜木地蔵

伊勢の山田奉行を勤めた大岡越前守忠相もこの地蔵を訪れ江戸町奉行に出世したという伝えから出世地蔵とも呼ばれている。
近年は武蔵川部屋の力士が毎年訪れることでも知られている。武蔵丸は幕下のころから毎年参拝して横綱になったことから出世地蔵の名が一段と増した。

今も営業している「麻吉旅館」




大林寺

左に見えるのは油屋おこんと孫福斎(まごふくいつき)の墓です。

油屋騒動=ウイキペディアより=

寛政8年5月4日夜、孫福斎が伊勢古市の油屋に立ち寄った。油屋は日本三大遊郭・古市の中でも特に大店で、部屋持ち遊女だけでも24人を数えたという。斎の相方(あいかた)になった遊女はお紺。しかし斎の座敷はおもしろくなかったのか、お紺は途中で呼ばれて他の客の部屋に移ってしまう。お紺に自分の席を去られた斎は、侮辱されたと感じて憤る。下男下女になんとかなだめられていったんは帰ろうとするが、玄関口で脇差を返されると、いきなり下女の一人に切りつけ、ついで下男にも切りかかった。狂乱状態に陥った斎はお紺を探して部屋に駆け戻り、目の前に現れた者を次々と切りつけた。

お紺はなんとか無事に逃げたが、結局死者2名、負傷者7名を出す大事件となった。逃げ切れないと覚った斎は、5月14日に自刃して果てた。

この事件は伊勢参りに来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したという。またこの事件を題材に歌舞伎『伊勢音頭恋寝刀』(通称『伊勢音頭』)が書かれて評判となった。同作は現在でも上演回数の多い演目となっている。


古市を下りたあたりの「起矢食堂」で伊勢うどんを食べる。ここはテーブルが4席しかない小さな店だがわりと有名です。水森かおりとAKB48(2名)の写真付きサイン色紙が飾ってあった。

小田の橋


外宮前


小西万金丹

「越中富山の反魂丹、鼻くそ丸めて萬金丹、それをのむ奴ァあんぽんたん」
江戸時代お伊勢参りの旅人に重宝された「伊勢の霊薬」として三百年間親しまれてきました。
現在は薬でなく、毎日の健康を維持する食品として幅広く親しまれています。 =小西萬金丹HPより=

今は欄干だけの「筋向橋(すじかいばし)」


神宮奉納花火大会準備が始まった度会橋付近


尾崎咢堂記念館にある全米桜の女王来訪記念樹2013年


最近の道標(ここで熊野道の表示が・・)


田丸に着きました。


ゴールの田丸城址


この後、多気の湯に行き万歩計をはずす。


熊野古道(伊勢路コース)もあと1日(志古~熊野本宮大社)を残すのみとなりました。


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