英語だと「天体としての月(moon)」と「暦としての月(month)」がありますが、日本語だとどちらも「月」ですね。ではmoonが存在しなかったら私たちはどんな暦を使うことになったのでしょう。「季節」で区切る? では、moonが2つ存在したら? 「大の月」と「小の月」の組み合わせの暦になって、そのかわり「週」がなくなる?
【ただいま読書中】『もし月が2つあったなら ──ありえたかもしれない地球への10の旅 Part2』ニール・F・カミンズ 著、 増田まもる 訳、 東京書籍、2010年、2100円(税別)
『もしも月がなかったなら』の“続編”です。本書でも著者は「科学とサイエンス・フィクションの境界線」を厳しく楽しくせめまくっています。
「月が2つあったら?」「太陽が2つあったら?」「反地球(地球の軌道の反対側(太陽に隠れるところ)に存在して同じ軌道を回っている惑星)があったら?」「地殻がもっと厚かったら?」「太陽がもっと小さかったら?」といったある意味“真っ当”な疑問のほかに「もしも地球が月だったら?」「地球が今から150億年後に生まれたら?」といったぶっ飛んだ設定もありますし、「もしも他の銀河が私たちの銀河に衝突したら?」というスケールの大きな疑問もあります。ただ最後のは、“現実”の話です。アンドロメダ星雲は将来私たちの天の川銀河に衝突しますから。ただし30億年後の話ですが。宇宙は膨張しているはずなのに、なんでわざわざ銀河どうしが衝突しますかねえ。で、その時私たちはどんなものを見ることになるか、のお話です。
初期条件を1つ変えるだけで、「現在の地球」「現在の宇宙」の姿が大きく変わると示されるのは、衝撃的であると同時に知的興奮を呼び起こします。「現在の地球」が「かくあるべし」と過去に決定されていたわけではない、ということもわかります。ということは「未来の地球」の姿についても、現在の私たちには何か決定できることがあるのかもしれません。
天国へ行くことを夢見る人は、つまりは「今の現実」を否定しています。そんな性向がもしも天国でも保存されていたら、その人はそのうち「天国からの脱出」も夢見るようになるのではないでしょうか。
【ただいま読書中】『パライソ・トラベル』ホルヘ・フランコ 著、 田村さと子 訳、 河出書房新社、2012年、2200円(税別)
自分の国の外に楽な生活を夢見て、コロンビア・メデジンからアメリカにやってきたカップル。女はレイナ(英語だとクイーン)。両眼の色が違う(「オッドアイ」と言うんでしたっけ?)魅力的な娘。彼女に“選ばれた”ラッキーボーイがマーロン。特に取り柄のない中流階級出身の少年は、“選ばれた”ことに舞い上がってしまいます。
レイナの夢は、アメリカで専門教育を受けキャリアを積むこと。コロンビアではそんなことは、金かコネか幸運がよほどないと無理なのです。しかしアメリカ入国には高いハードルがあります。金とコネとビザ、それと親の許し。しかしアメリカは「コロンビア人」と聞くだけで警戒の目を向け、ビザはなかなか手に入りません。
話はバラバラに進められます。ニューヨークにやっとたどり着いた二人がはぐれてしまった所から話は始まり、そこからの未来(マーロンがホームレスになり、英語を覚え、“聖母”に出会い、そして……)とそれまでの過去(二人がコロンビアで愛を育み、脱出ルートを探り、ついに非合法なルートを選択してそこでひどい目に遭い、そして……)とがシャッフルされて読者の前に示されるのです。
ホームレスからやっと生活を立て直してニューヨークでレイナを捜し回るマーロンは、レイナと一瞬の幻想的な出会いをします。どこかで見たことがある、と思ったら、今年の映画「君の名は。」にも出てきたシーンでした。マーロンは自分に一目惚れをしてくれた“奇跡”のような少女に向かって、自分がアメリカにたどり着いた道程を少しずつ語り始めます。
密入国を請け負う業者の導きにより、“旅行者”たちはコロンビアから迂回してメキシコに密入国します。途中で出会うのは、“旅行者”を侮辱し、少しでもお金をむしり取ろうとするハイエナ集団たちです。
現在の世界のあちこちで難民が自国を脱出していますが、その時運送を請け負う人たちやその周囲の人たちもまた、こういった“ハイエナ集団”なのでしょう。おっと、ハイエナは同族は苦しめないし、他の動物を殺すのは自然の摂理なのですから、こういった人間をハイエナ呼ばわりするのは、ハイエナに対して失礼でした。
レイナに呪縛されたままで、マーロンは新しい生活が始められません。傍から見たら、いくらでも目の前にチャンスが転がっているんですけどね。ただ、やっとのことでたどり着いたマイアミでレイナと出会えたとき、マーロンは自分の“祖国”が何であるかを理解します。きっとここから“マーロンの物語”が始まっていくのでしょう。
東北大震災のあと「絆」を口ずさむのがずいぶん流行りましたが、今の日本でそのことを覚えている人はどのくらいいるのでしょう?
【ただいま読書中】『無縁社会 “無縁死”三万二千人の衝撃』NHK「無縁社会プロジェクト」取材班 編著、 文藝春秋、2010年、1333円(税別)
官報には身元不明の死体を「行旅死亡人」として掲載しています。ただ、地方自治体ごとの扱いで全国統計がないため、実際にどのくらいの人が身元不明扱いで亡くなっているのかはわかりません。NHKの取材班は全国に問い合わせをし、1年間で3万2000人、という推定値を得ます。ではその現場はどうなっているのでしょう?
読んで見ると、官報の記載は実に素っ気ないものです。しかしそれには理由があります。官報の「1行(22文字)」あたり918円の料金がかかるので少しでも“節約”して情報を詰め込みたいのです。これ、ネット官報だったらもっと詳しく書き込めないでしょうか。
取材班は「個人」を追います。故郷を離れ、繋がりが切れ、都会でも新しい繋がりは作れず、最後に無縁死をした人の生涯を追いながら、スタッフは「この人は“普通の人”だった」「これは一歩間違えたら自分の人生だったかもしれない」と思います。取材の旅は、いつしか弔いの旅になります。
火葬をするだけで儀式を一切省いた「直葬」が増えているそうです。本書出版時に東京ではお葬式の3割が直葬でした。金銭的な理由もありますが、意外なのは「長寿化」が原因の一つとしてあげられていることです。長生きすればするほど、知人は減っていきます。つまり「緣」が薄くなっていく。そこで無理をして人を集めて葬儀をする必要はない、という考え方があるのです。
さらに、身元がわかっている遺体を遺族が引き取り拒否をするケースが多いこともわかります。こちらの要因は「少子化」「単身化」「未婚化」です。
疾走した人の部屋を「特殊清掃業者」が清掃しようとして発見したのは、その人の両親の遺骨でした。業者はそれを「陶器一個」と記載して宅配便で「寺」に届けます。取材班は遺骨を追い、富山県のお寺にたどり着きます。引き取らなければ遺骨は「廃棄物」扱いされてしまいます。それは忍びない、ということで、届けられた遺骨を1週間安置して毎朝お経を上げて供養をし、その後納骨堂へ納めています。「生き場所がなかった骨」を見ながら住職は「この人は、もしかしたら生きている間から社会の人間関係から切り離されていたんじゃないか」と語ります。
順風満帆の企業戦士だった人が、退職した途端社会とのほぼすべての繋がりが切れてしまった例も紹介されます。ただその人の姿が放映されたあと、いろんな人から連絡があり、消えていた絆が少し復活していった、と聞くと、ちょっとほっとします。
「疑似家族」のNPOもあります。何かあったときに、会員には家族の代わりに、入院の保証人・金銭管理・様々な届け・葬儀などの世話をしてくれるNPOです。今そこに多く参加しているのが「おひとりさま」の女性たち。ただ、取材は難航します。話はしても良いけれどテレビに出るのは嫌、という女性ばかりだったのです。
お墓は「無縁墓」になるのだろう、と思っていたら、「共同墓」というものが登場しました。家族ではなくて他人同士が一緒にはいるお墓です。生きているときは孤独でも、死んだあとは誰かと一緒、というわけです。
ビートルズの「エリナー・リグビー」のサビの歌詞は「孤独な人びとはどこから来るのだろう。孤独な人びとはどこに身を置くのだろう」だそうです。
……では、どうすれば?
「色が白いは七難隠す」と俗に言いますが、色白の人が、あるいは色白ではない人が白粉をはたいたあと、頬紅をさすのは、一体いくつ目の「難」を隠しているのでしょう?
【ただいま読書中】『化粧の日本史 ──美意識の移りかわり』山村博美 著、 吉川弘文館、2016年、1700円(税別)
日本の伝統的な化粧の「基本色」は「白(白粉)」「赤(口紅、頬紅)」「黒(お歯黒、眉化粧)」でした。『古事記』には「顔面の入れ墨」が登場してこれはおそらく色は黒ですが、本書では「顔のメイク」に入れ墨は入れてもらえないようです。『魏志倭人伝』には、「倭人が(中国の白粉のような感じで)身体に朱丹(しゆ)を塗る」とあります。5〜6世紀の埴輪には、顔面に赤い彩色が施されたものがあります。つまり「赤」が最初。次に登場するのが「黒」です。平安時代には婦人用のお歯黒のための道具がありました。ただし普及度はわかりません。眉化粧(眉を黒く描く)は奈良時代には行われていたようです。「白」は持統天皇の時代。持統天皇に「鉛粉(鉛白粉)」を元興寺の僧が献上して褒められています。鉛白粉は後漢(紀元後25〜220)ですでに使われていて、その製造技術がもたらされたのでしょう。
『源氏物語』では、紫の上が10歳の頃に、眉化粧(毛を抜き黒く描く)とお歯黒をするシーンがありますが、当時の貴族ではこのくらいの年から女性は化粧を始めるのが“常識”だったのでしょう(『堤中納言物語』の「虫愛ずる姫」は「自然の眉」と「白い歯」を周囲から非難されています)。
平安末期には、男の公家も女を真似て、眉を抜く・お歯黒・白粉・頬紅などの化粧をするようになり、それを政権についた平家も真似するようになりました。室町幕府では将軍家がお歯黒をつけ、それを豊臣秀吉も真似しています(小田原攻めの時にお歯黒をつけました)。ここで化粧は「権威の象徴」になっています。薩摩島津氏や小田原北条氏では「忠誠の証し(色は変わらない)」としてのお歯黒が広く行われました。江戸時代には「男の化粧」は公家にだけ保存され、化粧は「女性のもの」とされました。日本特有なのが「黒の化粧」です。江戸時代の庶民の女性は、「歯が白く眉がある」は未婚、「お歯黒をしている」は既婚、「眉を剃っている」は「子持ち」でした(ただし婚期に遅れた女性は未婚でもお歯黒をしました)。男も丁髷の形で社会的身分を明示していましたが、女は化粧で示していたわけです。厚化粧は下品とされましたが、薄化粧をするのは「女の義務」でした。これは、中世〜17世紀のヨーロッパで化粧が「虚栄の罪」としてキリスト教会に否定されていたのと対照的な文化的態度です。
白粉の原料は、はじめは水銀でした。塩化第一水銀は白色の粉末です。「伊勢白粉」が知られていましたが、17世紀に丹生の鉱脈は掘り尽くされ、中国からの高価な輸入水銀か、安い鉛白粉が用いられるようになりました(もちろん安い方が普及します)。「美白」のためのスキンケアも様々行われました。しかし、当時は疱瘡(天然痘)のあばた、梅毒の瘡(かさ)、様々な皮膚病、鉛の毒性、などが肌を荒らしていました。
紅花の花粉は、3世紀の遺跡からも出土していて、日本では昔から栽培されていたようです。万葉集では「末摘花」「呉礼奈為(くれない)」と呼ばれました。江戸時代には山形の最上川流域が最大産地で、そこから京に運ばれて紅に加工されました。唇だけではなくて、頬や爪にも塗られていたそうです。文化文政の頃には笹色紅が江戸と上方で流行しました。紅を厚く塗ると緑色の玉虫色になるのですが、下唇だけ緑色にする、という化粧です。金と同じ価値と言われる紅を贅沢に使用する、という心意気もあったのかもしれませんが、庶民は「薄く墨を塗ってから薄く紅を重ねると玉虫色に」という節約術を発見していました。なお、天保の改革の奢侈禁止令でみんな薄化粧に戻っています。
お歯黒については地域差がありますが、子供ができたら眉を剃る、は日本共通でした。ただ、上流階級の女性はそのあとに「置き眉」をそれぞれの家の決まりで描きますが、庶民は剃りっぱなし。ただし浮世絵では「眉を描かないと老けて見えるので、30歳未満は絵に眉を描く」というルールがあったそうです。「美人画」ですからねえ。
明治になり、「江戸時代の化粧」は全否定されます。近代的な化粧品が「工業製品」として製造されるようになり、「美しい目」は「伏し目がちで切れ長の目」から「ぱっちりした目」に変わりました。しかしお歯黒の習慣は明治半ばまでずっと廃れなかったようです。白粉では無鉛白粉が開発されました。開発者の茂木兄弟は白粉だけでは販売量が少ないため、塗料も開発して販売する光明社を作りました。これがのちの業界大手の日本ペイントだそうです。また「肉色(肌色)の白粉」というものも販売されました。大正時代には資生堂が「七色白粉」を発売しています。
明治末期には「美顔術」が流行します。洗顔・マッサージ・化粧のコースで大人気だったそうです。女性雑誌も続々出版され、化粧法などの情報を全国の読者に届けました。大正には女性の社会進出が進み、「働く女性の化粧」が登場します。さらに「モダンガール」が登場。大正末期に銀座で行われた調査では、洋装率が男性は67%・女性は1%! そんな時代に断髪・洋装の「モダンガール」をするのは、相当勇気が必要だったことでしょう。
戦争で衰えた「お化粧」は、戦後に「アメリカンスタイル」で復活します。昭和30年代は「カラー時代」でした。映画・テレビがカラー化し、雑誌のカラーグラビアが増え、お化粧も当然のように「カラー化」していったのです。そこで注目されたのはアイメイクでした。先鋭的な女性は派手なアイメイクに挑戦します。それが大衆化したのが昭和40年代。ツイッギーはミニスカートで有名ですが、彼女の派手なアイメイクにも日本の女性は注目し、真似をしました。いかにも「作りました」と言った感じのメイクに反発も大きかったようです。ところが昭和の末頃には「ナチュラルメイク」が流行、さらには「ナチュラルな太眉」まで登場します。「小麦色の肌」は昭和40年代に人気となりましたが、昭和末期には「UVカット」が流行となります。また「美白の時代」になったのです。
化粧の流行って、実は似たような所をぐるぐる回っているものなのかもしれません。ただ、化粧が「個人のもの」だけではなくて「社会のもの」だったと証拠付きで示されたのは、新鮮でした。
この前テレビにインタビューを受けている人の上半身が写っていたのですが、顎の脇のちょっと下がったところにひげが一本そり残されていてひょんと突っ立っているのがはっきり見えました。昔の走査線のテレビの時代にはきっと「毛が一本」くらいは写らなかったでしょうに、今はそういったものまで写ってしまうわけです。
私は自分の顎をなで回しながら、自分がテレビに映されるような人間ではないこと、を感謝しました。
【ただいま読書中】『パーフェクト・ストーム』セバスチャン・ユンガー 著、 佐宗鈴夫 訳、 集英社、1999年、1900円(税別)
1991年マサチューセッツ州グロスター。漁民たちは「極端な生活」をしていました。1箇月の漁から無事帰港したら1週間飲んだくれ散財し続け、二日酔いの体でふらふらしながら次の漁に出かけるのです。「人生設計」を持っている者はほとんどいませんでした。メカジキ漁船アンドレア・ゲイル号(乗組員は総勢6人)もそういった乗組員を乗せて出港しました。船を見送る人たちは、自分たちが1箇月後に、帰港歓迎パーティーに出るのかあるいは追悼式に出るのかはわかりませんでした。
漁場に着くと、乗組員には20日間ぶっ続けの20時間労働が待っていました。うまくいけば、1日に1トンの漁獲があります。うまくいかなかったら……操業日数が伸びます。アンドレア・ゲイル号も不漁に悩みます。しかし漁期は終盤、悪天候が待っていました。さらに、大型のハリケーンが近づいてきます。沖に出すぎていたら、港に逃げ込むことは困難です。さらに沿岸救助隊の手も届きません。北大西洋は、強風と史上まれに見る高波とに揉まれることになりました。
暴風下の波のエネルギーは、風速の4乗に比例して上昇します。位置エネルギーと運動エネルギーはすべて水の動きに変換され、船をもみくちゃにするのです。その中には日本の永伸丸も含まれていました。あんなところまで日本船が魚を捕りに行っているんですね。
本書では、基本的に「事実」「証言」をベースにしているため、“その時”アンドレア・ゲイル号に何が起きたのかを“再現”することはできません。ただ、改修で重心がやや高くなっていたため、復元力が悪くなっていただろうことは客観的に言えます。海軍が行った実験で、船体の長さより波高の方が大きければ、砕け波1回で船は転覆します(傾斜度45度の波を登ろうとして登り切れずにずるずると船が海面を滑り落ちて波窪に船尾が突っ込み船首には波頭がぶつかってひっくり返されます)。船幅より大きな波が連続的に襲ってきても船は転覆します。アンドレア・ゲイル号の船幅は20フィートですが、時化の状態は悪化していて波の大きさはそれより大きくなっていました。
映画では、ハリケーンの中を発信する救難隊のヘリコプターとか、信じられないくらい高い波とかが描かれていましたが、本書によるとほとんど現実のものようです。気象的に信じられない(パーフェクトな)嵐の中に放り込まれた人びととそれを遠くから案じるしかなかった人びとの物語です。
この前たまたまお役所で「本籍地は?」と聞かれるチャンスがありました。昔だったら運転免許に書いてあったのですが、現在は「そんなの不要な情報」ということでしょうか、表面からは見えないようになっています。幸い従兄弟が現在もそこに住んでいて携帯電話の住所録に住所を入れてあったので答えることができましたが、現代日本で「本籍地」って、一体どんな機能的意味を持っているんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『旗本夫人が見た江戸のたそがれ ──井関隆子のエスプリ日記』深沢秋男 著、 文藝春秋、2007年、730円(税別)
鹿島神宮大宮司家六十七代・鹿島則文は天保十年(1839)生まれ、尊皇思想に感化され幕府に八丈島に流されましたが明治になって帰国、明治十七年には伊勢神宮の大宮司に抜擢されています。蔵書家として名高く、貴重書が多い彼の蔵書は「桜山文庫」として今に伝えられています。その中に、古書籍商から購入された一冊の「日記」が含まれていました。
書いたのは、旗本庄田家の四女、隆子(天明五年(1785)生まれ)。二十歳頃結婚しましたがすぐに離婚。それから学問三昧の生活だったようですが、文化十一年(1814)頃三十歳頃に再婚。井関隆子となります。日記は天保十一年(1840)から始まっています。この時夫はすでに亡く、息子の親経が広敷用人(広敷は「中奥(将軍の日常生活の場)」と「大奥」を連絡する部署。親経は将軍家斉の正妻松の殿の掛)、孫の親賢は家慶の小納戸、という役職にあり、家計の実権は息子の嫁に任せての悠々自適の生活だったようです。血縁ではありませんが、息子と孫は下城すると、酒好きの隆子に酒の肴として城内での事々を細かに語りました。それを隆子は、自らの批判精神を通してから日記に書き記しています。また、江戸の年中行事も最初の年の日記には細かく記録されています(2年目からは省略されました。ここにも隆子の合理精神を見ることができます)。
日記の開始は、天保の改革とほぼ同じ時期です。そのため、月見の宴を質素にするべきか、という議論が家内に登場します。もちろん旗本ですから、改革に異を唱えてはいけません。しかし、伝統(と楽しみ)は守りたい。そのため人びとはいろんな努力をして改革の“骨抜き”をします。
両国の花火大会のことも細かく書かれていますが、この当時、佃島でも花火大会があったそうです。両国は玉家と鍵屋ですが、佃島は、砲術関係の人が公儀の許可を得て「試験」として日中から夜まで盛大に花火を打ちあげていました。隆子の家(九段坂下の飯田町)でも皆が屋根に上って見物しています。けっこう距離があるはずですが、町の“背”が低かったんですね。
「人違いの心中事件」についても隆子は詳しく記録しています。旗本同士の結婚話で、ある若侍に一目惚れした娘にその家から縁談が来て、喜んで承知したらその若侍は弟の方で、縁談の相手は兄。承知した以上夫婦として過ごすがやがて恋心が弟の方にも知れ、弟も兄嫁を憎からず思うようになったことが周囲に知れ、とうとう二人は心中(当時の公式用語では相対死)を決行した、という事件です。ここで隆子は二人の心情にまで踏み込んで書いている、ということは、二人に同情していたということなんでしょうね。
落語の「品川心中」そっくりの筋立ての話も登場します。ただし男の方は町人ではなくて参勤交代で江戸に出てきた田舎武士です。もしかしたら「品川心中」の素材になった実話なのかもしれません。
政治の話もあります。何しろ江戸城内から“新鮮な素材(それも将軍に近い筋からのもの)”が毎日目の前にやって来るのですから、知性を持った人がそれを無駄にするわけがありません。天保十一年の「三方所替」事件では、隆子は「下々には節約を命じながら、水野忠邦は自分の所領は増やしているし、規制されている賄賂も自分は受け取っている」と批判的に述べています。そしてこの無理な施策は幕府の統治力の低下を示しているのではないか、と見ているようです。
天保の改革末期に登場した「上知令(江戸、京都、大阪で城に近い十里四方の土地を幕府直轄領とする政策)」についても隆子は旗本たちがどのように受け止めたのかを正確に記録しています。さらに「もともと領地を取り上げるのは、古来、刑罰だった。だから罪のない人たちは上知令を拒否的に見ている」という分析をしています。旗本たちだけではなくて城の近くに領地を持つ外様大名までもが異議を申し立て、結局幕府は上知令を発して三箇月で撤回します。その時の幕府内での事情を隆子は細かく記録しています。誰が文句を言い、誰が解任され、誰が病と称して引きこもった、とか。なかなかリアルな記録です。
十一代将軍家斉は五十年の治世で一度も日光に参りませんでしたが、十二代家慶は天保十四年に盛大に日光参詣を行いました。これは徳川軍団の一大デモンストレーションですから、隆子も詳しく記録します。驚くのは準備の荷物に「仮葬儀の道具」が大量にあったこと。参詣の道中でたくさん死者が出ることを想定していたのです。滅多に見られない大イベントですから、町人までもが予行演習の段階から大騒ぎです。幕府には「天保の改革」の中で行う参詣には、政治的な意味がありました。しかし隆子は、水野忠邦を(ということは天保の改革自体を)厳しく批判しています。
奥の情報も入ってきますが、その中で目を引くのが将軍家斉の命日です。世間には天保十二年閏一月晦日、と公表されましたが、実は閏一月七日だった、と隆子の日記に記述されているのです。重大な“国家機密”ではありませんか?
宗教に関しても隆子の舌鋒は鋭いままです。将軍家慶がひいきにしたため、江戸では日蓮宗が大流行しました。将軍の覚えが良くなる、という現世的事情がベースにあります。しかし、現世利益によって宗教が流行するのは良いのか?というのが隆子のスタンスです。私はこの意見に共感します。
天保十五年の江戸城本丸炎上も当然日記にありますが、非常に具体的で臨場感に満ちたものです。しかし「大奥では『火事だ』と言ってはならない」という禁令があったため、火事に気づいた女房たちは騒ぐだけで「火事」という情報が行き渡らなかったし、女性を隔離するために門が厳重に閉じられていたため犠牲者が多く出た、救いに入った武士たち(隆子の息子がその先頭でした)も初めて入った場所で地理不案内な上迷路のように仕切られていてすんなり救助活動ができなかった、と問題点を列挙し、改善策を挙げています(これは息子を通して城内に伝えられたはずです)。
隆子は「自分の日記は、今の時代には意味がないが、数百年後には貴重な記録になる」と意識していました。時代を超えた知性の持ち主だったようです。現在私がそれに匹敵するものを書けるかどうか、勝負する前から負けているような気もしますが、まだこれからいくらか頑張ることはできますよね。
水中を泳ぐ魚は、自分が濡れていることに気づいているでしょうか?
空気中に生きている私たちは空気に関して(風が吹かないかぎり)無感覚ですから、それと同様に魚は「水」を認識していないかもしれません。
【ただいま読書中】『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女(下)』ダヴィド・ラーゲルクランツ 著、 ヘレンハルメ美穂・羽根由 訳、 早川書房、2015年、1500円(税別)
事件の鍵となる自閉症の少年アウグストの命が狙われます。きわどいところでリスベットが彼の命を救うところに成功しますが、かわりに彼女が撃たれます。それでも、情報がダダ漏れの警察を信用せず、リスベットはアウグストを隠れ家に匿います。
ここで奇妙なことが起きます。世界から拒絶されているリスベットと自閉症のアウグストの“ウマ”が合ったのです。二人は不思議な“会話”を交わします。数字を使って巨大な数を素因数分解する、という“会話”です。
リスベットにハッキングされたNSAからは、防諜責任者のエドが「犯人の金玉を潰してやる」と勢い込んでスウェーデンにやって来ます。そこで、リスベットが使うハンドル「ワスプ」の意味が解き明かされます。さらに、なぜリスベットが「女を憎む男を憎む女」になったのかも。いやあ、ここを読むだけで、「ミレニアム」を読んだ、という気にさせられます。
さらに、この事件の奥底には、リスベットの悲しい「過去」が潜んでいました。リスベットは自分の命を賭けて自分の過去と対決しなければならないのです。
「シリーズ」ということは、中心人物は“温存”される(善玉の中心人物は殺されない)、という安心感を持ってしまいそうですが、本シリーズではそこまで安易に“安心”をしてよいのかどうかはわかりません。ともかく、“原作者”を継ぐ人が難業を引き受けてくれたことに、読者としては感謝です。
1)自他共に優秀だと認めている
2)自己評価は低いが他人は優秀だと認めている
3)自他共に優秀ではないと認めている
4)自己評価は高いが他人は優秀ではないと認めている
【ただいま読書中】『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女(上)』ダヴィド・ラーゲルクランツ 著、 ヘレンハルメ美穂・羽根由 訳、 早川書房、2015年、1500円(税別)
「ミレニアム」シリーズの「1」〜「3」は、スリリングな展開で慎ましやかだがタブー抜きにセクシャルでフェミニズムの香りが漂うスタイリッシュで骨太な冒険小説でした。しかし作者のスティーグ・ラーソンは心臓発作で急死。ラーソンはミレニアムの10部までの構想を持っていて第4部の構想の一部がパソコンに残っていたそうですが、出版社はそれとは無関係に「ミレニアム」シリーズを新しい作家で継続することを決定しました。さて、元のシリーズのテイストが引き継がれているかどうか、不安を感じつつ私はページを開きます。
まずは自閉症の少年アウグスト(とそのダメ父フランス)が登場。レギュラーメンバーのミカエルの登場は第2章まで待たなくてはなりません。
ミカエルは不遇です。大きなネタに恵まれず雑誌「ミレニアム」は売れなくなり、SNSでミカエルに対する個人攻撃が高まっています。「ミレニアム」は、評判の悪い出資者からの出資を受け入れざるを得なくなり、編集方針が変更されようとしています。しかし、ミカエルは“意欲”を欠いています。戦う意欲、不正を追及する意欲、生きる意欲……
フランスは、人工知能の世界的権威でした。ところがその仕事がハッキングされ、それを調査したのがどうやら天才ハッカーのリスベットらしい、と知り、彼女と因縁のあるミカエルは動き始めます。ほぼ同じ頃、アメリカNSAのシステムが侵入を許してしまいます。アウグストは描画の才能を開花させます。
社会の暗部がじわりと登場人物たちの回りにしみ出てきます。そのサスペンスの中で「人工知能」「自閉症」などの“重たいテーマ”が展開されます。ああ、著者がかわっても、本書は『ミレニアム』です。
フランスは決断が遅れに遅れ、そのために息子とミカエルの目の前で射殺されてしまいます。危うく殺されかけたミカエルは、フランスとも繋がりを持つリスベットに救いを求めます。一体この世界で何が起きているんだ?と。
今回のトランプさんの当選は、大げさになるかもしれませんが、「革命」の一種ではないか、と私は感じています。格差社会の「下の人びと」が「現在の政治システム」に「ノー」を突きつけた、と。少し前のイギリスのEU離脱も同じジャンルの出来ごとに分類可能でしょう。
となると、日本でも近いうちに同じようなことが発生する可能性が大です。格差拡大は日本でも着々と進行中ですから。その時「革命の主導者」がまともな人だったら良いんですけどね。
【ただいま読書中】『明と暗のノモンハン戦史』泰郁彦 著、 PHP研究所、2014年、2800円(税別)
日本側の史料だけではなくて、最近公開された旧ソ連の一次史料やモンゴルの史料を突きあわせることで「ノモンハン」について新しい光を当てようとする本です。
満州国とモンゴルの「国境」は、実は不明確でした。著者は18種類もの地図を探し出していますが、そこでの国境線は大体「ハルハ河」と「ハルハ河の東側」の2種類に大別できます。で、日本側は「ハルハ河」、ソ連は「ハルハ河の東側」と思っていたので、お互いに「相手が国境侵犯をした」と認識してしまいました。
「国境線の論争では、自分に有利な地図だけを提出する」「国境紛争では、相手が先に仕掛けたと主張するのが常則」……ですから、双方の主張だけを見ていては大したことはわかりません。それでも資料を精細に読み込むことで、「謎」の奥に迫ることができます。
1939年「国境地帯」では小規模な紛争が頻発していました。ただし警察レベルです。そこに、「ちょっと懲らしめてやれ」とばかりの軽い気持ちで日本の関東軍がちょっかいを出します。それにソ連軍が反応。第一次ノモンハン事件の勃発です。戦車・装甲車を含むソ連軍・モンゴル軍2300人に対して、ほぼ同数の日本軍の主力は騎兵隊でした。日露戦争の気分ですか? 戦闘を総括した辻参謀は「一勝一敗」と評しましたが、著者によると「一勝が何を指すのかは不明」だそうです。戦闘終了後に敵軍の妨害を受けずに遺体の回収には成功したことが「勝ち」だったのかもしれません。
ソ連軍のジューコフ司令官は、スターリンににらまれて粛清の危機にありましたが、危地から脱するために「勝利」が必要でした。そのために現場に対して非常に辛口の評価を行い、さらなる準備を整えます。
「一勝」したと考えて油断している日本軍と、厳しい態度で準備を重ねるソ連軍。第二次ノモンハン事件の“準備”は整いました。
関東軍は強気でした。大本営は硬軟の間を揺れ動きます。その“すれ違い”を上手くいかし、関東軍は着々と、タムスク爆撃やハルハ渡河を実行しました。タムスク爆撃は日本側の大勝利、と発表されましたが、最近判明したソ連側の記録では、そこまでの“ワンサイドゲーム”ではなかったようです(日本側の発表では敵機撃墜は98機だが、ソ連側の記録では17機。搭乗員の犠牲は日本が7人、ソ連が9人)。
関東軍の読みは、ソ連軍は脆弱で装備は貧弱、戦えば「牛刀で鶏を裂く」ように大勝利、のはずでした。しかし、ハルハ河の西岸では戦車と装甲車がどっさり待ちかまえ(日本軍は戦車の渡河ができませんでした)、日本の戦車軍団が使えた東岸では、鉄条網のピアノ線にキャタピラが絡め取られて立ち往生、十数両が狙い撃ちで炎上してしまいます(「ピアノ線の悪夢」と伝えられているそうです)。装甲の厚みも違い、日本軍は火炎瓶で戦車に対抗しました(当時のソ連製の戦車はガソリンエンジンで、火炎瓶の炎を吸い込むと破壊することができたのです)。これはノモンハンでの貴重な「戦勝シーン」でした。実際には37ミリ速射砲の方が対戦車の破壊力は強く命中率が高かったのですが、弾が足りなくて、2分間速射したら弾切れになっていました(大本営との不和が原因となって、補給はほとんどありませんでした)。
その後、日本軍得意の夜襲を繰り返しますが、犠牲が増えるだけ。陣地にこもっての砲撃戦に移行しますが、弾着観測も無しに「予定数」を撃ったらそこで終了。何をやってるんだろう?と軍事の素人は訝しく思います。砲撃戦は「自分が何発撃つか」ではなくて「敵にどのくらいの損害を与えるか」でしょ? ジューコフは「日本軍は空き地ばかり撃っていた」と笑っています。そして8月20日、ジューコフの大攻勢が始まり日本軍は壊滅的な損害を受けてしまいます。しかしソ連軍は自らの「国境線」で停止。おかげで日本軍の生還者の数は増えました(もっとも「無断撤退」としてその後処罰されるのですが)。
関東軍は「負けてはいない。次に戦えば勝つ」と言い続けました。そのため「攻勢」の姿勢をノモンハン“以後”も取り続けます。しかしソ連は「防御」の姿勢で、強固な陣地を構築していました。ポーランド進駐やフィンランド侵攻のために、あまり東で長期戦をしたくはなかったようです。それぞれ腹に一物ある外交交渉で、とうとう現状維持での「国境線」が確定します。
日本国内では「地上戦では相当の犠牲が出たらしいが、航空戦では圧倒的な勝利だった」というのが共通認識でした。率直な感想が表に出るようになったのは、なんと1980年代以降。たとえば全期間を戦った滝山中尉は「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は苦戦」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と1999年に語っています。まず戦闘思想が違います。日本軍は航空戦(航空機同士の空中格闘戦)を重視していましたが、ソ連軍は地上直協作戦(空軍が地上部隊を支援)を重視していました。だからでしょう、初期は日本軍の圧勝です。しかしそれは地上戦にはなんの影響もありませんでした(航空機と地上を無線で結ぶ発想さえなかったのです)。ソ連は、偵察機や対地攻撃を巧みに応用し、それを見て不平を漏らす日本軍将兵もいました。さらに、火炎瓶攻撃を見て戦車をすぐに改良した柔軟な姿勢を、ソ連は「空」でも見せます。初期の航空戦から教訓を得て、パイロットの再訓練と九七戦への対抗戦術の研究と新機種の投入を始めたのです。対して日本の第二飛行集団(後半は航空兵団)は、最初から最後まで、同じ機種・同じ装備・同じ戦術で戦い続けました。そして、常に数的優位を持つソ連軍を相手に、消耗戦へと引き込まれてしまったのです。ノモンハン航空戦の日ソ比較表がありますが、私に非常に印象的なのは、損失機数は1:2で日本が“優勢”なのに、(自国が認めた)戦死者数はほぼ同数であることです。撃墜されたパイロットの“再利用”をソ連はしていた、ということでしょう。
「ソ連」の時代、ノモンハンの戦死者数は日本の半数以下とされていました。ところが共産党政権が崩壊して情報が公開されるようになると、公式戦史の戦死者数はどんどん増えて、日本軍の死者とそれほど変わらなくなりました。つまり日ソは空と地上のどちらでも大損害を受けたわけです。ただ、係争地の争奪戦としてみたら、ノモンハンはソ連の“勝利”ということにはなりそうです。
敗戦責任は、関東軍の上層部ではなくて、現場の指揮官たちに負わされました。自決の強要が何人にも行われ、男爵が華族の礼遇を停止されて予備役に編入された例もあります。捕虜交換で帰還した人たちは「犯罪者」として扱われ、自殺勧告をされて自殺をした人も(はっきりわかっているだけで)最低二人はいます。そういえばスターリンも捕虜になった兵士はその家族もろとも反逆者扱いをしていましたが、日本軍も似た発想を持っていたようです。本当の責任は、無謀な作戦を立てた参謀たちやその作戦を採用して大本営や天皇の意向を無視して暴走した人たちにあると私には思えるのですが。
一昨日の新聞の広告欄に月刊の文芸雑誌の広告が並んでいました。たしか芥川賞や直木賞は5月と11月で半年を区切るから、今月発売の雑誌に掲載されたものまでは来年早々に発表される芥川賞や直木賞の対象として扱われることになるはずです。だから、いわば「駆け込み」で間に合った作品もこの中にあるのだろうな、と私は広告を眺めていました。
ただ、こういった雑誌以外の媒体(たとえば昔だったら同人誌など、今だったらネット)に発表された作品は受賞の対象にならないのでしょうか。メジャーじゃないから、駄目? だけど、文芸雑誌ってどのくらい“メジャー”です? 非常に限られた読者しか持っていないのではないか、と私には思えるのですが。
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受ける時代です。ネットに発表された小説(あるいは小説でさえない作品)が芥川賞や直木賞を授賞する、なんてことが起きないですかねえ。それは21世紀のブンガクにふさわしいイベントのように私には思えます。
【ただいま読書中】『おいしさの人類史』ジョン・マッケイド 著、 中里京子 訳、 河出書房新社、2016年、2400円(税別)
かつて地球で一世を風靡した三葉虫が味覚を持っていたかどうかは不明です。三葉虫は生き残っていませんから。4億5千万年前に登場した無顎類(最初の脊椎動物)の一種ヌタウナギでは、味覚は毒物排除のため、嗅覚は周囲の環境把握のための手段でした。恐竜の時代、原始哺乳類が生き残るために頼ったのは、体の小ささと知覚の鋭敏さでした。知覚情報を処理するために、脳は新しい構造を必要としました。テキサス大学のティム・ロウは小さな化石をCTスキャンにかけることで、頭蓋骨の内部の立体画像を得て、そこから脳のモデルを構築してそのことを知ります。
現生人類の祖先がアフリカに登場したとき、脆弱な筋肉と大きな頭のギャップは生存に不利な要素でした。「大きな脳」は大量の酸素と栄養を要求しますが「小さな消化管」はそこまで仕事はできません。ホモ・エレクトスが生の餌だけで体を維持しようとしたら、計算上は1日に8時間咀嚼をしていないといけないそうです。食べもの探しの時間を考えたら、1日中「食べる」ことで費やすことになります。そこで人類は「有能なハンター」になると同時に「優秀なシェフ」になる道を選択しました。調理によって栄養吸収効率を高めるのです。木の実を割ったりひいたりし、さらに「火」を用いることをヒトは覚えました。それにつれて人体の構造は再配置を始めます。哺乳類では口の中の匂いは鼻には流れないようになっています(だから食事中でも外界の匂いを嗅ぐことができます)。しかしヒトでは咀嚼によって発生した匂いが嗅覚受容体に伝わるように口と鼻の設計が修正されました。
クラゲもミバエもバクテリアも、「苦み」を検知します。これは「毒物」に対する警告システムです。イソギンチャクは腸に取り込んだ苦い化合物を即座に体外に排出します。ところが人類は「苦み」を、顔をしかめながらでも取り込みました。その結果、ビール・コーヒー・ブロッコリーなどが食卓に並ぶことになりました。
人が牛を家畜化した頃、人の子供は乳糖分解酵素を持っていましたが、大人になるとそれは失われていました。しかし時間をおけば桿菌が乳糖を分解してくれます。また、乳糖を分解できる遺伝子が人類に広まっていきました。酪農は世界に広がり、各地で様々なチーズが生まれました。チーズ(とアルコール)を生み出した「発酵」は、印象的な味を生み、同時に人類に「文化」ももたらします。
「甘い味」は、生物学的に重要である、と訴えるシグナルです。だから人は甘い物に目がないのですが、現代社会は過剰な糖に満ちています。アメリカ人は一人あたり一日に165グラムの砂糖(小さじ40杯分)を消費しているそうです。世界全体でも2013年には70グラム。脳科学では、甘みが「渇望」や「快楽」を司るニューロンや脳内伝達物質と密接な関係があることがわかってきています。
トウガラシの辛さは、人類にとっては「新しい味」でした。南アメリカにホモ・サピエンスが到達して初めて出会うことができたのです。化石記録によると、最低8000年前にはメキシコ中央部の人びとは野性のトウガラシを食べており、6000年前には栽培をしていたことがわかりました。日本だと縄文時代ですが、南北アメリカではその時代にすでに「激辛ブーム」があったようです。コロンブスがヨーロッパにトウガラシを持ち帰ると、あっという間に世界にトウガラシは広まっていきます。梅毒とどちらが速かったのかな? トウガラシの辛さは痛みと快感をもたらします。そして、激しい発汗も。トウガラシの辛み成分カプサイシンは、痛みと熱刺激の受容体に結合するのです。大きな謎は、なぜ人はトウガラシによってもたらされる痛みと刺激を「楽しむ」のか、です。「激辛ブーム」はありましたが「激苦ブーム」なんてありませんよね。
地球上にすでに存在する食材でレシピを作ったら、その数は理論上は数千兆になるそうです。しかしインターネットにあるレシピはせいぜい数百万。すると私たちは膨大な「味」をまだ知らないままでいるようです。本書には、在来の鰹節製作の手法でブタブシ(鰹の代わりに豚肉を用いたもの)を製作した人のことが紹介されていますが、一度食べてみたいものです。味覚で冒険することでヒトは進化してきたし、その道はまだ途中なのかもしれません。