ローマのコロッシウムは、今は廃墟同然ですが、かつての姿は今でもある程度わかりますし、そこで何が行われていたかも伝えられています。では、たとえば現在の野球場やサッカー競技場は、今から数千年経ったとき、もし“遺跡”として残っていたら「一体何に使われていたか」が未来人にきちんとわかるでしょうか? 人が多数周囲に集まって何かを見つめている、はわかると思うのですが。未来人がなんだかとんでもない想像をするのではないか、とは思えます。
【ただいま読書中】『旅する茶箱』堀内明美 著、 淡交社、2015年、1800円(税別)
旅のために茶道具一式を収める茶箱(とその中身のセット)の写真にその解説を添えた本です。
ページをめくる旅に新しいセットが登場して、見る方は飽きません。しかしこれだけのセットを組もうとしたら、美的センス(質)と小物の在庫(量)との両方がともに高い水準で必要になりそうです。
私が特に気に入ったのは、網代編みの茶籠に、黒茶碗・菊の模様の棗・ラオスの紬の茶杓袋・唐木の茶筅筒、という渋い組み合わせに、突然ベネチアングラスの細い瓶(金平糖を入れたそうです)が混じっている、というセットです。いやあ、粋だわ。
私はお茶の心得はありませんが、茶室は余計なものを一切そぎ落とした簡素なたたずまい、というイメージを持っています。しかしその“背後”に「在庫」がたっぷりあるからこその「余計なものの排除」ができるのだろう、と思えました。固定した茶室でさえ季節や天候や客によってしつらえを変える必要があります。まして「旅」の場合だったら「茶室」そのものが解体されてしまうのですからよほどきちんと準備をしておかないといけないわけですね。
茶道が茶室内に限定されたものではないことを、こうして“モバイル”の茶道具を見ることで気づかされました。茶道の精神って、“モバイル”にもなるんですね。
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