【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

未来を視る

2019-12-07 11:27:59 | Weblog

 「過去を見るのは後ろ向き、もっと前向きに未来を見よう」という主張があります。たしかにそれは一見正しい主張のように見えます。しかし「過去を見る」目的が「そこから学んで未来に生かす」だった場合には、「過去から学ばずやみくもに未来に突き進む」態度よりもはるかに前向きで生産的な未来志向と言えます。
 つまり、何か他人を評する場合には、「その態度」のあと(未来)も含めておかないと、本当に「未来」を視ることはできないのです。

【ただいま読書中】『移動と定住 ──日欧比較の国際労働移動』佐藤誠/アントニー・J・フィールディング 編著、 同文館、1998年、3400円(税別)

 1998年にヨーロッパでは単一通貨「ユーロ」が始まりました。アジアでは通貨不安による経済危機が起きています。そういった世界のなか、「グローバリズム」によって人びとは国境を越えて移動し、移動した先で定着する人も出ています。
 1995年日本で合法的に労働している外国人は50万足らず。非合法就労者は……おそらく70万人。それが今年は合法だけで140万人を超えています。話をややこしくするのは「在留外国人」です。95年には136万人。最大多数は韓国・朝鮮ですが、95年には49%。かつては「在日」と言えば韓国・朝鮮でしたが、どんどん多国籍化が進んでいます。
 高度成長期、日本では農村から都会へ若年人口が大量に移動しました。ほとんど人材が根こそぎされてしまい、日本社会が新たな労働力供給源を求めたのが、海外でした。かつて日本からハワイやアメリカ、中南米に多数の移民が向かいましたが、その裏返しのような感じです。ところでアジア各国では「労働力の送り出し」と同時に「外国からの労働力の受け入れ」も同時に行っています。世界はなんだかとっても流動的です。
 1988年に中国からの流入がどっと増えました。中心は上海からと黒竜江省からですが、上海からは就学や就職、黒竜江省からは「中国残留孤児(とその家族)」がその主力でした。上海からの多くは首都圏に居住しましたが、黒竜江省からの人たちは首都圏以外にも散らばっています。一言で「中国からの人」と言っても、中身は複雑そうです。
 1980年代半ばに始まったとされる日系ブラジル人の日本への「出稼ぎ」は長期化し、ポルトガル語に「Dekassegui」という言葉もできたそうです。90年には「出入国管理及び難民認定法」の一部改正で日系人の日本国内での在留活動の制限がなくなり、「ブラジル人」のコミュニティーは「生活者」としての側面が極めて強くなりました。その結果、日本経済が後退しても「出稼ぎブラジル人」は次々来日し、日本での快適な生活や居心地の良さを志向する傾向が強くなってきました。「量(貯蓄・生産中心)より質(消費やレジャーも加味)」と言うことが可能でしょう。そういった「ブラジル人」の行動は、土着の日本人にも文化的影響を強く与えるはずです。さらに子供の教育や地域コミュニティーとの関係など、政治的な影響も出ています。
 「在日朝鮮人問題」も根が深いものです。本書の論文では、「戦時中の強制連行の過酷さ」も問題だが、「1930年代にすでに日本社会に根を下ろしこの社会の一員になっていたという事実と、彼らを一律に『外国人』とした(「一民族一国家」の理念による)戦後政策の“齟齬"」の方が重大な問題だ」としています。感情より論理を使う態度です。朝鮮では1910年代の「土地調査事業」で小作農民が土地を追われ、20年代の「産米増殖計画」で農村からの人口流出が加速され、30年代の植民地資本主義形成によって農村から(日本を含む)都市部に労働力が流出し……それぞれ「性格」が違う人口移動なんですね。そして、上記の「ブラジル人」と同じく「朝鮮人」は「生活者」として日本社会に定着していたわけです。そこに戦時下の強制徴用が加わって、話をややこしくします。GHQのマッカーサーは在日朝鮮人を「敵国人」と定義し警戒していました。だからでしょう、「(日本からの)解放国民」には本国への片道切符は供与するが、一度帰国した人は日本への再入国は禁止、としました。マッカーサーは具体的に何を警戒していたんでしょうねえ。これがフランスのように、亡命政権を作ったり盛んにレジスタンスをやって連合国にアピールしていたら、話は違ったかもしれないのですが。
 1989年に冷戦が終結したとき、「東から西に大量の移民が流入(侵入)してくるに違いない」という予想がけっこう大きな声で語られていました。しかし実際にはそんな動きは生じませんでした。なぜでしょう? ソ連という「重し」がなくなったため、自分の土地を離れたくなかったのではないか、という仮説もあるそうです。でもたぶんいろんな事情が絡んでいるのでしょうね。そして、本書の後に「大量の難民」問題が発生します。これは私の推測ですが「難民」という典型的な人はたぶん存在しないでしょう。いくらかの類型分類は可能でしょうが、それでも「それぞれ違う事情を抱えた難民」が存在しているのではないかな? となるとその「問題」を解決するためには「たった一枚の処方箋」は存在しないのではないかな?




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